第11話「勇者と魔人」
ハンターギルドの扉を押した瞬間、空気が変わった。
汗と鉄と獣の匂い。
怒鳴り声、笑い声、酒の匂い。
——あまり好きではない。
ユーリはフードの奥で小さく息を吐く。
(昨日、別れたばかりだというのに)
あの男——ユウヤ。
金も地図もないのに、街に放り出してしまった。
大銅貨を二枚渡しただけ。パンと水しか買えない。
「……可哀想だなどと、私らしくない」
言い訳みたいに呟いて、受付へ向かう。
ハンターギルドのカウンターには、受付嬢ミレイがいた。
淡々と帳簿をめくり、ペンを走らせている。
ユーリが立つと、ミレイはすぐ顔を上げた。
「……勇者ユーリ様ですよね?」
「そうだ」
こういう時に名前を知られているのは便利だ。
「昨日この街に来た、“ユウヤ”という男。登録はしたか」
ミレイは「少し待ってくださいね」とだけ言って帳簿を確認する。
数秒後、顔を上げた。
「ユウヤ、という名前では登録がありませんね」
「……そうか」
ミレイが、ふと思い出したように眉を上げる。
「あ、でも昨日……名前で揉めた人がいました。本人は違うって言ってたんですけど」
ユーリの目が細くなる。
「なんという名だ?」
ミレイは声を落とした。
「──“マスクド・ブレイブ”と……」
ユーリの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。
(もしかして——)
続きを聞こうとした、その瞬間だった。
——扉が、勢いよく開いた。
「た、助けてください!!」
悲鳴みたいな声がギルドに刺さる。
飛び込んできたのは少年だった。
血の臭いがする。息が切れている。腕が震えている。
背中には——別の少年が一人。
顔が腫れ上がっている。
服にも血が大量に滲んでいるのが分かる。
その横には少女。
泣いている。声にならない声で、必死に息を吸っている。
ギルドの喧騒が、一瞬で止まった。
ミレイが立ち上がる。
「何が——」
少年は泣きそうな顔で叫んだ。
「ユウヤさんが!! ユウヤさんが、スラムで!!」
ユーリの足が、勝手に前へ出ていた。
フードの奥で、目だけが冷える。
「……その話、詳しく聞こうか」
少年がユーリを見て、息を飲む。
「ゆ、勇者……?」
ユーリは頷かない。
ただ、静かに言った。
「どこだ」
少年が必死に指をさす。
「スラムの奥です! 闇ギルドの……用心棒が……!」
ユーリは即座に言った。
「案内しろ」
*
路地は、ひどく狭かった。
崩れた壁。濡れた布。腐った匂い。
街の“裏”が、そのまま地面に染み出している。
その奥——空気が濁っていた。
瘴気。
魔物特有の嫌な臭い。
湿った煙みたいな、喉の奥に残る臭さ。
路地の中心で、ユウヤが膝をついていた。
最初に会った時と同じ仮面——キラキラした、あの変なやつをしている。
みっともなくて、最悪で——それでも、まだ倒れていない。
目の前には、黒い靄に包まれた男。
バルツ。
肌は黒く、目は赤い。
口の奥で瘴気が光り、吐き出される寸前だった。
ユウヤが、掠れた声で呟く。
「……ここまで、か……」
次の瞬間——
青い閃光が走った。
バルツの口から黒い光が放たれる。
瘴気の塊が、レーザーみたいに夜を裂いた。
——だが。
その進路に、影が滑り込む。
ユーリは、片手を上げただけだった。
ぱん、と乾いた音。
まるで、飛んできた石ころを払うみたいに。
黒い閃光は弾かれ、空へと逸れていく。
一拍遅れて——遠くで爆音。
ドォンッ!!
建物の影が揺れ、粉塵が舞った。
風圧が路地を突き抜ける。
その風に、ユーリのフードが——ふわりと持ち上がり、外れた。
長い金髪。碧い瞳。
切っ先みたいに冷たい顔。
見る者は一人だけだ。
膝をついたユウヤだけが、それを見上げていた。
ユーリはバルツから目を逸らさず、低く言った。
「あとは私に任せろ、ユウヤ」
バルツが、唸り声を上げる。
「ゥゥゥオオオオオオオ!!」
人の言葉が溶けた声。
もう、理性が残っていない。
ユーリは小さく息を吐く。
「……もう、飲まれているか」
ユーリが腰の剣に手をかける。
バルツが突っ込んでくる。
地面が割れる勢い。腕一本で人が潰せる速度。
——ユーリの姿が消えた。
次の瞬間。
ユーリは、剣を抜いた姿で、さっきまでバルツが立っていた場所にいた。
剣を抜く動作すら見えなかった。
ただ、その場から消えたように見えた。
バルツの体が——ずれる。
上半身と下半身が、真っ二つ。
遅れて、黒い靄が噴き出した。
——風にほどけるみたいに薄れて、灰のように崩れた。
瘴気が、消える。
路地に、静けさが戻った。
ユーリは剣を納め、振り返る。
膝をついていたユウヤが、ぜえぜえ息をしながら顔を上げている。
キラキラマスクの奥でも分かる。
目が死んでいない。
ユーリは淡々と言った。
「ユウヤ。お前は“役”だと言っていたが……」
少しだけ間を置く。
「ちゃんと“ヒーロー”とやらじゃないか」
ユウヤが、息の合間に吐き捨てる。
「うるせっ……来るなら……もっと早く来やがれ……」
ユーリは一瞬だけ言葉に詰まり、すぐに言い直す。
「……生きているから、間に合ってるだろ?」
ユウヤが笑ったのか、咳き込んだのか分からない音を漏らす。
「……最悪の励ましだな……」
ユーリは近づき、ユウヤの状態を一瞥する。
骨、筋、呼吸。
どれも限界に近い。
「立てるか」
「……立てねぇ」
「なら、運ぶ」
「やめろ! 女に運ばれたら俺のプライドが——」
ユーリは即答した。
「お前にそんなものが残っているようには見えないが」
「……クソ」
ユーリはユウヤの脇に手を入れ、立たせる。
その瞬間、ユウヤが小さく呟いた。
「……デン、ガイ、妹……無事か……」
ユーリは答える。
「ギルドにいる。1人は重症だが、生きている」
ユウヤの肩から、力が抜けた。
「……よかった……」
ユーリはユウヤを支え、路地を出る。
夜の空気が、ほんの少しだけ軽くなっていた。
だが、ユーリの胸の奥は逆に重くなる。
(闇ギルドが瘴気を取り込んでいる)
(魔王の影が、街の下に伸びている)
そして、この男。
勝てないと分かっていて、魔人相手に立ち向かっていた。
ユーリは、ぼそりと呟く。
「……ある意味、勇者だな」
ユウヤは聞こえないふりをしたまま返す。
「……お前と一緒にすんじゃねえ」
夜は、まだ終わらない。




