第36話 手を離した理由
『第二記録者、再接続を開始』
端末に表示された文字を、直人は何度も読み返した。
第一記録者。
第二記録者。
そして、記録者候補とされた白石美咲。
記録者とは、一体何なのか。
誰がその役目を決め、何のために記録を残しているのか。
わからないことばかりだった。
「じいちゃん。第二記録者って、誰なんだ?」
祖父は画面を操作しながら答えた。
「まだ断定できない。だが、第一記録者が記録の起点となる存在なら、第二記録者は、その記録を補完する存在なのかもしれない」
「補完?」
「一人では残せない記録を、別の人間が支える。そういう仕組みがある可能性だ」
直人は美咲を見た。
「美咲さんが、その第二記録者なのか?」
「わかりません……」
美咲は自分の掌を見つめた。
「でも、さっきの光景を思い出すと、何かを守るために、私は自分で手を離したような気がするんです」
「自分で?」
「はい。誰かに無理やり引き離されたんじゃない。私が、自分の意思で……」
美咲は言葉を切った。
その表情には、理由のわからない罪悪感が浮かんでいた。
「もし、私があの子を裏切っていたのなら……」
「美咲さん」
直人は静かに呼びかけた。
「まだ、何もわかっていません」
「でも、あの子は私が手を離したと言いました」
「だからこそ、理由を知る必要があるんです」
直人は少女のほうを向いた。
「君は、どうして美咲さんが手を離したのか、何か思い出せるか?」
少女はしばらく考えた。
やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「……ごめんなさい。わからない」
「謝らなくていいよ」
直人は微笑んだ。
「思い出せないのは、君のせいじゃない」
少女は小さく頷いた。
そのとき、祖父が端末の前で声を上げた。
「見つけたぞ!」
三人が一斉に振り返る。
画面には、古い記録が一件だけ表示されていた。
『第一記録者、接触履歴』
『第二記録者、接触履歴』
『記録保護対象、未登録』
その下に、短い文章が残っていた。
『記録保護のため、第二記録者は対象者との接触を断つこと』
「接触を断つ……?」
直人は画面に近づいた。
「つまり、誰かを守るために、わざと離れたってことか?」
「その可能性はある」
祖父が頷いた。
「記録を残すために、対象者と関わり続けることが危険だったのかもしれない」
美咲は、画面から目を離せなかった。
「じゃあ、私が手を離したのは……」
「君がその第二記録者だったなら、そうかもしれない」
祖父は慎重に言った。
「だが、まだ決めつけてはいけない。記録者候補と第二記録者が同じ存在なのかも、確かめる必要がある」
直人は頷いた。
手を離したことが、裏切りとは限らない。
むしろ、守るためだった可能性がある。
だが、それならなぜ、美咲自身がその記憶を失っているのか。
「……もう少し、調べよう」
直人が言った瞬間、少女が突然、美咲の手をつかんだ。
「待って」
美咲が驚いて顔を上げる。
「あなた……」
少女の声が震えた。
「私に、何か言ったよね」
「何か……?」
「手を離す前に。あなたは、泣きながら何かを言っていた」
美咲の顔が強張った。
「どんな言葉?」
少女は目を閉じた。
何かを思い出そうとするように、額に手を当てる。
「……ごめんね、だったかな」
美咲の目から、涙がこぼれた。
次の瞬間、彼女の脳裏に光景がよみがえった。
白い部屋。
幼い少女。
そして、閉じかけた扉の向こうに立つ自分。
『ごめんね』
あのとき、自分は確かにそう言った。
『忘れたふりをして。あなたを知らないふりをして』
小さな手が、こちらへ伸びている。
『でも、いつか必ず迎えに来るから』
美咲は息を呑んだ。
「……そうだ」
その声は、震えていた。
「私は、あなたを見捨てたんじゃない」
少女が目を見開く。
「私、あなたを守るために……あなたのことを知らないふりをしたんだ」
直人は二人を見つめた。
「美咲さん……」
美咲は涙を拭おうともせず、少女の手を握り返した。
「ごめんなさい。約束したのに、ずっと思い出せなかった」
少女の唇が震えた。
「じゃあ……あなたは、私を覚えていたの?」
「ううん。覚えていたわけじゃない」
美咲は首を横に振った。
「忘れさせられていたんだと思う。でも、心のどこかに、あなたを守りたい気持ちだけは残っていた」
その瞬間、少女の瞳に小さな光が灯った。
「……私も」
「え?」
「私も、あなたのことを忘れたくなかった」
少女は美咲の手を強く握った。
「名前も、顔も、何も思い出せないのに……あなたがいなくなるのは嫌だった」
直人の胸が締めつけられた。
この二人には、自分の知らない過去がある。
自分が少女と約束を交わしたように、美咲もまた、彼女と何かを約束していたのだ。
そして、その約束を守るために、二人は互いを忘れなければならなかった。
だが、感傷に浸る時間はなかった。
突然、端末が警告音を鳴らした。
『第二記録者の接触履歴を確認』
『記録の再構築を開始』
『消去対象、白石美咲』
美咲の掌に、黒い文字が浮かび上がる。
先ほどよりも濃く、はっきりとした文字だった。
「……っ!」
美咲が苦しそうに胸を押さえた。
「美咲さん!」
直人が駆け寄る。
黒い線が、彼女の手首から腕へと伸びていく。
「直人さん、近づかないで!」
「何を言ってるんですか!」
「私が記憶を取り戻したから、処理が進んでいるんです!」
美咲は必死に直人を押しとどめた。
「このままでは、あなたまで巻き込まれる!」
「それでも、放っておけるわけないだろ!」
直人は美咲の手を取った。
掌に白い光が灯る。
いつもの治癒の光。
しかし、その光は黒い文字に触れた瞬間、弾かれるように消えた。
「……どうしてだ?」
直人は目を見開いた。
今までは、記録の消去を一時的に止めることができた。
だが、今回は違う。
記録そのものが、直人の力を拒絶しているようだった。
祖父が端末を見て叫んだ。
「直人、手を離せ!」
「嫌です!」
「違う、聞くんだ! これは美咲さんだけを消そうとしているんじゃない!」
祖父の指が、画面を指し示した。
『第二記録者、再接続』
『第一記録者との同期を開始』
その下に、二つの名前が表示されていた。
『朝霧直人』
『白石美咲』
「同期……?」
直人が呟く。
祖父の顔が青ざめた。
「二人の記録を一つにまとめようとしているんだ!」
「そんなことをしたら、どうなるんですか?」
美咲が問いかける。
祖父は答えられなかった。
だが、画面に表示された次の一文が、その答えを示していた。
『同期完了時、独立記録を消去』
直人は息を呑んだ。
記録が一つにまとめられれば、片方の存在が消される。
それが直人なのか、美咲なのか。
それとも、二人ともなのか。
まだわからない。
「……だったら、同期させなければいい」
直人は美咲の手を握りしめた。
「記録を一つにまとめる必要なんてない。俺たちは、別々の人間なんだから」
その言葉に反応するように、直人の掌が再び光った。
白い光の中に、細い黒い線が浮かび上がる。
破れた紙を縫い合わせるような、あの光だった。
『記録干渉を検知』
『同期処理、一時停止』
警告音が止まった。
美咲の腕に広がっていた黒い線も、それ以上は伸びなくなった。
「……止まった?」
美咲が呟く。
直人は息を切らしながら頷いた。
「まだ、終わっていません。でも……一つにまとめなくても、つなぎ直せるはずです」
祖父は、直人の掌を見つめていた。
「そうか……。お前の力は、記録を元に戻すだけではないのか」
「どういうことです?」
「記録者が決めた形に従うのではなく、失われたつながりを、新しい形で結び直せるのかもしれない」
直人は、自分の手を見つめた。
もし、それが本当なら。
誰かを救うために、別の誰かを消す必要はないのかもしれない。
そのとき、記録室の奥から、低い鐘の音が響いた。
ゴーン。
三人が一斉に顔を上げる。
端末の数字が変わった。
『次の鐘まで、残り二十分』
残された時間は、さらに短くなっていた。
そして、画面の中央に新しい文字が浮かび上がる。
『第二記録者の名前を確認』
直人は、美咲を見た。
彼女もまた、驚いた顔で画面を見つめている。
文字が一つずつ表示されていく。
『第二記録者――』
そこまで表示された瞬間、画面が真っ黒になった。
代わりに、女性の声が響いた。
『直人。もし、二人の記録がつながったなら、次は私を探して』
母親の声だった。
『あなたが最初の鐘を鳴らす必要はない』
直人の目が見開かれる。
『鐘を止めるのではなく、鐘が必要なくなる世界を作って』
音声が途切れた。
直人は、しばらく動けなかった。
母親は、最初の鐘を鳴らすことが解決策ではないと知っていたのだ。
では、鐘が必要なくなる世界とは何なのか。
その答えを探すためには、まだ失われた記録をたどらなければならない。
美咲が、直人の手を握った。
「一緒に行きます」
直人は頷いた。
「ああ。今度こそ、誰も置いていかない」
少女も、二人の手にそっと自分の手を重ねた。
その瞬間、彼女の唇から、かすかな言葉がこぼれた。
「……約束」
直人は振り返った。
「今、何て?」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「わからない。でも……その言葉を、ずっと前にも言った気がする」
直人は彼女の手を握り直した。
まだ名前はわからない。
過去のすべても、取り戻せていない。
それでも、失われた約束の欠片は、確かに戻り始めていた。
次の鐘まで、残り二十分。
直人たちは、記録室のさらに奥へと歩き出した。




