第8話 午前零時、記憶と後悔
ゴォォォォン――。
鐘の音が、世界を満たした。
耳を塞いでも意味はなかった。
音は耳から聞こえるのではなく、頭の奥に直接響いているようだった。
建物の中で、誰かが悲鳴を上げた。
次の瞬間、男が一人、壁に頭を打ちつけた。
「やめろ!」
管理人が叫んだ。
だが、男は止まらない。
別の場所では、女性が隣にいた人間へ殴りかかった。
椅子が倒れ、ガラスが割れる。
叫び声。
怒鳴り声。
助けを求める声。
世界が、再び壊れていく。
俺は美咲を背中にかばった。
「離れるな!」
彼女は俺の服をつかんだ。
美咲の父親は、娘を守ろうと立ち上がった。
だが、体が十分に回復していない。
足元がふらつき、壁に手をついた。
「お父さん!」
美咲が叫ぶ。
俺は彼女を抱き寄せながら、周囲を見渡した。
誰が凶暴化しているのか。
誰が正気を保っているのか。
その違いは、すぐにわかった。
目つきが変わる。
表情が歪む。
まるで、目の前にいる人間すべてが敵に見えているかのように。
そして、その人たちは自分の意思では止まれない。
管理人が倒れた椅子を持ち上げ、襲いかかってきた男を押し返した。
男は床に転がり、すぐに起き上がった。
俺は美咲を連れて廊下の奥へ移動した。
「こっちだ!」
そのとき、壁際にいた男が立ち上がった。
正午に俺たちが扉を開けなかった男。
娘の千尋を探していた男だった。
男は両手で頭を抱えていた。
「違う……違う……!」
次の瞬間、男の視線が俺たちに向いた。
その顔から、表情が消えた。
「……邪魔だ」
男が歩き出した。
俺は美咲を背中へ押しやった。
「下がって!」
男が腕を振り上げる。
俺は避けようとした。
だが、間に合わなかった。
拳が頬をかすめ、俺は壁に肩をぶつけた。
痛みが走る。
男は、さらに近づいてくる。
「やめろ!」
俺は叫んだ。
当然、返事はない。
男の拳が再び振り下ろされる。
その瞬間、俺の手が男の腕に触れた。
淡い光が広がった。
男の動きが、一瞬だけ止まった。
俺はその隙に、美咲を連れて廊下の奥へ逃げ込んだ。
扉を閉める。
男が何度も扉を叩いた。
俺は息を切らしながら、美咲を抱きしめた。
「大丈夫か?」
美咲は何度も頷いた。
その小さな肩が震えていた。
俺も震えていた。
怖かった。
自分が傷つくことも。
美咲が傷つくことも。
そして、あの男が正気に戻ったとき、何を思うのかも。
鐘が鳴り終わるまで、どれくらいの時間が経ったのか、わからなかった。
やがて、建物の中から怒鳴り声が消えた。
激しい物音も止まった。
扉を叩いていた男の手が、ゆっくりと止まる。
沈黙。
そして、嗚咽が聞こえた。
「……俺は、何を……」
男の声だった。
「また……やったのか……?」
俺は扉を開けた。
男は床に座り込み、自分の手を見つめていた。
その手は震えていた。
「俺が……あんたたちを……?」
俺は答えられなかった。
男は顔を覆った。
「また、誰かを傷つけた……」
彼は泣いていた。
正午に俺たちが扉を開けなかったとき、彼は怒っていた。
自分が助けてもらえなかったことを責めていた。
だが今は違う。
自分が何をしたのか、理解している。
理解してしまったからこそ、泣いている。
「……俺は、どうすればいい?」
男が俺を見た。
「どうすれば、許してもらえる?」
俺は長い間、何も言えなかった。
許す。
その言葉は、簡単に口にできるものではない。
傷つけられた人間がいる。
恐怖を味わった人間がいる。
もしかしたら、命を失った人間だっているかもしれない。
俺が勝手に許していいはずがない。
「……わかりません」
俺は答えた。
「俺には、わかりません」
男は俯いた。
「でも」
俺は続けた。
「あなたが何をしたのか、忘れずにいることはできると思います」
男が顔を上げた。
「忘れないで、これからどうするかを考えることはできる。傷つけた人がいるなら、できる限り償うこともできるかもしれない」
俺は、自分の手を見た。
「俺の力では、傷を治せます。でも、何もなかったことにはできません」
男は黙っていた。
「だから、何もなかったことにしないでください」
その言葉を口にした瞬間、俺は自分自身にも言い聞かせているのだと気づいた。
午前九時に救えなかった命。
正午に扉を開けなかったこと。
目の前で傷ついていた人を助けられなかったこと。
そのすべてを、なかったことにはできない。
忘れたふりをすることもできない。
俺は、この一日で何度も選択をした。
そして、その選択が正しかったのかどうか、今でも答えを出せずにいる。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
選ばなかったものが、消えてくれるわけではない。
助けられなかった人の痛みは、俺が目をそらしても残り続ける。
俺はそれを背負って生きていくしかないのだ。
窓の外が、少しずつ静かになっていた。
世界中で、正気に戻った人々が、自分の手を見つめているのだろう。
誰かを傷つけた手。
誰かを守ろうとした手。
誰かに助けを求めた手。
そのすべてが、同じ人間の手だった。
美咲が、俺のそばに来た。
「お兄ちゃん」
「……どうした?」
「明日も、ここにいる?」
俺は彼女の顔を見た。
目は赤く腫れていた。
それでも、彼女は俺を見つめていた。
「いるよ」
俺は答えた。
「できるだけ、ここにいる」
美咲は小さく頷いた。
それから、俺の手を握った。
淡い光は生まれなかった。
何も起きなかった。
ただ、小さな手の温もりだけが伝わってきた。
それでよかった。
傷を治す力がなくても、人間は誰かの手を握ることができる。
何も解決できなくても、そばにいることはできる。
罪を消すことはできなくても、これから何をするかを考えることはできる。
午前零時。
最初の二十四時間が終わった。
世界は、再び静けさを取り戻した。
だが、何も元には戻っていなかった。
壊れた窓。
散乱した家具。
血の跡。
そして、人々の記憶。
鐘が鳴るたび、世界は壊れる。
正気に戻っても、傷つけた記憶は消えない。
だからこそ、人は次の日を生きなければならない。
俺は窓の外を見た。
夜明けは、まだ遠い。
次の鐘が鳴るまで、あと二十四時間。
俺は自分の手を握りしめた。
この力で、どこまで人を救えるのか。
これから、何を選ばなければならないのか。
答えはまだない。
それでも、明日が来る。
そして俺たちは、また選ぶのだ。
誰を助けるのか。
誰を信じるのか。
誰と一緒に生きるのか。
あるいは、誰を見捨てるのか。
傷は癒やせる。
けれど、人が犯した罪までは消せない。
それでも。
次の鐘が鳴るまで、俺たちは生きていく。




