第27話 零時より前に
老人の名前は、田島というらしかった。
施設に来てからずっと、誰かの食事を手伝い、体の弱い住民を気遣ってきた人だった。
そんな彼が、自分を縛ってくれと言った。
直人は、その言葉を簡単に受け入れることができなかった。
「田島さん。どうして、次の鐘で自分が俺を襲うと思うんですか」
「分からない……でも、分かるんだ」
田島は自分の手を見つめた。
「鐘が鳴るたびに、俺は誰かを傷つける。覚えているんだ。全部、覚えている」
彼の声がかすれた。
「終わったあと、何度も謝った。許してくれなくてもいい。ただ、もう二度と同じことをしたくないんだ」
「だったら、次の鐘まで一緒に対策を考えましょう」
直人は言った。
「一人で抱え込まないでください」
「対策?」
田島は力なく笑った。
「俺たちに、何ができるんだ」
誰も答えられなかった。
これまでの鐘は、予告なく人々の理性を奪ってきた。
閉じ込めても、縛っても、暴力そのものをなくすことはできなかった。
それでも、何もしないわけにはいかない。
「まずは、田島さんを一人にしないことです」
直人は管理人に向き直った。
「次の鐘まで、交代で見守りましょう。危険なものは遠ざけて、誰かが傷つきそうになったら止める」
「それで防げる保証はありません」
「分かっています。でも、何もしないよりはいい」
美咲が頷いた。
「私も一緒にいます」
「美咲さんは休んでいてください。ずっと緊張していたでしょう」
「直人さんだって同じです」
彼女はまっすぐに直人を見た。
「それに、あなたが忘れられてしまうかもしれないなら、私はそばにいたいんです」
直人は返す言葉を失った。
自分の存在が消えていく。
それは、単に誰かが名前を思い出せなくなるという話ではないのかもしれない。
自分がここにいた証拠も。
誰かと交わした言葉も。
誰かを助けた事実も。
すべてが消えてしまう可能性がある。
それでも、美咲はそばにいると言った。
「……ありがとう」
直人は小さく頭を下げた。
その瞬間、美咲が顔をしかめた。
「また、手に……」
彼女の手のひらに、黒い文字が浮かんでいた。
――一人ではない。
「一人ではない……?」
直人が読み上げると、美咲は首を振った。
「違います。さっきと、文字が変わっているんです」
黒い文字がゆっくりと滲んだ。
そして、新しい文章に変わった。
――忘れられるのは、一人ではない。
直人は田島を見た。
田島は青ざめていた。
「……俺も、忘れられるのか」
誰も否定できなかった。
そのとき、食堂のスピーカーから、再び声が流れた。
『朝霧直人さん。至急、地下へ来てください』
記録者の声だった。
『あなたに伝えなければならないことがあります』
直人は顔を上げた。
「何の話ですか!」
スピーカーに向かって叫んでも、返事はない。
代わりに、別の声が響いた。
幼い少女の声だった。
『直人さん。お願い。今度こそ、私を見つけて』
直人の胸が強く締めつけられた。
知らない声のはずだった。
それなのに、なぜか懐かしい。
忘れてはいけない誰かがいる。
自分は、その人を知っているのだろうか。
直人は地下へ向かおうとした。
その腕を、佐伯がつかんだ。
「待ってくれ」
「どうしました?」
「さっきの声……俺にも聞こえた」
佐伯は、震える手で自分の胸元を押さえた。
「千尋の声じゃない。でも、あの子が誰かに助けを求めるとき、きっと、あんな声を出したんだと思う」
「一緒に来ますか」
佐伯は頷いた。
「今度こそ、約束を返したい」
直人、美咲、佐伯、管理人の四人は、再び地下へ向かった。
しかし、地下室の扉の前に着いたとき、直人は足を止めた。
扉には、一枚の紙が貼られていた。
そこには、見覚えのある文字が並んでいた。
――朝霧直人。
その名前の横に、別の名前が書かれている。
――田島。
そして、さらにその下。
――美咲。
「……美咲さんまで?」
直人が振り返る。
美咲は自分の名前を見つめ、唇を噛んでいた。
最後に、紙の一番下へ、新しい文字が浮かび上がった。
――三人を忘れたとき、鐘は鳴る。
直後。
施設全体の照明が、赤く染まった。
時計の針が、一斉に動き始める。
午前一時。
午前二時。
午前三時。
あり得ない速度で、時間が進んでいく。
そして、すべての時計が同じ時刻で止まった。
午後十一時五十九分。
直人は息を呑んだ。
次の鐘まで、まだ二十三時間以上あるはずだった。
なのに。
壁の向こうから、あの音が聞こえた。
ゴーン。
世界を壊した、あの鐘の音が。
美咲が直人の腕をつかんだ。
「直人さん……!」
佐伯が鍵を握りしめる。
管理人は、震える声で呟いた。
「そんな……まだ、零時じゃない」
直人は暗闇の中で、ひとつのことに気づいた。
鐘は、時間を告げるために鳴っているのではない。
何かが忘れられたときに、鳴るのだ。
そして今、彼らのすぐそばで。
誰かが、消えようとしていた。




