第1話 午前零時、世界が壊れた
その日、世界は午前零時に壊れた。
前触れはなかった。
空が赤く染まったわけでも、地震が起きたわけでもない。テレビの速報が流れたわけでもなければ、誰かが世界の終わりを宣言したわけでもなかった。
ただ、一つの鐘が鳴った。
ゴォォォォン――。
それは、どこから聞こえてきたのかわからない音だった。
耳元で鳴ったようにも、地面の底から響いたようにも聞こえた。遠くにいる人間にも、地下にいる人間にも、眠っている人間にも、同じ音が届いた。
世界中の時計が、午前零時を示した瞬間だった。
そして、人類の約三分の一が変わった。
最初に悲鳴を上げたのは、駅のホームにいた女性だった。
彼女は隣に立っていた恋人の腕をつかみ、何かを叫んだ。恋人が振り向くより早く、その手が彼の首に伸びた。
次の瞬間、女性は恋人を線路へ突き落とそうとした。
別の場所では、父親が自分の子供に襲いかかっていた。
病院では、患者が看護師を殴り、医師が同僚に刃物を向けた。
繁華街では、笑いながら他人を殴り続ける男がいた。
誰もが、突然おかしくなった。
いや。
正確には、おかしくなった人間と、何も変わらなかった人間がいた。
その違いが何なのか、このときはまだ誰にもわからなかった。
警察への通報が殺到した。
救急車のサイレンが重なり、道路は逃げ惑う人々で埋め尽くされた。誰かが助けを求め、誰かがその声を無視し、誰かが見知らぬ人間を守るために自分の命を危険にさらした。
そして、誰もが気づき始めていた。
これは一つの国で起きた事件ではない。
世界中で、同時に起きている。
そのころ、俺はコンビニの前で缶コーヒーを飲んでいた。
名前は、黒田直人。
三十五歳。
独身。会社員。役職なし。特別な才能もなければ、誰かに自慢できるような実績もない。
仕事を終えて帰宅する途中、明日の朝食を買いに立ち寄っただけだった。
人生が劇的に変わる予兆なんて、何一つなかった。
むしろ、明日も今日と同じような一日が始まるのだと思っていた。
朝起きて、仕事に行き、上司の小言を聞き、帰りに安売りの弁当を買う。
そんな毎日が、あと何十年か続く。
俺は、それで十分だと思っていた。
だから、最初の悲鳴を聞いたときも、何かの事件だろうとしか考えなかった。
「おい、何だよ……」
コンビニの自動ドアの向こうで、店員が客に襲いかかっていた。
客は床に倒れ、必死に腕で顔をかばっている。
店員の目は血走っていた。口元から唾液を垂らし、何度も何度も拳を振り下ろしている。
「やめろ! 何やってんだ!」
俺は店内に駆け込んだ。
考えるより先に体が動いていた。
店員の肩をつかみ、引き離そうとする。
その瞬間、店員が振り向いた。
目が合った。
そこにあったのは、憎しみだった。
理由のない、底の見えない憎しみ。
まるで俺が、この世に存在していることそのものが許せないとでもいうような目だった。
「邪魔だああああ!」
店員の拳が飛んできた。
避けきれなかった。
頬に衝撃が走り、視界が揺れる。俺は棚にぶつかり、そのまま床へ倒れ込んだ。
痛い。
当たり前だ。
殴られたのだから。
だが、それ以上に理解できなかった。
ついさっきまで普通に働いていた人間が、どうしてこんなことをしている?
「誰か……助けて……!」
倒れていた客が、俺に手を伸ばしていた。
店員は再び拳を振り上げる。
逃げろ。
頭の中で声がした。
今すぐ逃げろ。
相手は明らかに正気じゃない。警察を呼べ。自分まで巻き込まれる必要はない。
俺は普通の人間だ。
誰かを救うために命を懸けるような、立派な人間じゃない。
それでも。
伸ばされた手を見捨てることはできなかった。
「くそっ……!」
俺は床を蹴り、店員の腰にしがみついた。
その勢いで二人とも倒れ込む。
店員は暴れ、俺の腕に歯を立てようとした。必死に押さえつけるが、力の差は明らかだった。
もう駄目だ。
そう思った瞬間だった。
俺の手のひらが、倒れていた客の肩に触れた。
温かいものが流れ込んできた。
いや、違う。
俺の体から、何かが流れ出していく。
それが何なのか、説明することはできなかった。
ただ、触れている場所から淡い光が広がり、客の肩にあった傷が、目の前で塞がっていった。
「……は?」
俺は固まった。
血が止まった。
裂けた皮膚が元に戻った。
苦痛に歪んでいた客の顔から、わずかに力が抜けた。
夢かと思った。
だが、俺の手は確かに傷に触れていた。
そして、傷は消えていた。
「何だよ、これ……」
自分の手を見つめる。
何も変わっていない。
傷もない。紋章もない。特別な力を授かったと告げる声も聞こえない。
ただ、手のひらだけが、かすかに温かかった。
そのとき、店員が再び俺に飛びかかってきた。
俺は反射的に腕を上げた。
殴られる。
そう思った。
だが、拳が届く直前、店員の体が不自然によろめいた。
力が抜けたように膝をつき、床に両手をつく。
俺はその隙に距離を取った。
店員はまだ唸っていた。
正気に戻ったわけではない。
暴力が終わったわけでもない。
俺はただ、わけのわからない現象に巻き込まれただけだった。
外では、悲鳴が続いていた。
遠くから爆発音が聞こえた。
スマートフォンが震え、緊急速報が次々と表示される。
画面には、信じられない言葉が並んでいた。
――世界各地で同時多発的な暴力事件が発生。
――原因不明。市民は屋内に避難してください。
――対象者の特徴については現在調査中。
そして、午前零時から十五分後。
俺は、初めて一つの事実を知ることになる。
世界の人口のおよそ三分の一が、凶暴化している。
残りの三分の二は、今までどおりの意識を保っている。
家族を守ろうとする人間もいれば、混乱に乗じて略奪を始める人間もいた。
見知らぬ誰かに食料を分ける人間もいれば、助けを求める声を無視して逃げる人間もいた。
人間が変わったのか。
それとも、隠されていたものが表に出ただけなのか。
誰にも答えはわからなかった。
俺自身も、そんなことを考える余裕はなかった。
目の前で起きていることを理解するだけで精いっぱいだった。
だが、世界はまだ、最悪の事実を隠していた。
午前一時。
凶暴化した人々の一部が、突然動きを止めた。
その場に崩れ落ちる者。
自分の手を見つめ、震え始める者。
泣き叫びながら、誰かに謝り続ける者。
彼らは、正気に戻った。
そして、覚えていた。
自分が何をしたのか。
誰を殴ったのか。
誰を傷つけたのか。
誰の命を奪おうとしたのか。
そのすべてを。
自分の意思では止められなかった行為を、彼らは一つ残らず記憶していた。
俺は、コンビニの床に座り込んだまま、その光景を見ていた。
目の前で泣いている男は、さっきまで店員だった。
彼は自分の手を見つめ、何度も何度も首を横に振っていた。
「俺が……やったのか?」
誰も答えられなかった。
「違う……違うんだ……俺は、こんなこと……」
彼は自分の手で顔を覆った。
その手が、誰かを傷つけた手だった。
その事実だけは、消えてくれなかった。
俺は、さっき治した客の肩を見た。
傷は、もうなかった。
血も流れていない。
だが、彼の震えは止まっていなかった。
体の傷を治すことができても、心まで元どおりにできるとは限らない。
そんな当たり前のことを、俺は初めて理解した。
そして、午前二時。
世界中の研究機関や政府が、ある共通点を報告し始めた。
凶暴化した人々は、毎回ランダムに選ばれるわけではない。
最初の鐘で凶暴化した人間は、次の鐘でも凶暴化する。
その次も。
さらにその次も。
対象となる人間は、変わらない。
世界の人口のおよそ三分の一。
その人々だけが、鐘のたびに理性を失い、自分の意思では暴力を止められなくなる。
そして、正気に戻るたびに、自分のしたことを思い出す。
この現象に、いつしか人々は名前をつけた。
――鐘の災厄。
鐘が鳴るたび、世界は壊れる。
だが、壊れた世界で人間が何を選ぶのか。
それだけは、誰にも決められなかった。
午前六時。
俺はようやく自宅に戻った。
眠る気にはなれなかった。
テレビでは、各国の専門家が原因を議論していた。病気、未知の感染症、神経への影響、集団幻覚。
どれも仮説にすぎなかった。
画面の隅には、次の鐘までの残り時間が表示されていた。
十八時間。
たった十八時間で、世界はもう一度壊れる。
俺は自分の手のひらを見つめた。
あの光は何だったのか。
なぜ俺に、人の傷を治す力が宿ったのか。
そして、どこまで治せるのか。
答えは何一つわからない。
ただ一つ、確かなことがあった。
俺は特別な人間ではない。
英雄でもなければ、誰かを救う覚悟ができていたわけでもない。
それでも、この力を使えば、目の前の誰かを救えるかもしれない。
逆に、救えない人間がいることも、これから知るのだろう。
傷を治せても、失われた命は戻らない。
罪を消すこともできない。
記憶を奪うこともできない。
そして、次の鐘が鳴るまでに、俺たちは決めなければならない。
誰を助けるのか。
誰を信じるのか。
誰と一緒に生きるのか。
あるいは、誰を見捨てるのか。
午前六時。
世界が壊れてから、まだ六時間しか経っていなかった。
窓の外では、誰かが泣いていた。
誰かが怒鳴っていた。
それでも、誰かが誰かの手を握っていた。
人間は、残酷だった。
人間は、優しかった。
その両方が、同じ世界に存在していた。
そして俺は、まだ知らない。
この先の二十四時間が、何度も何度も繰り返されることを。
人間が何をしても、鐘は必ず鳴ることを。
そして、俺自身がいつか、誰かを救うために、取り返しのつかない選択を迫られることを。
午前零時。
世界は壊れた。
次の鐘が鳴るまで、あと十八時間。




