第5話 正午、守る者と見捨てる者
正午を過ぎたころ、建物の中にいた人々は、ようやく自分たちの状況を考える余裕を取り戻し始めていた。
食料は少ない。
水も十分ではない。
外へ出れば危険がある。
そして、次の鐘が鳴れば、再び世界が壊れる。
誰もが、その事実を理解していた。
「このままじゃ、全員が持たない」
建物の管理人だという男性が言った。
五十代くらいで、声が大きく、よく通る人だった。
「食料を分けるにしても限界がある。外へ出て調達する必要があるが、誰が行く?」
誰も手を挙げなかった。
当然だ。
外には、いつ凶暴化するかわからない人間がいる。
正確には、凶暴化する対象者は決まっているらしい。
しかし、自分が対象者なのかどうか、まだわかっていない人も多かった。
そして、正気に戻った人間が、必ずしも安全とは限らない。
恐怖に追い詰められた人間は、何をするかわからないのだから。
「子供と年寄りを優先しよう」
誰かが言った。
「いや、動ける人間を優先するべきだ。働ける人間が倒れたら、全員が困る」
「病人はどうするんだ?」
「全員を助けられるわけじゃないだろ!」
声が荒くなっていく。
俺は壁際で、そのやり取りを聞いていた。
誰もが、自分なりに正しいことを言っている。
子供を守るべきだという意見もわかる。
全員が生き残るために、動ける人間を優先すべきだという意見も理解できる。
だが、そのどちらかを選ぶということは、選ばれなかった人間がいるということでもあった。
「黒田さん、でしたっけ?」
管理人の男性が俺を見た。
「あなたは、さっき外で人を助けたそうですね」
「……はい」
「傷を治せるとか」
建物の中にいた人たちが、一斉に俺を見た。
俺は嫌な予感がした。
「治せるといっても、何でもできるわけじゃありません」
「それでも、すごい力じゃないか」
「俺にも、よくわからないんです」
「だったら、試してみればいい」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
「試す?」
「けが人がいるんだ。あなたの力で治せるなら、助けてもらいたい」
正論だった。
目の前に傷ついた人がいる。
俺には、その傷を治せるかもしれない力がある。
ならば、使うべきだ。
しかし、俺の体力には限界がある。
誰でも、何人でも治せるわけではない。
そのことを、まだ誰にも話していなかった。
「……俺も、できるだけのことはします」
そう答えるしかなかった。
そのとき、入口のほうから怒鳴り声が聞こえた。
「開けろ!」
全員が振り返った。
扉の外に、数人の人間がいた。
そのうちの一人は、腕から血を流している。
「中に入れてくれ! 頼む!」
扉を叩く音が響く。
管理人は顔をしかめた。
「誰だ、あいつらは?」
「わかりません。でも、けがをしている人がいます」
俺は入口へ向かおうとした。
管理人が腕をつかんだ。
「待ちなさい」
「でも……」
「中には子供もいる。危険な人間を入れるわけにはいかない」
その言葉は正しかった。
俺たちが守るべきなのは、外にいる人間だけではない。
建物の中にいる人たちの命もある。
もし、外の人間が凶暴化したら。
もし、武器を持っていたら。
もし、食料を奪おうとしたら。
その危険を無視して扉を開けることはできない。
俺は立ち止まった。
扉の向こうから、声が聞こえた。
「子供がいるんだ!」
俺の胸が締めつけられた。
「うちにも子供がいる! 頼む、少しだけでいいんだ!」
管理人は首を横に振った。
「開けるな」
誰も動かなかった。
扉を叩く音が続く。
やがて、その音は弱くなっていった。
「……そうか」
外から、低い声が聞こえた。
「そういうことかよ」
足音が遠ざかっていく。
俺は扉を見つめていた。
助けられたかもしれない。
だが、助けなかった。
それは、見捨てたということなのだろうか。
管理人が俺の肩に手を置いた。
「君が気に病むことはない。全員を助けることなんてできないんだ」
わかっている。
そんなことは、わかっている。
俺は午前九時に、一人の命を救えなかった。
自分の力には限界があると知った。
だからこそ、守れるものを守らなければならない。
そう考えることは間違っていないはずだ。
それでも。
扉の向こうから聞こえた声が、頭から離れなかった。
その日の午後、俺たちは食料を分け合った。
美咲には、パンと水を渡した。
彼女はそれを半分に分け、父親のもとへ持っていった。
「お父さんも食べて」
「美咲が食べなさい」
「半分こ」
父親は困ったように笑った。
その光景を見て、俺は思った。
守るというのは、きれいな言葉だ。
でも、本当に守ろうとしたとき、何かを差し出さなければならないことがある。
自分の食料。
自分の安全。
自分の時間。
時には、自分の命さえも。
そして、守るものを選んだ瞬間、選ばなかったものが生まれてしまう。
午後零時。
世界が壊れてから、十二時間。
俺はまだ、正しい答えを見つけられずにいた。




