第26話 鐘を待つ者たち
倒れた男は、管理人たちによって別室へ運ばれた。
意識は戻っていた。
しかし、男は自分がなぜ地下にいたのか、なぜ直人を襲ったのかを覚えていなかった。
「本当に、何も覚えていないんですか」
直人が尋ねると、男は怯えたように頷いた。
「気がついたら、あんたが目の前にいたんだ。俺は……誰かを殴ろうとしていたのか?」
男の声は震えていた。
直人は答えられなかった。
鐘が鳴った夜、人々は理性を失い、暴力を振るう。
そのことは、もう誰もが知っている。
だが、今回は鐘が鳴っていない。
それなのに、男は突然、直人を襲った。
「記録者は、何か知っているんでしょうか」
美咲が尋ねた。
「知っているとしても、教えてくれるとは限らない」
直人は地下の扉を見た。
金属扉は、いつの間にか閉じていた。
鍵穴も、刻印も、そこには残っていない。
まるで、最初から存在しなかったかのようだった。
「……そんなことがあるのか」
佐伯が壁に手を当てた。
「さっきまで、確かにあったんだ」
「私も見ました」
管理人が言った。
「幻覚ではありません」
そのとき、直人は自分のポケットに違和感を覚えた。
手を入れると、紙切れが入っていた。
見覚えのない紙だった。
そこには、短い文章が書かれていた。
――あなたは、三度目の鐘を覚えていますか。
「三度目の鐘……?」
直人が呟く。
「まだ、二度しか鳴っていないはずだ」
佐伯が言った。
最初の鐘。
そして、翌日の鐘。
少なくとも、直人の記憶ではそうだった。
だが、紙には確かに「三度目」と書かれている。
「誰が、こんなものを入れたんでしょう」
美咲が尋ねた。
直人は紙を裏返した。
裏面には、さらに小さな文字があった。
――数えているのは、あなたたちだけではない。
背筋に冷たいものが走った。
その直後、施設内のスピーカーから管理人の声が流れた。
『全員、食堂へ集まってください。確認したいことがあります』
管理人は直人たちと一緒にいる。
つまり、放送をしているのは別の誰かだ。
「……誰が放送しているんだ?」
管理人の顔から血の気が引いた。
施設の放送設備は、管理人しか操作できないはずだった。
直人たちは急いで食堂へ向かった。
そこには、集められた住民たちが不安そうに座っていた。
食堂の壁には、大きな時計が掛かっている。
針は午前一時を指していた。
その下に、黒い文字が浮かび上がっていた。
――明日の零時まで、あと二十三時間。
誰かが息を呑んだ。
次の鐘まで、二十三時間。
それは、いつもと変わらないはずの時間だった。
しかし、時計の下にはもう一文があった。
――鐘が鳴るのは、零時とは限らない。
「どういう意味だよ……」
住民のひとりが呟いた。
そのとき、食堂の隅に座っていた老人が立ち上がった。
「みんな、逃げろ」
老人の声は、ひどく落ち着いていた。
「鐘が鳴る前に、ここから逃げるんだ」
「何を言ってるんですか?」
直人が近づく。
老人は、直人の顔を見た。
そして、震える指で彼を指さした。
「お前がいるからだ」
「……俺?」
「お前がいる限り、鐘は止まらない」
老人は突然、頭を抱えた。
「違う……違うんだ。俺は、こんなことを言うつもりじゃ……」
彼の目から涙がこぼれた。
「頼む。俺を縛ってくれ」
直人は動けなかった。
「次に鐘が鳴ったら、俺はお前を殺そうとする」
老人は泣きながら言った。
「その前に、俺を止めてくれ」
食堂に、重い沈黙が落ちた。
そして、誰も触れていない時計の針が、一秒だけ逆に動いた。




