第二話 昼の迷走
十月。日差しがある日は、まだ夏の名残のような暑さが残る。
朝八時四十五分、ブルースターに到着。いつもは十分早く着くのに、今朝はゴミ出しやら細々した用事で少し遅くなった。自宅から自転車で十五分。ペダルを強めに踏んだせいで、背中にじんわりと汗が滲んでいる。
急いで更衣室で着替え、二階のフロアへ。夜勤の橋本さんから、昨晩と今朝の様子を受け取る。
「特に何もなかったよー」
と橋本さん。フロアの空気感からも、それはなんとなく察せられる。
タブレットで昨晩から今朝の介護記録を確認しながら聞く。
「本田さん、昨晩は部屋から出てこなかったんですね」
「うん。昨日は静かだったわ。今朝も何も言ってこないし」
「そういう日もあるんですね」
くすっと笑いながら、心の中でひそかに願う。今日一日、穏やかに過ぎますように──。
だが、その願いは昼食時、あっけなく崩れる。
最初の火種は二二〇号室の中西ヨシエさん。テーブル席に座るなり、
「これ、昼ごはん? 私、朝ごはんまだ食べてないけど」
八十五歳、軽度の認知症。普段は会話も滑らかだが、時折こうして時間感覚が乱れる。
「食べたじゃないの。あなた、いたわよ」
少し離れたテーブルから永田さんがすかさず口を挟む。
「ねえ、みんなも知ってるわよねえ」
「ええ、いたわよ」
「うんうん、食べてた」
「あの人、すぐ忘れるのよねー」
その中には、自分が食べたことさえ忘れている人も混じっているが、今はそれは問題ではない。
中西さんは納得できない様子で仏頂面をしていたが、やがて黙々と箸を進め、表情も元に戻った。
次に目に入ったのは松岡澄代さん。八十代後半の小柄な女性。上品な物腰だが、時折、不安そうに固まってしまうことがある。今も両手を膝に置き、食事には手をつけていない。
「松岡さん、食事召し上がってくださいね」
声をかけると、首を横に振る。あ、もしかして──またあれか。
「……あの、私、今日、お金持ってきてないんです」
来た。たまに出るパターンだ。
「大丈夫ですよー。お金はちゃんともらっていますから」
「え? だって、私、財布忘れたから払ってないです」
「いえいえ、前もってもらってたんですよ。だから安心してどうぞ。もし代金が足りなかったら……カラダで払ってもらいますからねー」
お決まりの冗談を挟むと、松岡さんは肩を揺らして笑う。
「やだわー、こんな痩せたカラダじゃ払えないじゃないの」
これも、お決まりの答え。緊張が解け、食事を始めた。一件落着。慣れたもんだ。
そう思って安心していると、フロアの奥から白井さんの大声が響く。
「なんで私だけ違うのよ!」
今日はちらし寿司の日。白井さんは九十歳を超えている。自身の歯がほとんどないが、義歯を使わないため、粥と極刻み食が基本だ。ちらし寿司も粥状にして茶碗で出すため、見た目は雑炊。他の利用者の丸皿に盛られた色鮮やかなちらし寿司を見て、不満を爆発させた。
「なんで私だけ雑炊なのよ! ちらし寿司ちょうだいよ!」
斜め向かいに座っている中西さんも白井さんと同じ食事形態だが、視界に入っていない。白井さんの目は『ちらし寿司』だけを捉えている。バン!とテーブルを叩き、立ち上がる。
「私はもう、いりません! 帰ります!」
そのまま部屋へ。止めても無駄なので、ここは一旦保留。しばらくすると周囲も落ち着き、食事が続けられた。
ふと、本田さんが立ち上がる。私は間髪入れず、
「ちらし寿司、おいしかったですか?」
と聞く。食べた事実を印象付けるためだ。
本田さんは微笑んで片手を上げ、そのまま部屋へ戻った。やがて皆も食べ終わり、それぞれの時間に戻っていく。
「そろそろいいかな…」
私は、先ほど怒って部屋へ戻った白井さんの食事トレイを持って二一七号室へ。ノックし、
「お待たせしましたー。お食事をお持ちしましたー」
と声をかける。
「あらぁ、もうご飯の時間? ありがとう。わざわざ持ってきてくれたの?」
さっきの憤慨はどこへやら、笑顔で迎えてくれる。
「今日は、食堂に行かなくてもよかったの?」
「はい。たまには部屋でのんびりもいいかなと思って」
「そうね、たまにはいいわね」
白井さんが微笑むのを見届け、部屋をあとにした。
ふう……と息をつき、フロアに戻って片付けをしていると、背後から声。
「ちょっと。飯はまだか」




