第9話 鐘が止んだあと
鐘の音が消えた瞬間、世界は静かになった。
いや、静かになったように感じただけだった。
泣き声があった。
誰かの荒い呼吸があった。
床を這うようにして、傷ついた人間が助けを求める声があった。
そして、そのすべての音の向こう側に、自分が何をしたのかを思い出した人々の沈黙があった。
「……俺は」
男は、自分の両手を見つめていた。
千尋を探していた男だった。
つい先ほどまで、男は理性を失い、目の前にいた直人へ襲いかかった。
その腕は今、震えていた。
「俺は、また……」
言葉の続きを、男は口にできなかった。
直人は美咲の前に立ったまま、男を見つめていた。
胸が痛む。
恐怖が消えたわけではない。
男の腕に触れたとき、あの淡い光が広がった。男の動きは一瞬だけ止まった。
あれが何だったのか、直人には分からない。
分からないことだらけだった。
「お父さん!」
美咲の声が響いた。
父親が壁にもたれながら、ゆっくりと顔を上げた。
「美咲……無事か?」
「うん……」
美咲は父親のもとへ駆け寄った。
直人は、その姿を見てようやく息を吐いた。
守れた。
そう思った直後、床に倒れている人間が目に入った。
「誰か、助けてくれ!」
男の叫びだった。
その隣には、腕を押さえてうずくまる女性がいた。額から血を流している者もいる。
直人は駆け寄った。
「見せてください!」
傷口に手を当てる。
淡い光が、指の間からにじんだ。
裂けた皮膚が閉じていく。
出血が止まる。
女性は驚いたように目を見開き、それから泣き出した。
「ありがとう……ありがとう……」
「まだ動かないでください。無理をすると、また傷が開くかもしれません」
直人は別の負傷者へ向かった。
治療する。
次へ行く。
さらに次へ。
助けを求める声が、途切れなかった。
そのときだった。
「その人を治療しないで!」
鋭い声が響いた。
直人の手が止まった。
声の主は、壁際に座り込んでいる若い女性だった。
彼女は、直人が治療しようとしていた男を睨みつけていた。
「そいつが、私の弟を殴ったんです」
男は顔を伏せた。
「……すみません」
「謝らないで!」
女性の声が震えた。
「謝ったら、弟が戻ってくるの? 謝ったら、あの子が受けた痛みがなくなるの?」
誰も何も言えなかった。
直人は男を見た。
傷ついている。
治療すれば、助かる可能性がある。
だが、その男が誰かを傷つけたという事実も、そこにあった。
直人は自分の手を見下ろした。
この手は、人を救うためのものだと思っていた。
けれど、誰かを救うことが、別の誰かをさらに傷つけることもあるのだろうか。
「……治療します」
直人は言った。
女性が顔を上げた。
「どうして!」
「あなたの弟さんが受けた傷は、なかったことにはできません。でも、だからといって、目の前で助けられる命を見捨てることも、僕にはできません」
「そんなの、綺麗事よ!」
「そうかもしれません」
直人は目をそらさなかった。
「でも、僕はこの人を助けます。あなたに許してほしいとは言いません」
男の腕に手を当てる。
淡い光が広がった。
男は声を押し殺して泣いた。
女性は、最後まで直人を睨みつけていた。
治療が終わっても、彼女の表情は変わらなかった。
それでよかった。
許すかどうかは、彼女が決めることだ。
直人が決めることではない。
そのとき、背後から美咲の声がした。
「直人さん……」
振り返ると、美咲がこちらを見ていた。
「手、震えてるよ」
言われて初めて気づいた。
自分の指が、小刻みに震えていた。
恐怖のせいなのか。
能力を使い続けたせいなのか。
それとも、今の選択に迷っているからなのか。
直人には分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
鐘が止んでも、終わりではない。
むしろ、本当の地獄は、ここから始まるのかもしれない。
直人は、再び傷ついた人々を見渡した。
誰かを助けるたびに、別の誰かの痛みを知ることになる。
それでも。
この手を、下ろすわけにはいかなかった。




