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次の鐘が鳴るまで  作者: パルパル


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第29話 消去まで、あと一時間

「消去って……何を消すんだよ」


 直人は、自分の手のひらに浮かんだ文字を見つめていた。


 ――記録対象、朝霧直人。


 ――消去まで、残り一時間。


 黒い文字は、皮膚に刻まれたように消えなかった。


「直人さん、見せてください」


 美咲が手を伸ばす。


 彼女の指が文字に触れた瞬間、びくりと肩を震わせた。


「……冷たい」


「冷たい?」


「はい。まるで、氷に触れたみたいに」


 美咲は直人の手を離さなかった。


「一時間以内に何かが起きるなら、止める方法を探しましょう」


「でも、何を消されるのかもわからない」


「だから、調べるんです」


 その言葉に、直人は小さく頷いた。


 そのとき、食堂の照明が戻った。


 少女の姿は、もうなかった。


 残っていたのは、床に落ちた一枚の紙だけだった。


 佐伯が拾い上げる。


「……これは」


 紙には、見覚えのある刻印があった。


 円の中に一本の線。


 その下に、小さな傷が三つ。


 古い鍵と同じ印だった。


 そして、紙の中央には、こう書かれていた。


 ――記録室へ。


「記録室……」


 直人は呟いた。


「地下にある、あの場所か」


「でも、さっきの扉は消えたはずです」


 美咲が言った。


「壁にも、扉の跡はありませんでした」


「扉が消えたんじゃなくて、俺たちが見つけられなくなっただけかもしれない」


 直人は、紙を握りしめた。


「行ってみよう」


 地下へ続く階段を下りる。


 佐伯は古い鍵を手に持ち、何度も刻印を確かめていた。


「この鍵は、千尋が残したものだ」


「まだ、思い出せないんですか?」


 直人が尋ねる。


 佐伯は首を横に振った。


「顔も、声も、何も思い出せない。ただ、あの子を忘れたままでいることが、間違いだという気がするんだ」


「それなら、思い出すまで一緒に探しましょう」


 直人は言った。


「約束は、覚えていることだけで守るものじゃないと思います」


 佐伯は何も答えなかった。


 ただ、鍵を握る手に力がこもった。


 地下室に着くと、管理人が壁を調べ始めた。


「この辺りです。先ほど、確かに扉がありました」


 壁には、何の変哲もない灰色の塗装があるだけだった。


 直人は手のひらを壁に当てた。


 冷たい。


 その感触の奥に、かすかな振動が伝わってくる。


「……ここだ」


 直人が呟いた。


「何か、聞こえます」


 美咲が耳を澄ませた。


 壁の向こうから、規則的な音がする。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 まるで、誰かが時計を動かしているようだった。


「鍵を貸してください」


 佐伯が古い鍵を差し出す。


 直人は鍵の先端を壁に近づけた。


 すると、金属が熱を帯びたように淡く光った。


 壁の中央に、円の刻印が浮かび上がる。


 鍵を差し込む場所はない。


 それでも、直人が鍵を刻印に重ねると、小さな音が響いた。


 カチリ。


 壁が左右に分かれた。


 その向こうに、狭い部屋が現れた。


 部屋の壁一面に、無数の紙が貼られている。


 名前。


 日付。


 鐘が鳴った時刻。


 そして、失われた記憶の記録。


 直人は、壁に近づいた。


 そこには、見覚えのある名前があった。


 田島。


 美咲。


 佐伯。


 そして、朝霧直人。


 直人の名前の横には、奇妙な記号が並んでいた。


 記録開始。


 記憶照合。


 存在消去。


 その三つの項目のうち、最後の欄だけが赤く塗られていた。


「これ……俺たちのことを調べていたんですか」


 美咲が呟いた。


「誰が、こんなことを」


 管理人は青ざめていた。


「こんな記録室、私は知りません」


「本当に?」


 直人が尋ねると、管理人は苦しそうに頷いた。


「本当です。ですが……」


「ですが?」


「この筆跡は、私のものに似ています」


 直人は管理人を見た。


「どういうことですか」


「わかりません。書いた覚えはないんです」


 管理人の声が震えた。


「でも、私が書いたと言われたら、否定できない気がする」


 そのとき、部屋の奥で紙が一枚、ひらりと落ちた。


 直人は拾い上げた。


 そこには、少女の名前が書かれているはずだった。


 しかし、名前の部分だけが黒く塗りつぶされていた。


 下には、短い文章が残っている。


 ――この子を忘れた者は、次の鐘を止められない。


 直人の胸が強く痛んだ。


 忘れた者。


 少女を忘れた者。


 千尋を忘れた佐伯。


 そして、名前を失いかけている自分。


「……俺は、この子を知っているのかもしれない」


 直人が呟いた瞬間、部屋の奥から声がした。


「知っているよ」


 全員が振り返る。


 そこには、先ほどの少女が立っていた。


 今度は、姿が透けていない。


 少女は直人を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「あなたは、私を忘れたんじゃない」


「じゃあ、どういうことなんだ」


「あなたは、私のことを覚えていてはいけないと言われたの」


 直人は息を呑んだ。


「誰に?」


 少女は答えなかった。


 代わりに、壁の記録を指さした。


「その名前を見て」


 直人は視線を戻した。


 少女の名前が塗りつぶされた欄。


 その下に、もう一つの名前があった。


 朝霧直人。


 その横には、見たことのない記号が記されている。


 ――第一記録者。


 直人は、ゆっくりと首を振った。


「……違う。俺は、ただの人間だ」


 少女は悲しそうに微笑んだ。


「うん。だから、あなたにお願いしたいの」


「何を?」


「私を思い出す前に、ここから逃げて」


 少女の背後で、壁の時計が動き始めた。


 残り時間は、三十分。


 直人の手のひらに、再び文字が浮かんだ。


 ――記録対象、朝霧直人。


 ――消去まで、残り三十分。


 少女は涙をこらえるように唇を噛んだ。


「もう、間に合わないかもしれない」


 そして、初めて自分から直人の手を取った。


「お願い。私の名前を思い出さないで」


 その瞬間、直人の頭の中で、誰かの笑い声が響いた。


 懐かしくて。


 苦しくて。


 絶対に忘れてはいけないはずの声だった。

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