第127話「孤軍奮闘」
翌朝。
薄い霧が、森の地面を這っていた。
王都郊外の森は、まだ夜の名残を抱えている。
木々の隙間から差し込む朝の光は弱く、湿った空気が肌にまとわりつくようだった。
ヘルガは、小屋の入口で腕を組んでいた。
一晩眠ったところで、誰の顔色も大して変わらない。
リアはセシルの傍から離れようとせず、エマも疲労が抜けきっていない。
ルークも、ほとんど眠れていないことは顔を見れば分かった。
それでも、ヘルガの口から出た言葉は容赦なかった。
「ここはもう使えない」
小屋の空気が、ぴたりと止まる。
ルークが顔を上げた。
「……もう、見つかったのですか?」
「まだだ」
ヘルガは短く答える。
「だが近い。王都周辺の森にまで、連中の目が入り始めてる。ここに留まるのは悪手だ」
彼女は外を一度見やり、低く続けた。
「包囲網が出来つつある。今日中に移動するぞ」
迷っている余裕はなかった。
皆、無言で動き始める。
エマが荷物をまとめ、リアはセシルの毛布を整える。
グレッグとトムは外へ出て、木の枝と布を使って急ごしらえの担架を作り始めた。
「これで運べるっすかね」
トムが枝を縛りながら言う。
グレッグは手を止めずに答えた。
「運ぶしかねぇだろ」
不格好ではある。
だが、今は見た目を気にしている場合ではなかった。
セシルは、まだ眠ったままだ。
いや、眠っているという言葉すら優しすぎるのかもしれない。
胸は上下している。
傷も少しずつ塞がっている。
だが、呼びかけても反応はない。
目を覚ます気配もない。
治癒魔術師を呼ぶこともできない。
王都に戻ることもできない。
薬草と応急処置だけで、ただ命を繋いでいる状態だった。
ルークはその寝顔を見つめ、唇を噛んだ。
こんな状態の仲間を抱えたまま、さらに逃げ続けなければならない。
だが、やるしかなかった。
*
日が高くなる前に、一行は森の中へ踏み込んだ。
先頭をヘルガ。
その後ろにルーク。
担架を担ぐグレッグとトム。
リアはずっとセシルのすぐ傍につき、エマは最後尾寄りを歩いている。
森の中は静かだった。
だが、その静けさがかえって不気味だった。
鳥の鳴き声一つにも、誰かが身を強張らせる。
枝の折れる音がすれば、全員が足を止める。
しばらく歩いたところで、リアがふいに足を止めかけた。
「……私たちのせいで……」
小さな声だった。
けれど、森の静けさの中では、十分すぎるほどはっきり聞こえた。
「私たちがいたから、みんな……」
エマが振り返る。
その顔に浮かんでいたのは苛立ちではない。
困ったような、けれど放っておけないという表情だった。
「違いますよ」
リアが顔を上げる。
エマは少しだけ眉を下げながら、やわらかく続けた。
「そんなふうに言わないでください。私たちは、自分の意思でここにいるんです。リア様たちを助けるって、自分で決めたんですから」
グレッグも前を向いたまま、低く言う。
「罪もねえ子供を見殺しになんかできるかよ」
トムが担架を支え直しながら続けた。
「ここまで来たら、最後まで付き合うっす」
エマは小さく頷いた。
「だから、気にしないでとは言いません。でも……全部、自分のせいみたいに言うのはやめてください」
リアはしばらく言葉を失っていた。
やがて、小さく頷く。
「……ありがとう」
エマは少しだけ微笑んだ。
「セシルさんが起きた時、そんな顔してたら怒られますよ」
その一言で、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らいだ。
先頭を歩くヘルガは何も言わなかった。
だが、ほんのわずかに歩調を緩めた。
*
同じ頃。
王都の冒険者ギルド本部では、新たな主が組合員たちを見下ろしていた。
後任のギルドマスター、ゼイン。
痩せた体格の男だった。
声を荒げることもなければ、感情を露わにすることもない。
ただ、冷えた目で、目の前に集まった冒険者たちを見渡していた。
「正式通達だ」
ゼインは、机の上に置かれた文書へ指先を置く。
「ルーク・フォン・レグナ、リア・フォン・レグナは国家反逆罪。発見次第、拘束」
「ヘルガは反逆協力者だ。ギルドの名を使って王族を匿い、逃亡を補助した疑いが濃厚」
ざわめきが広がる。
その中で、ゼインは微動だにしなかった。
「王命だ」
その一言で、ざわめきが止まる。
「ヘルガは甘かった。王族だからといって情を挟み、結果として逃がした」
「私は逃がさん」
低い声だった。
だが、それがただの脅しでないことは、その場にいた誰もが理解した。
「感情で動くな。これは仕事だ」
ゼインは淡々と続ける。
「森へ入れ。街道も見張れ。賞金を欲する者にも、王命に従う者にも役割はある」
「見つけたら知らせろ。抵抗するなら制圧しろ」
冒険者たちは互いに顔を見合わせる。
ヘルガの名は大きかった。
彼女に世話になった者も少なくない。
だが、今や彼女は過去のギルドマスターでしかない。
王命は既に下っている。
王都支部だけでなく、王国中の支部にも同じ通達が回されている。
ゼインは、さらに冷えた声で告げた。
「王国に、これ以上の混乱は不要だ」
その言葉が建前であることを、理解できる者もいた。
だが、それを口に出せる者はいなかった。
*
森を進んでいたヘルガが、不意に立ち止まった。
右手を軽く上げる。
後ろの面々も、すぐに足を止めた。
「……来るぞ」
短い一言。
ルークの背筋が冷たくなる。
ヘルガは低く続けた。
「数だけは多いな」
トムが担架から手を離し、剣へ手をかける。
「戦うんすか」
「お前らは下がってろ」
ヘルガが吐き捨てるように言った、その直後だった。
木々の合間から、人影が現れる。
騎士。
冒険者。
傭兵崩れのような男もいる。
装備も統率もばらばらだが、数だけは多い。
ざっと十を超える。
実力で言えば、BからCランク程度。
一人一人は脅威ではない。
だが、今の状況では十分すぎるほど厄介だった。
しかも、恐らくこれは先遣隊に過ぎない。
この連中が戻らなければ、次はもっと多くが来る。
先頭の騎士が剣を向けた。
「動くな! 反逆者を庇う者も同罪だ!」
ヘルガは鼻で笑った。
「そんな台詞、もう聞き飽きたわ」
「ヘルガ! ギルドマスターの座を追われても、まだ王族に肩入れする気か!」
「気安く呼ぶな、小僧が」
空気が張り詰める。
その瞬間、トムが一歩前へ出た。
「俺も戦うっす! こう見えて少し前までハンターやってたんすよ! 低ランクですけど……!」
「前に出るな馬鹿!!」
ヘルガは怒号を上げるやいなや、闘気を身に纏った。
それとほぼ同時に、彼女の姿が消える。
次の瞬間には、先頭の騎士が後ろへ吹き飛んでいた。
息を呑む暇もない。
踏み込み。
肘打ち。
柄での一撃。
足払い。
ヘルガは剣すら抜かない。
それでも、一撃ごとに相手が沈んでいく。
鎧ごと叩き倒され、冒険者たちは武器を握る間もなく地面へ転がった。
「ぐあっ!」
「は、速――」
「くそっ、囲め!」
囲めるものなら囲んでみろと言わんばかりに、ヘルガは真正面から突っ込んでいく。
肩でぶつかり、一人を木へ叩きつける。
振り下ろされた剣を半歩でかわし、手首を打って武器を落とさせる。
続けざまに別の冒険者の腹へ蹴りを入れ、そのまま背負い投げのように地面へ沈めた。
相手は多い。
だが、相手になっていない。
ルークは目を見開いた。
これが元Aランク。
今の王国で、何人がこの女を正面から止められるのか。
そう思わせる圧倒的な強さだった。
それでもヘルガは、一人として殺してはいなかった。
峰打ち。
急所外し。
骨は折れても、命までは奪わない。
「お前らも命令で動いてるだけだろう……」
倒れた騎士を見下ろし、ヘルガは吐き捨てる。
「ここで寝てろ」
最後の一人が剣を落とし、尻もちをついたところで戦いは終わった。
森に静寂が戻る。
トムが目を輝かせた。
「す、すげぇっす……!」
ヘルガは振り向きもせずに言う。
「だから前に出るなと言ったろ」
「はいっす……」
だが、勝ったはずなのに、ルークはすぐには安堵できなかった。
ヘルガの呼吸が荒い。
肩で息をしている。
リアもそれに気づいたらしい。
「ヘルガさん……大丈夫ですか?」
「平気だ」
即答だった。
けれど、ヘルガは肩を回し、小さく舌打ちした。
「……ちっ。歳には勝てねぇな」
トムが思わず声を上げる。
「今のどこが歳なんすか!? めちゃくちゃ強かったっすよ!?」
「うるせぇ」
ヘルガは短く返す。
「昔なら息も上がってねぇ」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
今でも十分すぎるほど強い。
だが、本人だけが分かっているのだ。
全盛期と比べて、身体も闘気も衰えてきていることに。
ヘルガは外套を直し、倒れた連中を一瞥してから言った。
「移動するぞ。次が来る前にな」
誰も逆らわなかった。
再び担架を担ぎ、一行は森の奥へ進み始める。
ルークは、ヘルガの背中を見つめていた。
今、戦えるのは実質ヘルガ一人だ。
セシルは眠ったまま。
ユウヤもレオルドもいない。
自分たちは守られる側でしかない。
このまま追われ続ければ、いずれヘルガが倒れる。
誰も口には出さない。
だが、全員が同じことを考えているのが分かった。
木々の隙間から差し込む薄い光の中、一行は言葉少なに森の奥へ消えていった。




