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次の鐘が鳴るまで  作者: パルパル


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第2話 午前零時三十分、最初の救助

 最初に助けた男の顔を、俺は今でも忘れられない。


 いや、正確には顔だけではない。


 震える指も、血に染まったシャツも、何度も繰り返した「ごめんなさい」という言葉も。


 あの夜のことを語るなら、時計の針を少しだけ戻さなければならない。


 午前零時三十分。


 世界が壊れてから、まだ三十分しか経っていなかった。


「動けますか?」


 コンビニの床に座り込んでいた男に、俺は手を差し出した。


 男は四十代くらいだった。


 額が切れ、頬が腫れている。俺が傷を治したことで出血は止まっていたが、恐怖までは消えていないらしい。


「……あんたが、治したのか?」


「俺にも、よくわかりません」


「手を触っただけで?」


「そうみたいです」


 自分で答えながら、俺はひどく間抜けな気分になった。


 人の傷を治せる。


 言葉にすれば、それだけのことだ。


 だが、そんなことができる人間が普通にいるはずがない。


 病院に行けば医者がいる。薬を飲めば治る病気もある。時間が経てば塞がる傷だってある。


 それでも、人間の手のひらから淡い光が広がり、裂けた皮膚が元に戻るなんてことは起きない。


 少なくとも、昨日までの世界では。


「ありがとう」


 男が言った。


 俺は返事に困った。


 ありがとうと言われるようなことをしたのだろうか。


 助けようと思ったのは確かだ。


 でも、あの瞬間に俺が動いたのは、立派な信念があったからではない。


 目の前で人が殴られていた。


 助けを求める声が聞こえた。


 それを無視して逃げたら、あとで自分が嫌になると思った。


 たったそれだけだ。


「……立てるなら、外に出ましょう。ここは危ない」


 男を支え、コンビニの外へ出る。


 道路には車が何台も乗り捨てられていた。


 遠くでサイレンが鳴り続けている。


 スマートフォンには、政府からの緊急情報が次々と届いていた。


 屋内へ避難すること。


 凶暴化した人間には近づかないこと。


 可能な限り、複数人で行動すること。


 どれも正しいのだろう。


 ただし、正しいことを実行できるだけの余裕が、誰にでもあるわけではなかった。


「お兄ちゃん!」


 道路の向こうから、子供の声が聞こえた。


 振り向くと、小学生くらいの女の子が自動販売機の陰に隠れていた。


 その先には、倒れた自転車。


 そして、血を流して動かない男性がいた。


「お父さん……お父さん、起きてよ……!」


 女の子が泣きながら駆け寄ろうとする。


「待って!」


 俺は思わず叫んだ。


 男性のすぐそばで、別の男がうずくまっていたからだ。


 その男は、何かをつぶやきながら両手で頭を抱えていた。


「違う……俺じゃない……俺は……」


 正気に戻ったばかりなのかもしれない。


 しかし、今はそんなことを考えている場合ではなかった。


 俺は女の子のもとへ走った。


「お父さんなのか?」


 女の子が何度も頷く。


「さっきまで一緒だったの! 急に知らない人みたいになって……お父さんを押して、それで……!」


 彼女の視線の先で、男性が浅く息をしていた。


 胸が動いている。


 生きている。


「大丈夫だ。俺が見るから」


 そう言った瞬間、俺は自分の言葉に驚いた。


 何が大丈夫なのか。


 俺は医者ではない。


 救急救命の資格もない。


 人の傷を治す不思議な力があるらしい。それだけだ。


 それでも、女の子は俺の言葉を信じたように、少しだけ後ろへ下がった。


 俺は男性のそばに膝をついた。


 額から血が流れている。呼吸は弱く、意識もない。


「頼むから……」


 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


 俺は男性の肩に手を置いた。


 淡い光が広がる。


 手のひらから、何かが流れ出していく感覚がした。


 男性の額の傷が塞がった。


 呼吸が少しだけ安定する。


 だが、それ以上は変化がなかった。


「……え?」


 もう一度、手を当てる。


 光が弱々しく広がる。


 傷は治っている。


 それなのに、男性は目を開けなかった。


 俺は必死に呼びかけた。


「聞こえますか! 目を開けてください!」


 返事はない。


 女の子が泣き出した。


「お父さん……お願い……」


 そのとき、男性の指がわずかに動いた。


 次いで、苦しそうな息が漏れる。


「……美咲?」


「お父さん!」


 女の子が父親に抱きついた。


 美咲という名前らしい。


 俺はその場に座り込みそうになった。


 助かった。


 少なくとも、今は。


 俺の力で傷が治ったのか。それとも、もともと助かる状態だったのか。


 確かなことは何もわからない。


 それでも、目の前で泣いていた子供が、今度は父親の胸に顔を埋めて泣いている。


 その光景だけは、本物だった。


「ありがとう……本当に、ありがとう……!」


 美咲の父親が俺に頭を下げようとする。


「やめてください。まだ、救急車を呼ばないと」


 俺は慌てて彼を支えた。


 スマートフォンで救急に連絡を入れる。


 だが、回線は混雑していた。


 何度かけても、つながらない。


 遠くでガラスが割れる音がした。


 続いて、悲鳴。


 俺たちは一斉に顔を上げた。


 道路の向こうから、数人の人影が走ってくる。


 その先頭にいた男は、口元を血で汚していた。


「逃げろ……!」


 誰かが叫んだ。


 俺は美咲の父親を支え、彼女の手をつかんだ。


「こっちだ!」


 近くの建物へ駆け込む。


 扉を閉める直前、俺は一度だけ振り返った。


 さっきまで俺たちがいた場所で、誰かが助けを求めていた。


 俺は足を止めかけた。


 しかし、後ろから美咲の手が俺の服をつかんだ。


「お兄ちゃん……!」


 その小さな手を振りほどくことはできなかった。


 扉を閉める。


 外から、激しい衝突音が響いた。


 俺は息を切らしながら、暗い廊下に立ち尽くした。


 一人を助けた。


 そのために、別の誰かを置いてきた。


 あのときの俺は、まだ知らなかった。


 これから何度も、同じ選択を迫られることを。


 そして、そのたびに、助けられなかった誰かの顔を忘れられなくなることを。

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