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次の鐘が鳴るまで  作者: パルパル


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第7話 午後十一時、鐘の前夜

 午後十一時。


 次の鐘まで、あと一時間。


 建物の中では、誰も大きな声を出さなくなっていた。


 食料は残り少ない。


 水も節約しなければならない。


 入口には家具を積み上げ、窓には布をかけてある。


 できることは、すべてやったつもりだった。


 それでも、不安は消えなかった。


「お兄ちゃん、眠れないの?」


 美咲が尋ねた。


「……ああ。美咲は?」


「眠れない」


 彼女は父親の隣に座っていた。


 父親は疲れから眠っている。


 呼吸は落ち着いているが、まだ顔色はよくなかった。


「次の鐘が鳴ったら、またみんな、おかしくなるの?」


「……そうなるかもしれない」


「お兄ちゃんも?」


 俺は答えられなかった。


 凶暴化する人間は、世界人口の約三分の一。


 対象者は毎回同じだという。


 だが、俺がその対象者なのかどうか、確かめる方法は見つかっていなかった。


「わからないんだ」


 俺は正直に答えた。


「でも、もし俺がおかしくなったら、近づかないでくれ」


 美咲は首を横に振った。


「いやだ」


「美咲」


「お兄ちゃんは、お父さんを助けてくれたもん」


「だからこそだよ。もし俺が誰かを傷つけるようになったら……」


「いやだよ」


 美咲は、もう一度言った。


 その目には涙が浮かんでいた。


「みんな、急にいなくなっちゃう。お父さんも、知らない人みたいになっちゃった。もう、誰もいなくならないでほしい」


 俺は何も言えなかった。


 美咲にとって、この世界は昨日までとはまるで違うものになってしまったのだ。


 大人たちが説明する理屈など、彼女には関係ない。


 大切な人が目の前で変わってしまう。


 助けを求めても、誰も助けてくれないかもしれない。


 その恐怖は、子供にも大人にも等しく降りかかっていた。


「……俺も、いなくなりたくないよ」


 俺は言った。


「だから、できるだけ気をつける」


 美咲は小さく頷いた。


 そのとき、建物の外から物音がした。


 俺たちは一斉に入口を見た。


 何かが、扉にぶつかっている。


 一度。


 二度。


 そして、三度目。


「誰かいるのか?」


 管理人が小声で尋ねた。


 返事はない。


 俺は入口へ近づいた。


「誰ですか?」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、かすれた声が聞こえた。


「……助けてくれ」


 俺は息をのんだ。


 聞き覚えのある声だった。


 正午ごろ、俺たちが扉を開けなかったときの男。


 子供がいると叫んでいた男だ。


「あなた……」


 扉の向こうで、男が続けた。


「頼む……少しでいい。中に入れてくれ」


 管理人が近づいてきた。


「開けるな。誰だかわからないだろう」


「でも、前に来た人です」


「だから何だ。今、安全だと保証できるのか?」


 俺は言葉に詰まった。


 正午のときと同じだった。


 外にいる人間を助けたい。


 だが、中にいる人間も守らなければならない。


 俺たちは、また同じ場所に立たされていた。


「……何があったんですか?」


 俺は扉越しに尋ねた。


 男はしばらく黙っていた。


「家族と、はぐれた」


 その声は震えていた。


「子供が……娘がいるんだ。探していたら、知らない男たちに荷物を奪われた。俺は抵抗して……」


 言葉が途切れる。


「気づいたら、あいつらを殴っていた」


 俺は目を閉じた。


 男が凶暴化したのか。


 それとも、ただの暴力だったのか。


 わからない。


 ただ、彼が傷つき、恐怖を感じていることだけは伝わってきた。


「俺は……また誰かを傷つけたのかもしれない」


 男は言った。


「正午に、あんたたちに助けを求めたときも……俺は、あんたを責めた。自分が悪いのに、誰かに助けてもらえないことを怒っていた」


 俺は息を止めた。


「……すまなかった」


 扉の向こうで、男が頭を下げた気配がした。


「俺は、自分のことしか考えていなかった」


 沈黙が落ちた。


 俺は、正午のときの自分を思い出していた。


 あのとき、俺は扉を開けなかった。


 正しかったのかもしれない。


 間違っていたのかもしれない。


 今でも答えは出ていない。


 ただ、目の前にいる男は、少なくとも今、自分のしたことを考えていた。


「……待っていてください」


 俺は管理人を見た。


「俺が外を確認します。扉を開けるかどうかは、それから決めましょう」


「危険だ」


「わかっています。でも、何も確かめずに追い返すのは……」


 言葉が止まった。


 俺は自分の手を握った。


「俺には、もうそれができません」


 管理人は長い沈黙のあと、ゆっくり頷いた。


 俺たちは慎重に扉を開けた。


 外には、男が一人で立っていた。


 血のにじむ額。


 汚れた服。


 そして、疲れ切った目。


 周囲に、ほかの人影はなかった。


 俺は男を建物の中へ入れた。


 管理人は最後まで警戒していたが、男は抵抗しなかった。


 男の傷を治療しながら、俺は尋ねた。


「娘さんの名前は?」


「……千尋だ」


「見つかるといいですね」


 男は俯いた。


「俺は、父親失格だ」


「そんなこと、今は決めなくていいと思います」


 男が顔を上げた。


「自分が何をしたのか。何をすべきだったのか。考えるのは、明日でもできます」


 俺はそこで言葉を切った。


「だから、今は生きてください」


 男は唇を噛み、何度も頷いた。


 午後十一時五十分。


 スマートフォンの画面に、残り十分と表示された。


 俺たちは窓から離れ、入口のそばに集まった。


 誰もが息を潜めている。


 次の鐘が鳴ったら、何が起きるのか。


 誰が変わるのか。


 誰が誰を傷つけるのか。


 そして、正気に戻ったあと、どれだけの人間が自分の行為に耐えられなくなるのか。


 俺は美咲の父親を見た。


 彼は娘を抱き寄せていた。


 管理人は扉の前に立っている。


 正午に追い返された男は、壁際で両手を握りしめていた。


 俺は自分の手のひらを見た。


 傷を治す力。


 だが、心を救うことはできない。


 罪を消すこともできない。


 それでも、俺はここにいる。


 誰かを救えるかもしれないから。


 その可能性がある限り、逃げたくなかった。


 スマートフォンの表示が変わった。


 残り一分。


 美咲が、俺の服をつかんだ。


「お兄ちゃん」


「大丈夫」


 そう答えたものの、俺自身が大丈夫ではなかった。


 午前零時まで、あと十秒。


 九。


 八。


 七。


 誰かが祈る声が聞こえた。


 六。


 五。


 四。


 俺は目を閉じた。


 三。


 二。


 一。


 そして。


 世界中に、鐘の音が響き渡った。

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