第129話「目覚め」
森の奥で、無数の松明が揺れていた。
一つではない。
二つでもない。
木々の隙間の向こうで、橙色の灯りが横へ広がるように並んでいる。
それが、確実にこちらへ迫っていた。
ヘルガは森の奥に揺れる灯りを見据えたまま、低く呟く。
「……間に合わなかったか」
ルークの胸が冷たくなる。
「ヘルガさん……?」
ヘルガは周囲を見回した。
東、南、西。
松明の灯りは、少しずつ間隔を詰めながら広がっている。
北側にはまだ灯りが少ない。
だが、安全とは言えない。むしろ、そこへ追い込むつもりなのだろう。
「東、南、西……塞がれたな」
ヘルガは短く言った。
「北も空いてるように見せてるだけだ。抜けようとすりゃ、そこで待ち構えてる」
エマが息を呑む。
グレッグとトムは、セシルを乗せた担架を担いだまま固まっていた。
リアは、セシルの手を握りしめている。
「それじゃ……」
「包囲されるぞ」
ヘルガの声に迷いはなかった。
だが、その声音は重い。
セシルを担架に乗せたまま、森を強引に突破するのは難しい。こちらには戦える者が少なすぎるし、敵はその弱点を分かっている。
「止まるな」
ヘルガは言った。
「少しでも開いてる場所を探す。固まって動け。離れるんじゃない」
一行は再び動き出した。
だが、数十歩も進まないうちに、前方の木々の間から人影が現れる。
騎士が数名。
その後ろに、ハンターたち。
さらに左右からも足音が近づいてきた。
完全に回り込まれている。
先頭に立っていたのは、灰色の鎧をまとった男だった。整った顔立ちをしているが、その目に温度はない。
鎧の胸元には、騎士団長の印が入っていた。
おそらく、この男がクリスの後任なのだろう。
レオルドの兄、クリスが騎士団長から降格されたという話は、本当らしい。
その隣には、痩せた体格の男が立っていた。
後任のハンターギルドマスター、ゼイン。
ヘルガは二人を見て、口元を歪めた。
「ずいぶん豪勢な見送りじゃないか」
新騎士団長が一歩前へ出る。
「ルーク・フォン・レグナ、リア・フォン・レグナ。両名は国家反逆罪の容疑者である」
その声は森の中へよく通った。
「王命により、身柄を確保する」
ルークがリアの前へ半歩出る。
だが、ヘルガが片手でそれを制した。
「身柄確保ねぇ」
ヘルガはゼインを睨む。
「後任が、ずいぶん犬臭くなったもんだ」
ゼインは眉一つ動かさなかった。
「組織を守るためです」
「馬鹿な王子に尻尾を振ってか?」
「王命に従うことが、今のギルドを守る最善です」
「つまらん男だね」
ヘルガの声に、露骨な嫌悪が滲む。
ゼインは淡々と返した。
「あなたは感情で動きすぎたのです」
「情のないギルドなんざ、ただの人狩り集団だろうが」
「秩序を乱すよりはましです」
二人の視線がぶつかる。
かつて同じ組織にいた者同士とは思えないほど、そこにあるものは冷たかった。
新騎士団長が剣の柄に手を置く。
「これ以上の問答は不要だ。反逆者を引き渡せ。抵抗すれば、全員を処罰する」
ヘルガは鼻で笑った。
「処罰ねぇ」
その目が鋭く細まる。
「王都へ連れ帰る気、本当にあんのか?」
新騎士団長は答えなかった。
代わりに、ゼインが静かに口を開く。
「王都へ戻す必要はありません」
空気が凍った。
ルークの顔色が変わる。
リアが、セシルの手を強く握る。
ヘルガは低く呟いた。
「……ここで殺せってことか」
ゼインは表情を変えない。
「前回の混乱を繰り返すわけにはいきませんので」
前回。
処刑場でユウヤとレオルドが現れ、すべてをひっくり返したあの日のことだ。
今度は、人目のない森の中。
証人も、民衆も、英雄もいない。
ここで始末すればいい。
そういう意味だった。
ヘルガの闘気が、静かに膨れ上がる。
「なら、話は終わりだ」
次の瞬間、ヘルガが動いた。
地面を蹴る音すら聞こえない。
一瞬で前へ詰め、新騎士団長の横にいた騎士を鎧ごと殴り飛ばす。
「構えろ!!」
騎士団長の号令が飛ぶ。
だが、もう遅い。
ヘルガは二人目の懐へ潜り込み、拳を腹へ叩き込む。三人目が盾を構えるより早く膝を蹴って体勢を崩し、そのまま肩で弾き飛ばした。
「囲め!」
ハンターたちが散る。
だが、先ほどの小部隊とは違っていた。
距離を取る。
真正面からは来ない。
弓持ちが木の陰へ下がり、魔法使いが詠唱を始める。騎士たちは盾を並べ、ヘルガを足止めすることに徹していた。
「学習してるじゃないか」
ヘルガが舌打ちする。
直後、網が飛んできた。
ヘルガは半歩でかわし、飛んできた網を掴んで逆に引く。網を投げたハンターが前へつんのめったところへ、蹴りが入った。
「ぐあっ!」
男が地面を転がる。
だが、その隙に別の方向から矢が飛ぶ。
ヘルガは剣を抜き、矢を弾いた。
さらに足元へ魔法陣が広がる。
拘束魔法。
「ちっ」
ヘルガは闘気を叩きつけるようにして魔法陣を砕く。
しかし、一瞬だけ動きが止まった。
その一瞬を、敵は逃さない。
盾持ちの騎士が三人同時に突っ込んでくる。
ヘルガは一人を叩き伏せ、二人目を蹴り飛ばす。だが、三人目が横へ回り込んだ。
狙いはヘルガではない。
その後ろ。
ルークたちだった。
「させるか!」
ヘルガが振り返る。
だが、その前に、ルークが剣を抜いていた。
「リア、下がって」
声は震えていた。
それでも、ルークはリアの前に立った。
騎士の剣が振り下ろされる。
ルークは剣で受けた。
だが、重い。
一撃で膝が沈みかける。
「ルーク!」
リアの悲鳴が上がる。
「前には出ないっす」
その横から、トムが飛び込んだ。
ただし、突っ込んだわけではない。
担架の前に立ち、両手で剣を構えている。
「でも、ここは通さないっす」
昨日のように、無鉄砲に前へ出てはいない。
だが、逃げもしない。
セシルの担架を、リアを、ルークを守るために、そこに立っていた。
グレッグも担架の反対側へ立つ。
料理人の太い腕が、倒れかけた騎士の盾を押し返した。
「料理人舐めんじゃねえ」
「グレッグさん!」
「いいから下がってろ!」
グレッグは歯を食いしばりながら、騎士の体当たりを受け止める。トムも剣を震わせながら、必死に立っていた。
前には出ない。
ルークとリアを守る。
その意志だけで、二人は踏みとどまっていた。
エマはリアの肩を支えながら、荷物袋から小瓶を取り出す。
「リア様、こっちへ!」
「でも、ルークが……!」
「今は下がってください!」
エマは薬瓶を騎士の足元へ投げつけた。
割れた瓶から、刺激臭のある煙が上がる。
「うっ!?」
騎士が一瞬ひるむ。
その隙に、ルークは後ろへ下がった。
だが、状況は悪くなる一方だった。
ヘルガは強い。
間違いなく、この場の誰よりも強い。
だが、一人では全てを守れない。
右で矢を弾けば、左から魔法が飛ぶ。前の盾持ちを崩せば、後ろのハンターが回り込む。ヘルガを倒せなくても、ルークたちを狙えばいい。
敵はそれを理解していた。
新騎士団長が剣を構えたまま、短く命じる。
「正面から相手をするな。足を止めろ」
騎士たちが一斉に動きを変える。
倒すためではない。
止めるため。
遅らせるため。
ヘルガの一歩を潰すため。
新騎士団長の目は、ヘルガではなく、その背後にいるルークたちを見ていた。
「ヘルガ一人を抑えれば、それで終わりだ」
「黙れ」
ヘルガが踏み込む。
剣と剣がぶつかる。
重い音が森に響いた。
新騎士団長は、弱くなかった。少なくとも、先ほどの追っ手とは違う。ヘルガの一撃を正面から受け止めるだけの力はあった。
「以前のあなたなら、一人で全てを制圧できたかもしれない」
新騎士団長は静かに言った。
「だが、今のあなたにはそれは不可能です」
「んなこと、言われなくても分かってるよ!」
ヘルガは押し込む。
だが、横から飛んできた矢を避けるために、踏み込みをずらさざるを得なかった。
その隙に、魔法の鎖がヘルガの足元へ絡みつく。
「くそっ!」
闘気で引き千切る。
だが、また一瞬動きが止まる。
その間に、ルークの前へ別の騎士が回り込んでいた。
「ルークさん!」
リアが叫ぶ。
ルークは剣を構える。
だが、相手は大人の騎士だ。体格も腕力も違う。
受けた瞬間、ルークの身体が大きく弾かれた。
「ぐっ……!」
背中から木へ叩きつけられ、息が詰まる。
「ルーク!!」
リアが駆け寄ろうとする。
だが、その前にハンターが回り込んだ。
「動くな」
その刃が、リアへ向けられる。
エマがリアを庇う。
「やめてください!」
ハンターの顔に迷いはなかった。
その目を見て、ヘルガは理解した。
こいつらは本気だ。
捕らえるつもりなどない。
始末する気で来ている。
「……ちっ、お前ら本気で王子と王女を殺そうってのかい!!」
ヘルガの声が響く。
その瞬間、ヘルガの肩に矢が刺さった。
「っ……!」
リアが息を呑む。
「ヘルガさん!」
「騒ぐな!」
ヘルガは矢を引き抜き、なおも前へ出る。
肩から血が流れ、呼吸もさらに荒くなっている。それでも彼女は止まらない。
止まれば、全員死ぬからだ。
グレッグが騎士に押し倒されかける。
トムも剣を弾かれ、尻もちをついた。
「くっ……!」
「トム!」
ルークは立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
その時、別のハンターがリアへ向かって剣を振り上げた。
「終わりだ!」
ルークが目を見開く。
「リア!!」
ヘルガが振り向く。
だが、間に合わない。
距離がある。
足元には、まだ切れ残った魔法の鎖。
肩からは血が流れている。
間に合わない。
ハンターの刃が、リアへ迫る。
リアは反射的に目を閉じた。
担架の布が、ぎしりと軋んだ。
リアの手を握っていたセシルの指に、わずかに力が入る。
次の瞬間、黒い筋が彼女の腕を這うように浮かび上がった。
セシルの腕が、跳ねるように伸びる。
ハンターが吹き飛んだ。
「……え?」
リアが目を開く。
そこには、担架で眠っていたはずのセシルが、リアの手を支えにして身を起こしていた。
焦点の合わない瞳。
血の気のない顔。
それでも、その目は確かにリアを見ていた。
セシルの腕が動く。
次の瞬間、近くにいたハンターの剣が黒い爪のようなものに弾かれた。
金属音が響く。
ハンターが驚愕に目を見開く。
「なっ……!?」
セシルの身体は震えていた。
今にも崩れ落ちそうだった。
それでも彼女は、リアの手を握ったまま前に出る。
そして、かすれた声で呟いた。
「……ルークさん」
ルークが息を呑む。
セシルは続ける。
「リアさん」
胸元の黒い筋が、淡く脈打つ。
だが、その瞳には理性があった。
罪悪感も、痛みも、恐怖も。
それでも、守るという意志だけは、はっきり宿っていた。
「二人は……私が守ります」
森の中に、その声が静かに響いた。




