第33話 母の声が聞こえる
「今度こそ、私を見つけて」
その声が消えたあとも、直人はしばらく動けなかった。
聞き間違えるはずがない。
顔も、声も、もうほとんど覚えていない。
それでも、胸の奥に残っている何かが、目の前の声を母親のものだと告げていた。
「……母さん?」
直人の掌が熱を帯びた。
黒い文字が薄れ、その下から白い文字が浮かび上がる。
――記録対象、朝霧直人。
――母親の記憶、復元開始。
直後、視界が揺れた。
見知らぬ部屋。
窓の外に広がる夕焼け。
小さなテーブルの上には、二つの湯飲みと、一枚の写真が置かれていた。
そして、その向こうに一人の女性が立っていた。
『直人』
女性が振り返る。
優しい目だった。
泣きそうな顔で、それでも笑おうとしている。
『大きくなったね』
「母さん!」
直人は手を伸ばした。
しかし、指先が触れる前に、景色が砕け散った。
「直人さん!」
美咲の声で、意識が現実に引き戻される。
直人は床に片膝をついていた。
額から汗が流れ落ちている。
「……今、母さんが」
「見えたんですか?」
「ああ。たぶん、記憶の中だ」
直人は息を整えながら、老人を見た。
「じいちゃん。あれは本当に母さんの記憶なのか?」
老人はすぐには答えなかった。
端末の画面を見つめ、やがて重い口を開いた。
「間違いない。お前の母親が残した記録だ」
「どうして、今になって戻り始めたんだ?」
「第一記録者の権限が目覚めたからだろう。だが、すべての記憶が戻るとは限らない」
「どういうことだよ」
「記憶は、ただ保管されているわけではない。消された記録の中には、二度と復元できないものもある」
老人は苦しそうに目を伏せた。
「私が、そうした」
直人の胸に怒りが込み上げた。
「じいちゃんが……?」
「そうだ。私はお前の母親に頼まれ、ある記録を封じた」
「少女の名前か?」
老人は少女を見た。
少女は、二人の会話を理解できない様子で立っていた。
「私にも、わからないの。どうしてみんな、私のことを知っているの?」
少女の声は震えていた。
「どうして私は、自分の名前すら思い出せないの?」
直人は答えられなかった。
老人が、ゆっくりと口を開く。
「お前の母親は、あの子を守るために最初の鐘を鳴らした。だが、その鐘によって、あの子の記録が完全に消えたわけではなかった」
「だから、じいちゃんが残りを消したのか?」
「違う」
老人は首を横に振った。
「私は、消すためではなく、隠すために記録を封じた。誰かがあの子を探し出し、世界から完全に切り離そうとしていたからだ」
「誰がそんなことを……」
「記録者だ」
その言葉と同時に、端末が警告音を鳴らした。
画面に赤い文字が浮かぶ。
『記憶復元率、上昇』
『対象者、朝霧直人』
『関連記録、白石美咲』
直人は顔を上げた。
「美咲さん?」
美咲は自分の掌を見つめていた。
先ほどまで薄くなっていた黒い文字が、再び濃くなっている。
――代替消去対象、白石美咲。
「そんな……」
美咲の唇が震えた。
「直人さんの記憶が戻るたびに、私の記録が消されるんですか?」
「そんなこと、させるか」
直人は美咲の手を取った。
その瞬間、掌に白い光が灯った。
だが、いつもの治癒の光とは違う。
光は美咲の手を包み込むと、彼女の掌に浮かんだ黒い文字の一部を薄くした。
――消去処理、一時停止。
「止まった……?」
美咲が呟いた。
直人は自分の手を見つめた。
記憶を修復するだけではない。
記録そのものに、干渉できるのかもしれない。
「じいちゃん。俺の力は、一体何なんだ?」
老人は、悲しそうに笑った。
「お前の母親は、それを希望と呼んでいた」
「希望……?」
「失われたものを、もう一度つなぎ直す力だ」
老人は直人の掌を見つめた。
「だが、何でも元に戻せるわけではない。お前が誰かを救おうとするほど、記録者は別の誰かを代わりに消そうとする」
「そんな仕組み、間違ってる」
「ああ。だからこそ、お前の母親は鐘を鳴らした」
老人は、記録室の奥を指さした。
「そして、失敗した」
直人の体が強張った。
「……母さんは、何を失敗したんだ?」
「世界を救おうとした。だが、すべてを救うことはできなかった」
老人の声がかすれた。
「その結果、あの子の名前は失われ、お前の母親自身の記憶も、世界の記録から切り離されていった」
直人は息を呑んだ。
母親の記憶が戻り始めている。
それなのに、母親自身はどこにいるのか。
生きているのか。
それすら、まだわからない。
そのとき、少女が小さく声を上げた。
「……聞こえる」
「何が?」
直人が尋ねる。
少女は自分の胸元に手を当てた。
「誰かが、私を呼んでる」
端末の画面が一斉に切り替わった。
『第四段階、開始条件を確認』
『最初の記録者の帰還を待機』
そして、画面の隅に、新しい文字が現れた。
『対象者、朝霧紗月』
直人は目を見開いた。
「紗月……?」
それは、母親の名前だった。
画面の下には、さらに一行が表示されていた。
『記録状態、生存確認不能』
老人は、静かに目を閉じた。
「直人。お前の母親は、まだ完全には消えていない」
「どこにいるんだ!」
「それを確かめるために、奥へ進む必要がある」
老人は扉に向かって歩き始めた。
「だが、覚悟しておけ。あの扉の向こうにあるのは、お前が望む答えだけではない」
直人は美咲を振り返った。
彼女は不安そうな顔をしていたが、逃げようとはしなかった。
「一緒に行きます」
「美咲さん……」
「今度は、誰かを犠牲にして終わらせるんじゃなくて、みんなが戻れる方法を探しましょう」
直人は頷いた。
少女もまた、何かを思い出そうとするように、二人の手を見つめていた。
そして、三人が扉へ向かおうとした瞬間。
施設のスピーカーから、女性の声が響いた。
『直人。そこから先へ進んではいけない』
直人は立ち止まった。
それは、先ほど聞いた母親の声だった。
『お願い。あの扉を開けたら、あなたは私のことを思い出してしまう』
声が震える。
『そして、私を見つけた瞬間、あなたは――』
そこで、音声が途切れた。
端末に、新たな警告が表示される。
『記録者による音声遮断』
『第四段階、開始まで残り五分』
直人は、閉ざされた扉を見つめた。
その向こうに母親がいるのか。
それとも、母親が隠そうとした真実があるのか。
どちらにしても、もう引き返すことはできなかった。
「……待っててくれ、母さん」
直人は、扉に手を伸ばした。
その瞬間、少女が彼の袖をつかんだ。
「直人」
少女の口から、初めて自然に名前がこぼれた。
直人は振り返る。
「今、俺の名前を……」
少女は戸惑ったように自分の口元を押さえた。
「どうしてだろう。あなたの名前だけ、少しだけ覚えている気がする」
彼女の瞳に、小さな光が戻っていた。
だが、その直後。
美咲の掌に、黒い文字が再び浮かび上がった。
――消去処理、再開。
残り時間は、五分。
直人は拳を握りしめた。
母親を見つけるのか。
美咲を救うのか。
それとも、二人とも救う方法を探すのか。
答えは、まだ見つからなかった。




