第130話「帰還」
「二人は……私が守ります」
かすれた声が、森の中に響いた。
リアの前に、セシルが立っていた。
いや、立っているというには、あまりにも危うい。
顔色は悪く、唇には血の気がない。足元はふらつき、呼吸も浅く荒い。胸元から腕にかけては、あの日の魔人化の名残のような薄い黒い筋が浮かんでいた。
だが、その目には理性がある。
瘴気に呑まれた獣の目ではない。
誰かを傷つけるための目でもない。
ただ、守ろうとする目だった。
「セシル……」
リアの声が震える。
ルークも、木の根元に倒れたまま呆然とその姿を見つめていた。
「セシル……お前……」
セシルは振り返らない。
リアの手を握ったまま、前だけを見ている。
ヘルガは血の流れる肩を押さえながら、セシルの身体に浮かぶ黒い筋を見た。
「魔人……?」
一拍置く。
ヘルガの目が細くなる。
「……いや、瘴気は感じない……残り香のようなものか」
完全な魔人化ではない。
だが、普通の人間でもない。
命を繋ぎ止めるために、身体の奥に残った何かが反応しているのだろう。ヘルガには、それがひどく危うい力に見えた。
「魔人だ!」
ハンターの一人が叫んだ。
その声をきっかけに、周囲の空気が一気に変わる。
「やはり反逆者どもは魔人を匿っていた!」
「生かすな!」
騎士たちが剣を構え直し、ハンターたちの顔にも明確な殺意が宿った。
新騎士団長は冷たい目でセシルを見据える。
「魔人化個体を確認」
そして、短く命じた。
「対象を追加する」
リアが息を呑む。
新騎士団長は続ける。
「危険だ。王子と王女ごと制圧しろ」
「制圧?」
ヘルガの声が低くなった。
「殺す気のくせに、綺麗な言葉を使うんじゃないよ」
ゼインは眉一つ動かさない。
「これで、こちらの正当性はより明確になりましたね」
ヘルガが睨む。
「都合よく言ってんじゃないよ」
「事実です。反逆者の傍に魔人が現れた。それだけで十分でしょう」
「本当に腐ったね、お前」
ゼインは答えなかった。
代わりに、新騎士団長が剣を掲げる。
「魔人を中心に攻めろ。王子と王女を逃がすな」
騎士たちが動いた。
*
最初に飛び込んできた騎士の剣を、セシルは右腕で弾いた。
黒い爪のような力が、一瞬だけ指先に浮かび上がる。
金属音が響き、剣が横へ逸れた。
「近づかないでください」
セシルの声は弱い。
だが、言葉だけははっきりしていた。
「この人たちには……指一本触れさせません」
次の騎士が盾を構えて迫る。
セシルはリアの前から動かなかった。
黒い筋が腕を這い、爪のような影が伸びる。それが盾を叩き、騎士の身体を後ろへ吹き飛ばした。
「ぐっ!」
騎士が地面を転がる。
リアはセシルの背中を見つめていた。
その背中は、震えている。
強いから立っているのではない。
立たなければならないから、立っている。
それだけは、リアにも分かった。
「セシルさん、無理しないで……!」
「大丈夫です」
セシルは振り返らずに答える。
「私は……大丈夫です」
どう聞いても、大丈夫な声ではなかった。
それでも、セシルは退かない。
ルークが立ち上がろうとする。
「くっ……!」
足に力が入らない。木に叩きつけられた背中が痛み、呼吸をするだけでも胸が軋む。
それでも、ルークは剣を握り直した。
「セシルだけに……任せられるか……!」
「ルークさん、動かないでください」
セシルが言う。
「今は……私が前に出ます」
その言葉に、ルークは歯を食いしばる。
前に出なければならないのは自分のはずだった。
リアを守るのは、自分の役目のはずだった。
なのに今、自分はまた守られている。
その事実が悔しかった。
ヘルガはセシルの状態を一目で見て取った。
長くは持たない。
だが、今なら。
今この瞬間だけなら、ルークとリアの前を任せられる。
ヘルガは血の流れる肩を無視し、セシルへ叫んだ。
「王子と王女は頼んだよ!」
セシルが苦しげに頷く。
「……はい」
ヘルガは剣を握り直した。
「私が道を切り開く!!」
その瞬間、ヘルガの纏う闘気が一段強く膨れ上がった。
今までとは違う。
守りながら戦うための動きではない。
前へ進むための動きだった。
ヘルガが地面を蹴る。
盾を構えていた騎士が、真正面から弾き飛ばされた。
「死にたくないやつは退きな!!」
二人目。
三人目。
ヘルガの剣が唸る。
峰で鎧を叩き、肩で盾を砕き、足払いで騎士を転がす。拘束魔法が足元に展開されても、ヘルガは闘気を叩きつけるようにして粉砕した。
弓を構えていたハンターが目を見開く。
「速――」
言い終える前に、ヘルガの拳がその腹へ突き刺さった。
男が膝から崩れ落ちる。
包囲の一角が、わずかに揺らいだ。
「道が開いたっす!」
トムが叫ぶ。
グレッグも担架を担ぎ直す。
「今のうちだ! 走れ!」
だが、すぐには動けない。
セシルは立っているのもやっとだ。ルークは負傷しており、リアはセシルの手を離せない。エマも荷物と薬を抱えたまま、全員を支えようとしている。
隙は生まれた。
だが、それを活かすだけの足が、今の彼らには足りなかった。
*
セシルは、迫る剣を弾いた。
最初の一撃は、弾き飛ばせた。
次の一撃は、受け止めた。
その次は、受け止めた反動で膝が沈んだ。
「っ……!」
黒い筋が薄くなる。
指先に浮かんでいた爪のような影も、少しずつ形を保てなくなっていた。
リアが気づく。
「セシル……?」
「大丈夫です」
セシルは首を横に振る。
「まだ……大丈夫です」
だが、明らかに大丈夫ではなかった。
呼吸は荒く、腕は震えている。立っているだけで、身体の限界を超えているのが分かる。
それでも、セシルはリアの前から退かない。
「私のことはいいので……先に行ってください」
「そんなことできるわけない!」
リアが泣きそうな声で叫ぶ。
セシルはかすかに笑おうとした。
だが、それすら上手くできない。
「いいんです」
黒い筋がさらに薄くなる。
「私は……そうするために……」
言葉の途中で、別の騎士が斬り込んできた。
セシルは腕を上げる。
黒い爪は出なかった。
「……っ」
剣を受けきれず、セシルの身体が後ろへ弾かれる。
リアが慌てて支えた。
「セシル!」
セシルは膝をつく。
ヘルガが振り返った。
「ちっ……不味い!」
ゼインはその様子を冷静に見ていた。
「やはり、弱っているようですね」
新騎士団長もすぐに判断する。
「今だ。王子を押さえろ」
騎士たちの動きが変わった。
狙いがセシルからルークへ移る。
ヘルガは道を切り開こうとしていた分、少し距離がある。戻ろうとしたが、その前に盾持ちの騎士たちが立ちはだかった。
「邪魔だ!」
ヘルガが一人を叩き伏せる。
だが、二人目、三人目が時間を稼ぐ。
その間に、新騎士団長がルークへ向かって進んでいた。
ルークは剣を構える。
「リアを連れて下がって!」
声はまだ震えている。
だが、目だけは逃げていなかった。
リアはセシルを支えながら叫ぶ。
「ルーク!」
新騎士団長が剣を振る。
ルークは受けた。
だが、力の差は明白だった。
一撃で剣が弾かれる。
二撃目で体勢が崩れる。
三撃目で、ルークは地面へ転がった。
「ぐっ……!」
新騎士団長は、倒れたルークを見下ろした。
「第三王子ルーク」
冷たい声だった。
「王命により、ここで処断する」
リアの顔から血の気が引く。
「やめて……!」
セシルが立ち上がろうとする。
だが、身体が動かない。
指先に力を込めても、黒い爪はもう出なかった。
「……っ、動いて……!」
ヘルガが叫ぶ。
「やめろ!!」
だが、敵がその前に立ちはだかる。
ルークは地面に倒れたまま、リアを見た。
泣きそうな顔の妹。
その隣で、必死に手を伸ばすセシル。
自分はまた守れなかった。
ルークは唇を噛んだ。
「リア……ごめん」
新騎士団長の剣が振り上げられる。
森の音が遠ざかる。
リアの叫びも、ヘルガの怒号も、セシルのかすれた声も。
すべてが遅く聞こえた。
剣が、振り下ろされる。
その瞬間だった。
遠くから、異様な音が響いた。
ブォォォォォォォォォォォン!!
全員の動きが止まる。
新騎士団長の剣も、空中で止まった。
「なんだ!?」
「魔物か!?」
「音がどんどん大きくなってるぞ!」
音は、異常な速度で近づいてくる。
森の奥。
木々の隙間。
白い光が見えた。
一瞬だけ、朝日を反射した何かかと思った。
違う。
それは、白くて、妙にキラキラした乗り物だった。
そして、その上に三人乗っていた。
「どけどけどけどけぇぇぇぇぇ!!」
一番前で叫んでいるのは、ユウヤだった。
真ん中では、アルヴェルトが顔面蒼白で叫んでいる。
「止まってくれ! 本当に止まってくれ!!」
最後尾のレオルドが、なぜか比較的落ち着いた声で言った。
「ユウヤ! 前方に人が!」
「見えてるわ!!」
ユウヤが叫び返す。
「でも、急停止したら昨日みたいに吹っ飛んじまうだろ!!」
「それはそうですが!」
「そうですがじゃねえ!!」
白い影が、一直線に突っ込んでくる。
新騎士団長が、ルークに剣を振り下ろそうとした姿勢のまま振り返った。
「な――」
直後。
ドゴォォォォォン!!
白いセグウェイが、新騎士団長を鎧ごと跳ね飛ばした。
新騎士団長の身体が宙を舞い、近くの木へ叩きつけられる。重い音が響き、そのまま地面へ崩れ落ちた。
森が静まり返った。
だが、セグウェイは止まらない。
「止まれ止まれ止まれぇぇぇぇ!!」
ユウヤが叫ぶ。
次の瞬間、白いセグウェイが木の根に乗り上げた。
「「「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」」」
三人の身体がまとめて宙に浮く。
ユウヤが地面を転がり、アルヴェルトがその上を越え、レオルドがなぜか綺麗に受け身を取った。
白いセグウェイは数回跳ねた後、何事もなかったかのように、きらきらと光りながら地面に止まる。
しばらく誰も動けなかった。
最初に顔を上げたのはユウヤだった。
土まみれの顔で周囲を見回す。
「やべえ!! 誰か轢いちまったぞ!!」
アルヴェルトが青ざめた顔で起き上がる。
「今のは完全に轢いたよね!?」
レオルドは吹き飛ばされた新騎士団長の方を見た。
「……敵のようです」
ユウヤは即答した。
「ならセーフ!!」
「全然セーフではないと思うよ!?」
アルヴェルトが叫ぶ。
そのやり取りに、森の空気が一瞬だけ壊れた。
あまりにも場違いな登場。
あまりにも馬鹿げた乗り物。
あまりにもひどい救出方法。
だが、次の瞬間。
ユウヤの顔から、笑いが消えた。
彼はゆっくりと立ち上がる。
周囲を見る。
傷だらけのヘルガ。
膝をついたセシル。
倒れたルーク。
泣きそうな顔のリア。
担架の傍で息を荒げるグレッグとトム。
エマの震えた手。
そして、それを囲む騎士たちとハンターたち。
ユウヤの目が、細くなる。
「おいおい……」
声が低くなった。
「俺がいねえ間に、ずいぶん好き勝手やってくれたじゃねえか」
レオルドが静かに立ち上がる。
そして、腰の剣を抜いた。
「ただいま戻りました」
その声は穏やかだった。
だが、剣先に宿る闘気は、まったく穏やかではない。
周囲の騎士たちが、一斉に息を呑む。
レオルド・フォン・アルヴェイン。
王国最強のAランクハンター。
その姿を見間違える者はいなかった。
そして、もう一人。
アルヴェルトが土を払いながら立ち上がる。
いつもの軽薄な笑みはない。
第一王子として、まっすぐ前に出た。
「待たせたね、ルーク。リア」
ルークは地面に倒れたまま、目を見開く。
「兄上……?」
リアも、セシルを支えながら震える声を漏らした。
「アルヴェルト兄様……?」
森の中に、ざわめきが広がる。
第一王子。
行方不明だった正統な王位継承者。
その男が、今、ルークとリアの前に立っていた。




