第3話 午前六時、剥がれ落ちる仮面
朝になれば、何かが変わると思っていた。
太陽が昇れば人々は落ち着き、警察や自衛隊が事態を収拾し、テレビからは原因と対策が発表される。
そんな都合のいい未来を、俺はどこかで期待していた。
午前六時。
窓の外は、いつもと同じように明るくなり始めていた。
だが、世界は元には戻らなかった。
「お兄ちゃん、これ……」
美咲がスマートフォンを差し出した。
父親は建物の奥で横になっている。俺が治した傷は塞がっていたが、体力を消耗しているらしく、まだ起き上がれない。
画面には、短い動画が映っていた。
街角で、数人の男女が一人の老人を取り囲んでいる。
老人は何度も頭を下げていた。
そのうちの一人が、老人の胸ぐらをつかんだ。
『あんた、さっき俺の母親を殴っただろ!』
老人は何も答えられない。
動画の投稿者は、興奮した声で説明していた。
鐘が鳴った直後、老人は突然暴れ出したという。
周囲の人間を次々と殴り、止めに入った人まで傷つけた。
そして、正気に戻った。
すべてを覚えていた。
『どうしてくれるんだよ!』
怒鳴り声が響く。
老人は泣いていた。
『わしは……わしは、そんなつもりじゃ……』
動画はそこで途切れた。
「……ひどいね」
美咲がつぶやいた。
俺は答えられなかった。
老人が何をしたのか、詳しい事情はわからない。
凶暴化していた間、本人の意思で行動を止められなかったのかもしれない。
それでも、傷つけられた側からすれば、理由など関係ない。
殴られた痛みは消えない。
壊されたものも、失われた時間も戻らない。
そして何より、加害者が正気に戻ったところで、被害者の恐怖が消えるわけではなかった。
「お兄ちゃんは、あの人が悪いと思う?」
美咲が尋ねた。
「……わからない」
俺は正直に答えた。
「自分でやろうと思ってやったのか、そうじゃないのか。それがわからないから」
「じゃあ、悪くないの?」
「それも、わからない」
美咲は黙った。
子供に答えを求められても、俺には何も教えられなかった。
俺だって、昨日まで普通に会社へ通っていた人間なのだ。
正義を語れるほど立派な人生を送ってきたわけではない。
ただ、目の前で誰かが泣いていたら、できる範囲で助けたい。
その程度のことしか考えていなかった。
ところが、世界はその程度の善意すら、簡単には許してくれないらしい。
建物の入口から、声が聞こえた。
「誰かいませんか!」
男の声だった。
「中に人がいるんだろ! 開けてくれ!」
俺は立ち上がった。
美咲の父親も、壁に手をつきながら起き上がろうとする。
「待ってください。俺が見てきます」
入口へ近づき、ドアの隙間から外を確認した。
男が一人。
手には大きなバッグを持っている。
顔には傷があり、服も汚れていた。
「どうしました?」
「助けてくれ! 頼む、少しだけ中に入れてくれ!」
男は必死だった。
背後から何かを警戒するように、何度も振り返っている。
「追われているんですか?」
「そうだ! あいつら、頭がおかしいんだ!」
俺は扉に手をかけた。
そのときだった。
「そいつを入れるな!」
建物の向こうから、別の男が走ってきた。
五十代くらいの男性だった。
「そいつは、さっき店から食料を盗んだんだ!」
「違う! 俺は必要なものを持ってきただけだ!」
「必要なものだと? 金を払わずに持っていっただろう!」
二人の声がぶつかる。
俺は扉を開けるべきか、閉めるべきか、判断できなかった。
食料を盗んだという男を入れれば、建物の中にいる人たちが危険にさらされるかもしれない。
しかし、外に置いていけば、彼が再び襲われる可能性もある。
「頼む! 俺には家族がいるんだ!」
バッグを持った男が叫んだ。
「子供が待ってるんだ!」
その言葉に、俺の手が止まった。
家族。
子供。
美咲の姿が頭に浮かんだ。
どんな人間にも、守りたいものがある。
それはわかる。
だが、守りたいものがあるからといって、他人を傷つけていいわけではない。
「……何を盗んだんですか?」
俺は尋ねた。
男は一瞬、目をそらした。
「水と食料だ」
「お金は?」
「そんなもの、今は意味がないだろ!」
怒鳴られ、俺は思わず身を引いた。
その瞬間、男の表情が変わった。
「お前も、俺を見捨てるのか?」
責めるような声だった。
まるで俺が、彼の人生を壊した張本人であるかのように。
俺は何も言えなかった。
結局、男は中に入れなかった。
入口の前で、もう一人の男性が彼を問い詰め続けていた。
俺は扉を閉めた。
正しい判断だったのかはわからない。
しばらくして、外から足音が遠ざかっていった。
美咲が俺のそばに来た。
「助けてあげなかったの?」
「……ああ」
「どうして?」
俺は答えられなかった。
危険だったから。
他の人を守るためだったから。
そう説明することはできる。
でも、本当は。
俺自身が怖かったのだ。
誰かを助けて、別の誰かに傷つけられることが。
間違った判断をして、取り返しのつかないことになるのが。
そして、自分の善意が誰かを不幸にすることが。
俺は普通の人間だった。
だから、怖かった。
窓の外では、朝日が街を照らしていた。
その光の下で、人々は助け合っていた。
同じ光の下で、人々は互いを責めていた。
そして、誰もが自分の行動を正しいものにしようとしていた。
世界が壊れたことで、人間が別の生き物になったわけではない。
ただ、隠しておけたものが、隠せなくなっただけなのかもしれなかった。
俺は自分の手のひらを見た。
人の傷を治せる手。
けれど、その手で誰を助けるべきなのか。
その答えは、まだどこにもなかった。




