第128話「迫る包囲網」
森の中を、一行は言葉少なに進んでいた。
先頭を歩くヘルガの背中は、いつも通り大きい。
だが、ルークには分かっていた。
先ほどの戦闘の後、ヘルガの呼吸は確かに荒れていた。
剣すら抜かず、騎士や冒険者たちをまとめて叩き伏せた。
誰が見ても圧倒的だった。
けれど、ヘルガ自身は言った。
昔なら息も上がっていない、と。
その言葉が、ルークの胸に重く残っている。
後ろでは、グレッグとトムが担架を担いでいた。
急ごしらえの担架の上には、セシルが横たわっている。
リアはその傍を離れない。
歩きながらも、何度もセシルの顔色を見ている。
エマも荷物を背負い、周囲を警戒しながら歩いていた。
誰もが疲れ切っていた。
それでも止まれない。
止まれば、追いつかれる。
「……ヘルガさん」
担架を担いでいたトムが、息を整えながら声をかけた。
「さっきの連中、ヘルガさんに手も足も出なかったっすね」
「調子に乗るんじゃないよ」
ヘルガは前を向いたまま答えた。
「けど、本当にすごかったっす。元Aランクって、あんなに強いんすね」
「うるさい。無駄口叩く余裕があるなら足を動かせ」
「はいっす……」
トムはすぐに口を閉じる。
だが、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
その時、ヘルガが低く続ける。
「次もそうとは限らん」
一瞬で、空気が引き締まった。
「さっきのは先遣隊みたいなもんだ。連携も甘い。数も少ない。こっちを甘く見てた」
ヘルガは森の奥を見据えたまま言う。
「これから来る連中は、もっと準備してくるはずだ」
ルークは小さく息を呑んだ。
グレッグとトムも、担架を握る手に力を込める。
ヘルガは振り返らずに続けた。
「私が目星をつけてる場所がある。そこまで行ければ、一度身を隠せる」
「どんな場所なんですか?」
エマが聞く。
「昔、ハンターが使ってた仮小屋だ。今は誰も使ってない。水場も近い」
「そこなら……少しは休めますか?」
リアが小さく問う。
ヘルガはわずかに間を置き、答えた。
「休むためにも、まずは辿り着くことだ」
それ以上は言わなかった。
森は、まだ深い。
枝葉の隙間から差し込む光は細く、足元の土は湿っている。
担架を担ぐグレッグとトムの足取りは、少しずつ重くなっていた。
それでも、誰も弱音を吐かない。
弱音を吐いたところで、状況は変わらないからだ。
*
しばらく進んだところで、ヘルガが不意に足を止めた。
右手を軽く上げる。
後ろの全員も、すぐに止まった。
「……静かにしろ」
その声は低かった。
ヘルガはゆっくりとしゃがみ、地面に目を落とす。
ルークもつられて視線を向けた。
湿った土の上に、いくつもの足跡が残っている。
さらに、木の根元には踏み消されたような焚き火の跡。
近くの枝も、不自然に折れていた。
誰かが最近ここを通っている。
いや、通っただけではない。
ここで休んでいた。
「騎士ですか?」
ルークが小声で問う。
ヘルガは首を横に振った。
「いや……騎士の歩き方じゃない」
「冒険者、ですか?」
「たぶんな」
ヘルガの目が細くなる。
「しかも、そこそこ森に慣れてる」
トムが唾を飲んだ。
「追っ手っすかね……」
「それを確かめる」
ヘルガは立ち上がり、周囲の気配を探るように目を閉じた。
数秒。
森の中を風が抜ける。
葉が揺れる。
その中で、ヘルガの目が開いた。
「いるな」
そう言うなり、ヘルガの姿が消えた。
「えっ」
トムが声を漏らす。
次の瞬間。
少し離れた茂みの奥で、短い悲鳴が上がった。
「ぐっ!?」
すぐに何かが地面へ押さえつけられる音。
ルークたちが慌てて追いつくと、そこには一人の男がいた。
革鎧姿の冒険者だった。
腰に短剣を差し、背中には小さな弓を背負っている。
森の中を動きやすい装備だ。
その男の首筋に、ヘルガの手刀が添えられていた。
「動くな」
「ひっ……!」
男は完全に怯えていた。
ヘルガは片手で男の腕をねじり上げたまま、もう片方の手で懐を探る。
そして、一枚の札を引き抜いた。
それを見た瞬間、ルークの顔色が変わる。
騎士団の通行証だった。
「冒険者が、なぜ騎士団の通行証を持っている」
ヘルガの声が低くなる。
男は答えない。
ヘルガは腕をさらに捻った。
「ぐあっ!」
「答えろ。今ここで腕を折られるか、喋って楽になるか。選べ」
「い、言う! 言うから!」
男は慌てて叫んだ。
ヘルガは手を緩めない。
「誰の命令だ」
「ギ、ギルドだ! 新しいギルドマスターの命令で……!」
「ゼインか」
ヘルガの目がさらに冷たくなる。
男は何度も頷いた。
「そ、そうだ! ゼインさんから正式に捜索命令が出たんだ! 王命だって……従わないと、こっちまで反逆者扱いになるって……!」
「騎士団は」
「一緒に動いてる! 新しい騎士団長も出てる! 森を区画ごとに潰して、反逆者を追い詰めるって……!」
ルークが息を呑む。
新しい騎士団長。
レオルドの兄であるクリスは、もう完全に降ろされたのだ。
ヘルガはさらに問い詰める。
「本隊はどこだ」
「し、知らない! いや、全部は知らない! 俺たちは先に森の様子を見ろって言われただけで……!」
ヘルガの手に力が入る。
「なら、知ってることだけ喋れ」
男の顔が青ざめた。
「今日中に、この周辺へ本隊が来る予定だ! 騎士団とギルドの混成部隊だ! 松明を持った班が東と南から森へ入ってる! 西側にも見張りがいる!」
「北は」
「北はまだ薄い! でも、逃げ道を塞ぐために回り込むって話だった!」
全員の顔色が変わった。
ヘルガが低く舌打ちする。
「……思ったより早え」
男は震えながら続ける。
「た、頼む……俺は命令されただけだ。王族とか反逆とか、そんなの詳しく知らないんだ……!」
ヘルガはしばらく男を見下ろしていた。
やがて、小さく息を吐く。
「だろうな」
次の瞬間、ヘルガの手刀が男の首筋へ落ちた。
男は短く呻き、そのまま意識を失う。
トムが目を丸くした。
「殺したんすか?」
「気絶させただけだ」
ヘルガは男の身体を引きずり、近くの茂みへ押し込む。
さらに、持っていた縄で手足を縛り、猿轡を噛ませた。
「起きても、すぐには動けん」
「殺さないんですね」
ルークが言う。
ヘルガは男を一瞥してから答えた。
「こいつは命令で動いてるだけだ。殺す理由はない」
それから、全員へ視線を向ける。
「移動だ」
短い言葉だった。
だが、その声には先ほどまで以上の緊張があった。
「今すぐだ」
誰も逆らわなかった。
グレッグとトムが再び担架を担ぐ。
リアはセシルの毛布を押さえ、エマは荷物を背負い直す。
ルークも、震えそうになる手を握りしめた。
北はまだ薄い。
それが唯一の逃げ道かもしれない。
だが、そんなことは敵も分かっている。
時間はほとんどなかった。
*
一行は、再び森の奥へ進み始めた。
だが、先ほどまでとは違う。
一歩進むたびに、背後から何かが迫ってくるような感覚があった。
鳥の羽ばたき。
枝の折れる音。
遠くで誰かが発したような小さな声。
その全てが、追っ手の気配に思える。
グレッグとトムの息は荒い。
担架の上のセシルは、変わらず目を覚まさない。
リアはその傍で、何度も唇を噛んでいる。
エマが小声で言った。
「このまま、逃げ切れるんでしょうか……」
誰も答えられなかった。
ヘルガだけが、前を向いて歩いている。
だが、その表情は険しい。
彼女の頭の中では、すでに道が組み立てられているのだろう。
どこへ逃げるか。
どこで隠れるか。
どこで足止めするか。
けれど、そのどれもが万全ではない。
包囲網は、思ったよりずっと早く狭まっていた。
やがて、森の奥に薄い光が見えた。
最初、ルークは朝日の反射かと思った。
だが違う。
それは揺れていた。
一つではない。
二つでもない。
木々の隙間の向こうで、いくつもの灯りが横へ広がるように並んでいる。
松明だった。
騎士団。
冒険者。
捜索隊。
遠くからでも、それだけは分かった。
リアが小さく息を呑む。
エマが口元を押さえる。
グレッグとトムも、担架を担いだまま足を止めた。
ルークはヘルガを見る。
「ヘルガさん……?」
ヘルガはしばらく、森の奥に揺れる灯りを見ていた。
そして、低く呟く。
「……間に合わなかったか」
その声は、今までで一番重かった。
ルークの胸が冷たくなる。
「どういう……」
ヘルガはゆっくりと振り返った。
その目は、まだ折れていない。
だが、状況が最悪であることは、隠しようもなかった。
「包囲されるぞ」
森の奥で、無数の松明が揺れていた。




