第6話 午後六時、選択の時間
午後六時。
建物の中は、昼間とは違う緊張に包まれていた。
外は夕暮れに染まり、窓ガラスに映る人々の顔は、みな疲れ切っていた。
次の鐘まで、あと六時間。
その事実が、全員の心に重くのしかかっている。
「ここに残るのは危険だと思います」
若い男性が言った。
「もっと安全な場所へ移動するべきです。警察署か、避難所か、とにかく人が集まっている場所へ」
「移動するほうが危険だ」
管理人が反論した。
「外がどうなっているか、わからないんだぞ」
「ここにいたって、食料が足りないでしょう!」
「だからといって、全員で移動する必要はない」
議論は平行線だった。
俺は美咲の父親と一緒に、壁際で話を聞いていた。
父親は少しずつ回復していたが、長距離を歩くのは難しい。
美咲は父親の隣で、黙って膝を抱えている。
彼女は、昨夜からほとんど眠っていない。
それでも、泣き言を言わなかった。
大人たちの話を聞きながら、必死に何かを理解しようとしているようだった。
「黒田さんは、どう思いますか?」
突然、話を振られた。
全員の視線が集まる。
俺は戸惑った。
「俺は……」
何を言えばいいのだろう。
安全な場所へ移動するべきか。
ここに残るべきか。
どちらが正しいのか、俺にはわからない。
ただ、次の鐘が鳴ったとき、ここにいれば再び凶暴化する人間が出る。
その中に自分たちがいる可能性もある。
移動すれば、外で危険に遭遇するかもしれない。
どちらを選んでも、危険は消えない。
「……移動するなら、動ける人だけで先に行くべきだと思います」
俺は言った。
「けが人や子供を無理に連れていくのは危険です。ここに残る人には、食料と水を分けて、入口を補強する。移動する人たちとは、あとで連絡を取れるようにしておく」
「そんなことをしていたら、時間がなくなる!」
「わかっています。でも、全員で動いて、途中で誰かが倒れたら、もっと危険です」
自分の声が震えているのがわかった。
俺は専門家ではない。
避難計画を立てた経験もない。
ただ、全員が生き残れる方法を考えようとしているだけだ。
「それで、誰が残るんですか?」
若い男性が尋ねた。
俺は言葉に詰まった。
誰が残るのか。
誰が移動するのか。
結局、その選択を誰かがしなければならない。
「俺は……ここに残ります」
気づけば、そう口にしていた。
美咲の父親が顔を上げた。
「黒田さん」
「けが人がいるし、子供もいます。俺の力が役に立つかもしれない。だから、ここに残ります」
言ってから、後悔しかけた。
自分に何ができるというのだろう。
人の傷を治せる。
ただ、それだけだ。
凶暴化した人間を止める力もない。
建物を守る力もない。
それでも、俺は残ると決めた。
若い男性は、しばらく俺を見つめていた。
「……わかりました。僕たちは移動します」
数人が彼に続いた。
彼らは水と食料を持ち、必要最低限の荷物をまとめた。
出発する直前、若い男性が俺のところへ来た。
「あなたは、強い人ですね」
「違います」
俺は首を横に振った。
「俺は、怖いだけです」
「怖い?」
「ここに残って、何もできなかったらどうしようって。外へ出て、誰かを見捨てたらどうしようって。ずっと考えています」
男性は何も言わなかった。
「それでも、ここに残るんですか?」
「……はい」
俺は美咲を見た。
彼女は父親の手を握っていた。
「ここに、俺を必要としている人がいるからです」
男性は小さく頷いた。
「どうか、生き延びてください」
「あなたも」
扉が開き、数人が外へ出ていった。
扉が閉まる。
残った人々は、それぞれの場所へ戻っていった。
俺は、ようやく息を吐いた。
何かを決めたからといって、不安が消えるわけではない。
むしろ、これから起きることに対して、自分が責任を負うのだという感覚が強くなった。
「お兄ちゃん」
美咲が近づいてきた。
「ここに残ってくれて、ありがとう」
俺は困ったように笑った。
「まだ何もしていないよ」
「でも、残ってくれた」
美咲はそう言った。
その言葉が、胸に残った。
人を守るというのは、必ずしも敵を倒すことではないのかもしれない。
ただ、その人のそばにいること。
逃げずに、同じ場所で恐怖を抱えること。
それも、守るということなのだろう。
午後六時。
次の鐘まで、あと六時間。
俺は窓の外を見た。
街の向こうで、煙が上がっている。
世界は少しずつ暗くなっていく。
そして、俺たちは次の夜を迎えようとしていた。




