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次の鐘が鳴るまで  作者: パルパル


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第30話 思い出してはいけない人

「私の名前を思い出さないで」


 少女の言葉が、直人の胸に残っていた。


 思い出してはいけない。


 普通なら、そんなことを言われる理由がわからない。


 けれど、直人の頭の中には、確かに誰かの記憶が浮かび始めていた。


 小さな手。


 夕焼けの帰り道。


 隣を歩く、もう一人の子供。


 顔は見えない。


 声も、はっきりとは聞こえない。


 それでも、その光景を思い浮かべるたび、胸が締めつけられた。


「……君は、俺の知り合いだったのか?」


 少女は答えなかった。


 ただ、直人の手を握る指に力を込めた。


「思い出したら、何が起きるんだ」


「あなたが、あなたでなくなる」


「それは、名前を忘れることとは違うのか?」


「違うよ」


 少女は首を横に振った。


「名前を忘れるだけなら、まだ戻れる。でも、あなたが私を思い出したら、今までのあなたが消えてしまう」


 直人は、手のひらに浮かんだ文字を見た。


 ――消去まで、残り三十分。


「それなら、どうして俺を呼んだんだ?」


「呼んだのは、私じゃない」


 少女の目に、恐怖が浮かんだ。


「私は、あなたに見つかりたくなかった。でも、誰かが扉を開けたの」


「誰かって……」


「記録者」


 その名前を聞いた瞬間、部屋の照明が明滅した。


 壁に貼られた紙が、一斉に震え始める。


 そして、部屋のスピーカーから声が響いた。


『朝霧直人。記録室から離れてください』


 記録者の声だった。


「あなたが、この記録を作ったんですか!」


 直人が叫ぶ。


『質問に答える時間はありません』


「なら、答えられることだけでいい。俺は何者なんですか?」


 沈黙。


 長い沈黙のあと、記録者は言った。


『君は、鐘を止めるために必要な人間だ』


「それだけですか?」


『それ以上を知れば、君は元に戻れなくなる』


「もう、元に戻れないところまで来ているんでしょう!」


 直人の声が部屋に響いた。


「俺の名前が消されようとしている。俺の知らない記録に、第一記録者と書かれている。なのに、何も知らないまま逃げろと言うんですか!」


 記録者は答えなかった。


 代わりに、壁の時計が音を立てた。


 カチ。


 残り二十九分。


 カチ。


 残り二十八分。


 時計は、誰かに急かされるように動いていた。


「直人さん……」


 美咲が不安そうに呼びかけた。


 彼女の手のひらにも、黒い文字が浮かんでいる。


 ――記憶照合、開始。


 その下には、見慣れない数字が並んでいた。


「美咲さん、何が書いてあるんですか?」


「わかりません。でも……」


 美咲は額を押さえた。


「私も、何かを忘れている気がするんです」


「何を?」


「直人さんと、初めて会ったときのことです」


 直人は言葉を失った。


「覚えているはずなのに。どこで会って、何を話したのか……思い出そうとすると、頭の中が真っ白になるんです」


 美咲の目に涙が浮かんだ。


「私、本当に直人さんを知っているんですよね?」


「もちろんです」


 直人は迷わず答えた。


「俺は、あなたを知っています」


「……よかった」


 美咲は、ほっとしたように笑った。


 しかし、その笑顔はすぐに崩れた。


「でも、どうして……」


 彼女は直人から一歩離れた。


「どうして、あなたの顔が思い出せないんですか?」


 直人の心臓が跳ねた。


 美咲は彼を見ている。


 目の前にいるのに、顔がわからないと言っている。


「美咲さん。俺です。朝霧直人です」


「……あさぎり、なおと」


 美咲は、確かめるように名前を繰り返した。


 その瞬間、手のひらの文字が黒く滲んだ。


 ――記憶照合、失敗。


 美咲が膝をついた。


「美咲さん!」


 直人が駆け寄る。


 彼女の肩に触れた瞬間、直人の手が淡く光った。


 治癒能力が発動する。


 しかし、今度も傷はない。


 光は美咲の胸元へと広がり、彼女の体を包んだ。


 数秒後。


 美咲は、ゆっくりと顔を上げた。


「……直人さん?」


「美咲さん、わかりますか?」


「はい。わかります」


 彼女は直人の手を握り返した。


「あなたは、朝霧直人さんです」


 直人は安堵した。


 だが、治癒の光が消える直前、直人の手のひらに新しい文字が浮かんだ。


 ――記憶修復を確認。


 ――第一記録者の権限を一部解放。


「第一記録者の権限……?」


 直人が呟くと、壁に貼られていた紙の一枚が、ひとりでに剥がれ落ちた。


 紙の裏には、古い写真が貼られていた。


 写っているのは、二人の子供。


 一人は幼い直人だった。


 そして、もう一人は――。


 直人は、息を止めた。


 その少女の顔を、知っている気がした。


 写真の裏には、短い文章が書かれていた。


 ――最初の鐘が鳴る前に、この子の記録を消せ。


 直人の指先が震えた。


「……誰が、こんなことを」


 少女は、悲しそうに目を伏せた。


「あなたのおじいさんだよ」


 直人は顔を上げた。


「俺の……祖父?」


「うん。あなたを守るために、私の名前を消したの」


 少女は一歩、直人に近づいた。


「だから、お願い。全部を思い出す前に、私をここから連れ出して」


 その瞬間、地下施設全体に警報が鳴り響いた。


 壁の時計が、残り十分を示す。


 そして、スピーカーから記録者の声が響いた。


『緊急警告。第一記録者の権限が解放されました』


『これより、第三段階へ移行します』


 直人は少女を見つめた。


「第三段階って、何なんだ」


 少女は答えなかった。


 ただ、直人の手を強く握った。


 その手は、驚くほど冷たかった。


 やがて、少女は小さな声で言った。


「……今度は、私があなたを忘れる番なんだ」


 直後。


 壁一面の記録から、少女に関する文字が一斉に消え始めた。


 そして、直人の記憶の中でも。


 少女の顔が、少しずつ見えなくなっていった。

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