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カイゴシノワタシ  作者: 半田南都
第二章 飯はまだか

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第三話 杖の軌跡

「えっ…本田さん!?」


さっき部屋に戻ってから、まだ10分も経っていない。いつもの“ルーティン”にしては、あまりにも早い。


「先ほど召し上がりましたよ、ちらし寿司」


高木舞ちゃんが、柔らかな声で伝える。


「みんなは食べたんか。ワシは誘われてない。なんでや?」


「いえいえ、本田さんも、今さっき召し上がりました。覚えてませんか?」


「覚えてるもなにも、食べてないんだから覚えようがないやろ!」


声のトーンが一段高くなる。本田さん、今日は少し手強い。


「ちょっと確認するので、お部屋で待っていただけますか?」


私は、いつものパターンで落ち着かせようと試みる。


だが──


「もういい!ここで食べさせてもらえないんやったら、外へ食べに行くわ!」


言うが早いか、杖を手にエレベーターへ向かう。その背中に、普段は見せない力強さが宿っていた。


先日の高山さんの事故が脳裏をよぎる──もう誰も怪我はさせたくない。


「本田さん、待ってください!」


慌てて前に立ちふさがるが、私の肩を軽く払いのけ、ためらいなく「▽」ボタンを押す。だが、エレベーターは、暗証コードを入れない限り動かないロック付き。ボタンは消灯したまま、扉は沈黙を保っている。


「なんで開かないんや!」


苛立ちの声とともに、何度も指でボタンを押し込む。反応はなく、沈黙が余計に苛立ちをあおる。


「どうなってるんや!」


今度は手のひら全体でバンバンと叩き始める。乾いた音が廊下に響き、空気がざわつく。


そしてついに、苛立ちは頂点に達した。杖を振り上げて、ガンガンと、扉を叩き出した。


鋭い金属音が廊下に反響し、周囲の空気が一気に張り詰める。


もし今、エレベーターが動いて扉が開いたら…。中に人がいたら…。中にいる人も、本田さんも、怪我をするかもしれない。


「本田さん、危ないです!」


声をかけるが、杖は止まらない。胸がドキドキして、体がちょっと強張る。


このままじゃだめだ──


「舞ちゃん、山野さん呼んできて!滝川さんの部屋にいるはず!」


私の言葉で舞ちゃんは駆け足で218号室へ。



山野信一さん── 50歳前後、恰幅のいい男性スタッフ。


元は機械メーカーでバリバリ働いていたらしいが、父親の介護をきっかけにこの世界へ。柔らかな物腰と、どこか“風格”を漂わせている。


小走りで現れた山野さん。事情は舞ちゃんから簡単に聞いているみたいだ。


落ち着いた声で、


「どうかされましたか?」


男性の声に、本田さんの杖が止まる。振り返り、やや驚いた様子。


「あんた、責任者かね?」


その問いには答えず、もう一度同じ声で、


「どうかされましたか?」


「ここは一体どうなっとる?ここに来てから一度も飯を食わせてもらってないんや。外で食うから出してくれ」


「そうですか。それは失礼しました。もう少し詳しく聞かせてもらえますか」


背中にそっと手を添え、エレベーターから離れるように促す。本田さんは、少しずつエレベーターから距離をとっていく。


「ここで飯を食えないんやったら、どこでワシは食べたらええんや」


山野さんは大きく頷きながら、自然なリードで本田さんを部屋へと導いた。



10分後。部屋から出てきたのは山野さんひとり。


「山野さん、ありがとう。助かったわ。本田さんは?」


「同じ話をしばらく傾聴して、夕食の時間は必ず迎えに行きます、と約束したら“頼むわな”って落ち着いたよ」


「よかった…」


「でも、エレベーター、叩いてたね。滝川さんの部屋にいたけど、テレビの音で全然気づかなかったよ」


──やっぱり呼んで正解だった。


あの場にいたのは女性スタッフの広瀬さん、舞ちゃん、私の3人。高齢者とはいえ、男性の本田さんを抑えるのは容易ではない。


「本田さん、山野さんを責任者だと思ってましたね」


舞ちゃんが笑いながら言う。


そう、あの場の空気は明らかに変わった。私たちが止めても止まらなかったのに、山野さんが現れた瞬間、勢いがすっと緩んだ。


「山野さん、責任者の風格あってよかったわ」


「風格だけですみませんねー」


山野さんは笑って肩をすくめた。



「これ、ヒヤリハットにあげたほうがいいかな?」


「うーん…幸い誰も怪我はしてないけど、今後の対策も考えるならあげたほうがいいと思うよ」


「そうね、そうする」


私は事務所へ行き、施設長とケアマネジャーの沢渡さんに報告。


施設長は「わかりました」とだけ。…なんだかな。


沢渡さんは30代、仕事の早い女性だ。


「大変でしたね。誰も怪我しなくてよかったです。こういうこと、今後増えるかもしれませんし、家族様にも状況を伝えておきます」


頼もしい言葉に、少し肩の力が抜けた。



午後3時前。おやつの時間が近づき、ぽつぽつと利用者さんが集まってきて、いつも通りの空気が流れていた。


そんな中、エレベーターが開き、一人の女性が降りてきた。本田さんの娘さんだ。ケアマネジャーからの連絡を受け、心配して来てくれたらしい。


「この度はご迷惑をおかけしたようで、申し訳ありません」


私より少し年上と思われる娘さんは、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。私は軽く微笑み返す。


「いえいえ。本田さんも、他の入居者の方も怪我はなかったので大丈夫です。こちらこそ、ご心配をおかけして申し訳ありません」


娘さんはほっとしたように小さく息をついた。


「杖を振り回したと聞いて驚きました…。父は昔から手を上げたりする人ではなかったので」


私は肩を少しすくめ、笑みを添えて答える。


「エレベーターを開けようとして少し興奮されていたようで、誰かを叩こうとしたわけではないのです」


娘さんの表情が少し和らぎ、緊張が緩んでいくのがわかった。


「父は公務員で、真面目だけが取り柄のような人でした。昔の人間ですから頑固なところがあって、自分の思うようにいかないと、手は上げなくてもすぐ機嫌が悪くなるんです」


言葉を選びながら話すその様子を見て、私も自然にうなずき、心の中で自分の父を思い出した。


そう、私の父も頑固だったな。本田さんより少し後の生まれだけど、昭和の父親って感じだった。


「母とずっと二人で暮らしていたので、何もかも母任せで……一人じゃ本当に何もできない人だったんです。母が亡くなってからこちらにお願いしましたけど、最近の様子を見ていると……やっぱり認知症、進んでしまったんでしょうか」


娘さんの不安そうな横顔を見ながら思う──どこの家も、父親って、だいたい頑固なものなのかもしれない。

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