第35話 美咲が忘れていた約束
『次の鐘まで、残り三十分』
端末に表示された数字を、直人は睨みつけていた。
三十分。
たったそれだけの時間で、美咲を救う方法を見つけなければならない。
少女の名前も、母が隠した真実も、まだわかっていない。
それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
「美咲さん。聞こえますか?」
直人が声をかけると、美咲はゆっくりと目を開いた。
「……はい」
「大丈夫ですか? どこか痛むところは?」
「痛みはありません。でも……」
美咲は自分の掌を見つめた。
そこには、黒い文字が浮かんでいる。
『記録者候補、白石美咲』
「この文字を見ると、知らないはずの場所が頭に浮かぶんです」
「場所?」
「白い部屋です。窓も、扉もなくて……。そこに、小さな女の子がいました」
直人は少女を振り返った。
少女は息を呑んでいた。
「その子の顔は、覚えていますか?」
美咲は首を横に振った。
「顔は見えませんでした。でも、泣いていたんです」
「どうして?」
「わかりません。ただ、その子に手を伸ばした瞬間、誰かに言われたんです」
美咲の声が震えた。
「――その子を覚えていてはいけない、と」
記録室に沈黙が落ちた。
直人は祖父を見た。
「じいちゃん。これは、母さんが言っていた記録と関係があるんじゃないか?」
「可能性は高い」
祖父は端末を操作した。
「だが、美咲さんが記録者候補になった理由まではわからない。記録者という言葉が、記録を管理する者を意味するのか、それとも記録に強く結びついた者を意味するのか……」
「どっちもわからないってことか」
「すまない」
祖父は悔しそうに画面を見つめた。
「私は、すべてを知っているわけではないんだ」
直人は小さく息を吐いた。
祖父も、母も、何かを知っていた。
それなのに、誰もすべてを語れない。
その理由が、誰かを守るためだったとしても。
失われた記憶の中で苦しんでいる人間がいることに、変わりはなかった。
「……美咲さん」
「はい」
「無理に思い出そうとしなくていいです。でも、何か浮かんだら教えてください」
美咲は少し驚いた顔をした。
「怖くないんですか?」
「何がです?」
「私が、本当はあなたの敵だったら」
直人は答える前に、彼女の掌を見た。
そこには、消えかけた黒い文字がまだ残っている。
「正直、怖いですよ」
「……そうですよね」
「でも、母さんはあなたを信じろと言った。俺は、今のところ、その言葉を信じたいんです」
美咲は唇を噛んだ。
「直人さん……」
「それに、あなたはさっき言いましたよね。誰かを救うために、別の誰かを犠牲にしたくないって」
直人は彼女の目を見た。
「俺も同じです。だから、あなたが何者なのかを知る前に、敵だと決めつけるつもりはありません」
美咲はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その瞬間だった。
少女が、突然、胸元を押さえた。
「……あっ」
「どうした?」
直人が駆け寄る。
少女は苦しそうに目を閉じていた。
「聞こえる……」
「また、誰かの声か?」
「ううん。声じゃない」
少女は首を振った。
「誰かが、泣いているの。ずっと、ずっと……私が忘れてしまった誰かが」
美咲が顔を上げた。
「その人は、女の子ですか?」
少女は驚いたように美咲を見た。
「……どうして、わかったの?」
「私にも、同じ光景が見えたんです」
美咲の目に涙が浮かんだ。
「白い部屋で、女の子が泣いている。私はその子に手を伸ばして……でも、届かなかった」
直人は二人を交互に見つめた。
同じ光景。
同じ少女。
そして、二人ともその記憶を失っている。
「じいちゃん。記録を調べてくれ!」
祖父はすぐに端末へ向き直った。
「何か手掛かりがあるはずだ」
数秒後、画面に複数の記録が表示された。
『関連記録、検索中』
『白石美咲』
『朝霧直人』
『対象者、未登録』
最後の一行を見た瞬間、直人は眉をひそめた。
「未登録……?」
「おかしい」
祖父が呟いた。
「通常、記録から消去された対象にも、消去履歴は残るはずだ。だが、この子には履歴すらない」
「つまり、どういうことですか?」
美咲が尋ねた。
祖父は、ゆっくりと少女を見た。
「最初から、記録に存在しなかったことにされているんだ」
少女の顔から血の気が引いた。
「じゃあ、私は……本当に、誰でもないの?」
「違う!」
直人は即座に言った。
「記録に名前がないことと、君が存在しないことは違う!」
少女が顔を上げる。
「でも……」
「君はここにいる。泣いたり、笑ったり、怖がったりする。俺たちと話している。それだけで、君が存在していることはわかるだろ」
直人は、そっと少女の手を握った。
「記録に書かれていないなら、俺たちが見つければいい」
少女の瞳が揺れた。
「……あなたは、本当に変な人ね」
「よく言われます」
直人が苦笑すると、少女はほんの少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、美咲が息を呑んだ。
「……思い出した」
「何を?」
美咲は震える指で、自分の胸元を押さえた。
「私、この子に言ったんです」
彼女の瞳から、涙がこぼれた。
「あなたが誰になっても、私はあなたを忘れないって」
少女が目を見開いた。
次の瞬間、端末が激しく警告音を鳴らした。
『記録者候補、白石美咲』
『過去の接触履歴を復元』
『記録の整合性が失われています』
画面に、新たな一文が浮かび上がる。
『白石美咲による記録保護行為を検出』
直人は息を呑んだ。
「美咲さんが……守っていた?」
祖父は画面を見つめたまま、呆然と呟いた。
「そんなことが……。まさか、君があのときの……」
しかし、祖父の言葉は最後まで続かなかった。
画面が暗転したからだ。
直後、スピーカーから低い機械音が響いた。
『記録者候補の覚醒を確認』
『第四段階、消去対象を再選定』
直人は美咲の手を握り直した。
彼女の掌に、新たな文字が浮かび上がっていた。
『優先消去対象、白石美咲』
「……そんな」
美咲の顔が青ざめた。
記憶が戻り始めたことで、彼女自身が消去の標的になったのだ。
直人は拳を握りしめた。
「絶対に、消させない」
そのとき、少女が直人の服を引いた。
「直人……」
「どうした?」
「私、もう一つだけ思い出した」
少女は、美咲を見つめていた。
「この人は、私を守ろうとしてくれた。でも……最後に、私の手を離したの」
美咲の表情が凍りついた。
「……私が?」
少女は不安そうに頷いた。
「どうしてなのかは、わからない。でも、あなたは泣いていた」
美咲は何も答えられなかった。
その目から、涙が一筋、頬を伝った。
直人は二人を見つめた。
守ろうとした人間が、なぜ手を離したのか。
それは裏切りだったのか。
それとも、ほかに方法がなかったのか。
答えを知るためには、失われた記憶を取り戻すしかない。
端末に残り時間が表示された。
『次の鐘まで、残り二十五分』
直人は、記録室の奥に並ぶ端末へ目を向けた。
「……母さん。あんたは、この結末まで知っていたのか?」
答える声はない。
ただ、暗くなった画面の隅に、一瞬だけ文字が浮かび上がった。
『第二記録者、再接続を開始』
直人は、その文字を見逃さなかった。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「第二記録者……それが、最後の鍵なのか」
次の鐘まで、残り二十五分。
守るべき人たちの過去が、少しずつ動き始めていた。




