第34話 扉の向こうの記録
第四段階、開始まで残り五分。
端末に表示された数字が、容赦なく減っていく。
直人は、目の前の扉を見つめていた。
厚い金属製の扉。
中央には、見覚えのない円形の紋様が刻まれている。
その周囲を、六本の細い線が取り囲んでいた。
「……この印」
直人は思わず呟いた。
以前、記録室の紙の裏に描かれていたものと同じだった。
円の中心に、一本の縦線。
そして、その周囲に伸びる六本の線。
何かを守るための印なのか。
それとも、何かを閉じ込めるためのものなのか。
「じいちゃん。この扉は何なんだ?」
「最終記録室だ」
老人は答えた。
「お前の母親が、最後に記録を残した場所だ」
「母さんは、ここで鐘を鳴らしたのか?」
「違う。鐘を鳴らしたあと、ここへ戻ってきた」
「何のために?」
老人は扉に手を触れた。
「自分が何をしたのか、忘れないためだ」
直人は眉を寄せた。
「母さん自身が、記憶を失うとわかっていたのか?」
「ああ」
老人は静かに頷いた。
「鐘を鳴らせば、記録に干渉した者にも影響が及ぶ。お前の母親は、自分の記憶が失われることを承知で、あの子を守ろうとした」
少女が顔を上げた。
「私を……?」
「そうだ」
老人は彼女を見つめた。
「だが、守り方を間違えたのかもしれない」
「どういうこと?」
「お前の母親は、あの子の名前を記録から消そうとした。私は、その記録を封じた。二度と誰にも見つからないようにするために」
老人の表情が苦しげに歪む。
「それが、あの子を守ることだと信じていた」
直人は、少女を見た。
彼女は何も言わなかった。
自分が誰なのかもわからないまま、他人の罪を聞かされている。
その姿が、どうしようもなく痛々しかった。
「……でも、それで彼女は自分の名前まで失った」
直人が言うと、老人は目を伏せた。
「そうだ」
「母さんも、自分の記憶を失った」
「ああ」
「だったら、誰も救われていないじゃないか」
老人は答えなかった。
直人の言葉を否定できなかったのだろう。
しばらくして、老人はポケットから小さな金属片を取り出した。
古びた鍵だった。
「これを使え」
直人は鍵を受け取った。
「どうして、じいちゃんが持っているんだ?」
「お前の母親から預かった。いつか、お前がここへ来ることがあれば渡してほしいと言われていた」
「いつかって……」
「お前が、自分の意思で真実を知ろうとしたときだ」
直人は鍵を見つめた。
母親は、ここまで来ることを予想していたのだろうか。
それとも、いつか自分が記憶を取り戻す可能性を信じていたのか。
どちらにしても、母親は何かを残していた。
直人は鍵を差し込んだ。
カチリ。
小さな音が響く。
扉の紋様が淡く光り、六本の線が一本ずつ点灯していった。
最後の一本が光った瞬間、扉がゆっくりと開いた。
その向こうには、小さな部屋があった。
中央に置かれた机。
壁一面に並ぶ記録端末。
そして、机の上に一冊の古いノートが置かれていた。
「……これが、最後の記録?」
美咲が尋ねる。
老人は頷いた。
「そうだ」
直人は部屋へ足を踏み入れた。
その瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
視界に、別の光景が重なる。
幼い自分。
母親の手。
そして、目の前で泣いている少女。
『直人、約束して』
母親の声が聞こえる。
『この子の名前を、絶対に口にしてはいけない』
『どうして?』
『名前を思い出すことが、この子を見つけるための鍵になるから』
幼い直人は、困ったように母親を見上げていた。
『でも、忘れたくないよ』
母親は、直人を抱きしめた。
『忘れなくていいの。忘れたふりをして、いつか本当に守れる日が来るまで、心の中にしまっておいて』
そこで、記憶が途切れた。
「……母さん」
直人は机に手をついた。
美咲が駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「ああ。でも、少しだけ思い出した」
「何を?」
「母さんは、少女の名前を消したかったわけじゃない。誰かに見つけられないように、隠そうとしていたんだ」
少女は、震える声で尋ねた。
「じゃあ、私の名前は……本当は、残っているの?」
「たぶん」
直人はノートを手に取った。
表紙には、母親の字で短い言葉が書かれていた。
『直人へ。すべてを思い出す前に、これを読んで』
直人はページを開いた。
最初のページには、日付と短い文章が並んでいた。
『最初の鐘を鳴らした日。
私は、一人の子供を守るために、世界の記録へ手を加えた。
あの子の名前を消すことは、あの子を救うことだと信じていた。
けれど、名前を消しても、あの子を追う者たちは止まらなかった。
彼らは、記録そのものを作り直そうとしている。
人間が誰を愛し、誰を忘れ、誰を救うのか。
それすら、決められる世界を作ろうとしている』
直人はページをめくった。
次のページには、さらに短い文章が書かれていた。
『私は、あの子の名前を封じた。
父には、その記録を守ってもらった。
直人には、あの子を忘れないでほしい。
矛盾していることはわかっている。
それでも、いつかこの子を救うためには、誰かが覚えていなければならない』
直人は顔を上げた。
「じいちゃん……」
老人は何も言わず、静かに頷いた。
「母さんは、少女を忘れさせたかったわけじゃないんだな」
「そうだ。だが、記録を封じた結果、お前もあの子のことを思い出せなくなった」
「それで、俺が第一記録者に?」
「お前は、あの子と最初に約束を交わした人間だった。だから、記録の仕組みが、お前を起点に動き始めたのだろう」
直人は、少女を見た。
「俺たちは、昔から知り合いだったんだな」
少女は答えなかった。
ただ、直人の顔をじっと見つめていた。
「……ごめんなさい」
彼女が呟いた。
「あなたのこと、まだ全部は思い出せない」
「謝らなくていい」
直人は首を振った。
「俺だって、君の名前を思い出せないんだから」
その言葉に、少女の目から涙がこぼれた。
直人はノートの続きを開こうとした。
しかし、次のページには何も書かれていなかった。
いや、正確には、文字が消されていた。
紙の表面には、何度も強くこすられた跡が残っている。
「……ここだけ、どうして?」
美咲がページを覗き込む。
直人はノートを傾けた。
光の加減で、薄い筆跡が浮かび上がる。
そこには、たった一行だけ残されていた。
『第四段階を止めるには、最初の記録者を――』
文章は、そこで途切れていた。
「最初の記録者って……」
直人が呟いた瞬間、部屋の端末が一斉に起動した。
『第四段階、開始』
警報が鳴り響く。
美咲の掌に、黒い文字が浮かび上がった。
――代替消去対象、白石美咲。
「美咲さん!」
直人が手を伸ばす。
しかし、今度は文字が消えなかった。
むしろ、彼女の腕へと黒い線が広がっていく。
「直人さん……」
美咲は苦しそうに息を吐いた。
「私、何かを……思い出しそうです」
「何を?」
「わかりません。でも、あなたと初めて会った日のことじゃない」
美咲の瞳が揺れた。
「もっと前から、私はあなたを知っていた気がするんです」
直人は息を呑んだ。
その瞬間、端末に新しい記録が表示された。
『関連記録を検出』
『白石美咲――第一記録者との接触履歴あり』
「……美咲さんも、第一記録者に関係しているのか?」
老人が画面を見つめた。
その顔から、血の気が引いていく。
「そんなはずはない……」
「じいちゃん?」
老人は震える指で画面を指さした。
そこには、最後の一行が表示されていた。
『記録者候補、白石美咲』
直人は言葉を失った。
美咲は、ただ記憶を失いかけているだけの人間ではない。
彼女自身が、この記録の仕組みに関わっている。
そして、その事実を祖父さえ知らなかった。
端末の画面が暗転する。
代わりに、女性の声が部屋いっぱいに響いた。
『直人。もし、この記録を読んでいるなら――』
母親の声だった。
『美咲さんを、信じてあげて』
直人は美咲を見た。
彼女は、何かを思い出そうとするように目を閉じていた。
『あの子の名前を知る前に、あなたはもう一人の記録者を見つけなければならない』
音声が途切れた。
そして、端末に新たな文字が浮かび上がった。
『次の鐘まで、残り三十分』
直人は顔を上げた。
第四段階は、もう始まっている。
美咲を救う方法も、少女の名前も、まだわからない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
母親は、すべてを直人に託していた。
直人はノートを胸に抱きしめた。
「……絶対に、誰も消させない」
その言葉に応えるように、遠くで鐘の余韻が響いた。
次の鐘が鳴るまで、残り三十分。
直人たちに残された時間は、もう長くなかった。




