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次の鐘が鳴るまで  作者: パルパル


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第31話 忘れていく君の手を

 少女の顔が、消えていく。


 目の前にいる。


 手を握っている。


 声だって聞こえている。


 それなのに、直人の頭の中から、彼女の顔だけが少しずつ失われていた。


「……待ってくれ」


 直人は、握った手に力を込めた。


「君は、誰なんだ?」


 口にした瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。


 忘れたくない。


 そう思っているのに、何を忘れたくないのかさえ、うまく言葉にできない。


 少女は悲しそうに笑った。


「もう、始まっちゃったんだね」


「何がだよ!」


「私を忘れること」


「そんなの、させるか!」


 直人は叫んだ。


 地下施設に警報が鳴り響いている。


 赤い照明が壁を染め、記録室の紙が一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。


 そのすべてから、少女に関する文字が消えていた。


 名前のあった場所は空白になり、写真に写った少女の顔は、まるで最初から誰もいなかったかのように白くなっていく。


「管理人さん! 止める方法はないんですか!」


 美咲が叫んだ。


 管理人は壁際の端末を操作していた。


 しかし、画面には同じ文字が繰り返し表示されている。


『第三段階、進行中』


『記録の再構築を開始』


『対象者の記憶を初期化します』


「駄目です……!」


 管理人が拳を壁に打ちつけた。


「私の権限では、停止できない!」


「あなたの筆跡が残っていたんでしょう!」


 直人が振り返る。


「この施設のことを、何も知らないわけじゃないはずです!」


「本当に知らないんです!」


 管理人は苦しそうに首を振った。


「ですが、知っていたはずだという感覚だけはある。ここで何かを守っていた。誰かを……守っていたはずなんです」


「誰を?」


「それが、思い出せないんです!」


 管理人の声が震えた。


 直人は、それ以上追及できなかった。


 自分も同じだったからだ。


 忘れてはいけない何かがある。


 手を離してはいけない誰かがいる。


 それなのに、記憶が指の隙間からこぼれていく。


「直人さん」


 美咲が近づいてきた。


「私に、その子の手を握らせてください」


「……どうするつもりですか?」


「わかりません。でも、直人さんの力が記憶を修復したなら、何かできるかもしれません」


 直人は少女を見た。


「いいか?」


 少女は小さく頷いた。


 美咲が、二人の手に自分の手を重ねる。


 その瞬間。


 直人の掌が淡く光った。


 しかし、いつもの治癒の光とは違っていた。


 白い光の中に、細い黒い線が混じっている。


 まるで、破れた紙を縫い合わせる糸のようだった。


「これは……」


 美咲が息を呑む。


 直人の頭の中に、また光景が流れ込んできた。


 夕焼けの帰り道。


 小さな公園。


 古いブランコ。


 隣で笑う少女。


『直人、約束だよ』


 幼い自分が頷いている。


『何があっても、私を忘れないでね』


『うん。絶対に忘れない』


 そこで、光景が途切れた。


 直人は目を見開いた。


「……そうだ」


 声が震えた。


「俺は、君と約束したんだ」


 少女の瞳が揺れた。


「思い出したの?」


「全部じゃない。でも……忘れないって約束した」


 少女は唇を噛んだ。


「駄目だよ。思い出しちゃ駄目なのに」


「どうしてだよ!」


「あなたが消えちゃうから!」


 少女の声が、初めて大きくなった。


「あなたが私を思い出すたびに、あなたの記録が壊れていく。あなたが誰だったのか、何をしてきたのか、全部なくなっちゃうんだよ!」


「それでも、君を忘れたくない!」


「どうして……?」


 少女の頬を涙が伝った。


「どうして、そんなことを言うの?」


 直人は答えようとした。


 けれど、言葉が出なかった。


 理由なんて、わからない。


 ただ、目の前の少女を忘れることだけは、どうしても受け入れられなかった。


 そのとき。


 直人の掌に、文字が浮かび上がった。


 ――第一記録者、記憶修復を検知。


 ――消去処理を再計算します。


 そして、残り時間を示していた数字が変わった。


 十分。


 九分。


 八分。


 それまで減り続けていた数字が、突然、止まった。


「止まった……?」


 美咲が呟いた。


 直人も、自分の手を見つめる。


 しかし、安心する間もなく、別の文字が浮かび上がった。


 ――代替消去対象を選定。


 ――候補者、白石美咲。


「……え?」


 美咲が自分の手を見た。


 そこには、直人と同じ黒い文字が刻まれ始めていた。


「美咲さん!」


 直人は彼女の手をつかんだ。


 美咲は驚いた顔で直人を見た。


 そして、ゆっくりと微笑んだ。


「大丈夫です」


「何が大丈夫なんですか!」


「直人さんが、その子を忘れたくない理由が、少しわかった気がします」


「そんなこと、今はどうでもいい!」


「いいえ。大事なことです」


 美咲は少女に視線を向けた。


「誰かを忘れないために、別の誰かを犠牲にしなければならない。そんな仕組みがあるなら、私は間違っていると思います」


 少女は、呆然と美咲を見つめていた。


「あなたは……」


 少女が何かを言いかけた。


 けれど、その言葉は最後まで続かなかった。


 少女の瞳から、直人を見つめる感情が消え始めていた。


「……ごめんなさい」


 少女は呟いた。


「私、あなたのことが……わからなくなってきた」


 直人の心臓が凍りついた。


「おい、待ってくれ!」


 少女の手が、少しずつ冷たくなる。


「俺は朝霧直人だ。君と約束した人間だ!」


「……あさぎり、なおと」


 少女は、確かめるように名前を繰り返した。


 けれど、その表情に浮かんでいたのは、懐かしさではなかった。


 知らない人の名前を聞いたときの、戸惑いだった。


「誰……?」


 その一言で、直人の中の何かが崩れた。


 目の前にいる。


 手を握っている。


 それなのに、彼女はもう、自分を知らない。


「……そんな」


 直人の掌から光が消えた。


 同時に、記録室の奥で、何かが開く音がした。


 重い金属の扉。


 その向こうから、足音が近づいてくる。


 ゆっくりと。


 一歩ずつ。


 やがて、扉の向こうから男の声が響いた。


「そこまでだ、直人」


 聞き覚えのある声だった。


 直人は顔を上げた。


「……誰だ?」


 男は答えなかった。


 代わりに、記録室の照明がすべて点灯した。


 扉の向こうに立っていたのは、白い上着を着た老人だった。


 皺の深い顔。


 白髪交じりの髪。


 そして、直人を見つめる、疲れ切った目。


 直人は息を呑んだ。


 知らない顔のはずだった。


 なのに、その姿を見た瞬間、胸の奥が強く痛んだ。


「……じい、ちゃん?」


 老人は、ゆっくりと目を閉じた。


「すまない、直人」


 その声は、間違いなく懐かしいものだった。


「今度こそ、お前を守るつもりだった」


 老人は少女を見つめた。


「だが、あの子まで巻き込んでしまった」


 少女は首を傾げた。


「……あなたは、誰?」


 老人の顔が歪んだ。


 彼女もまた、老人を忘れていた。


 老人は一歩、前に出た。


「私は、お前たち二人に、忘れられるべき人間だ」


 そして、直人の掌を見つめた。


「第三段階を止めるには、方法が一つしかない」


「何ですか?」


 直人は問い詰めた。


 老人は、静かに答えた。


「お前が、最初の鐘を鳴らすんだ」


 その瞬間。


 施設のすべての時計が、午前零時を示した。


 そして、誰もいないはずの地下から。


 最初の鐘が、鳴り始めた。

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