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次の鐘が鳴るまで  作者: パルパル


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第22話 返せなかった約束

 ――午前零時、約束を返せ。


 写真の裏に浮かんだ文字を、佐伯は食い入るように見つめていた。


「佐伯さん。この言葉を知っているんですか?」


 直人が尋ねても、返事はなかった。


 佐伯の唇が、かすかに動いている。


 何かを思い出そうとしているのか。


 それとも、思い出すことを恐れているのか。


「……返すんだ」


 ようやく、佐伯が呟いた。


「何を返すんだ……俺は、何を……」


 彼は額を押さえた。


 呼吸が浅くなっていく。


「佐伯さん、落ち着いてください」


 直人は、彼の肩に手を置いた。


「今すぐ思い出さなくても大丈夫です」


「違う……!」


 佐伯が顔を上げた。


「思い出さなきゃいけないんだ。今夜までに。あの子との約束を……」


 その目には、強い恐怖が浮かんでいた。


 直人は、美咲と視線を交わした。


 彼女の掌には、文字は浮かんでいない。


 だが、その手は冷たくなっていた。


「美咲、何か感じる?」


「……ううん。今は何も」


 美咲は佐伯を見つめた。


「でも、この人が何かを思い出そうとすると、胸が苦しくなるの」


「佐伯さんが?」


「うん。まるで、思い出したら何かが壊れてしまうみたいに」


 佐伯は二人の会話を聞いていたが、何も言わなかった。


 やがて、彼は写真を胸ポケットにしまった。


「朝霧さん。頼みがある」


「何ですか?」


「地下の記録者に会わせてくれ」


 直人は眉を寄せた。


「でも、記録者は、次の鐘が鳴るまで戻ってくるなと言っていました」


「わかっている」


「それなら……」


「それでも、確かめなきゃならないことがあるんだ」


 佐伯は、まっすぐ直人を見た。


「千尋の名前が、あの施設の記録に残っているんだろう?」


「はい」


「なら、あの人は何かを知っているかもしれない」


 直人は迷った。


 地下の人物は、何度も警告していた。


 今、ここにいること自体が危険なのかもしれない。


 それでも、佐伯の話を聞いていると、放っておくこともできなかった。


「……わかりました。ただし、管理人さんにも話してからです」


 佐伯は頷いた。


「それでいい」


     *


 管理人は、二人の話を聞くと、深く眉を寄せた。


「今夜、地下へ行くのは勧められません」


「理由を教えてください」


 直人が尋ねると、管理人はしばらく迷ったあと、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。


「これを見てください」


 書類には、古い日付と、数人の名前が記されていた。


 その中に、千尋の名前がある。


 さらに、その下には、短い記録が残されていた。


 ――対象者は、午前零時を境に所在不明。


 ――捜索者は、午前零時以降、対象者に関する記憶の一部を喪失。


 ――捜索継続は危険と判断。


 直人は、書類を読み返した。


「捜索した人たちも、千尋さんの記憶を失ったんですか?」


「そう記録されています」


 管理人は頷いた。


「彼女を探しに行った人たちは、戻ってきたあと、何を探していたのか説明できなくなった。中には、自分が誰かを探していたことすら忘れた人もいました」


「それは、鐘が鳴ったあとですか?」


「正確には、午前零時を境にです」


 直人は時計を見た。


 午後九時半。


 あと二時間半で、午前零時になる。


「管理人さんは、これを知っていて、どうして誰にも話さなかったんですか?」


 管理人は目を伏せた。


「話せば、探しに行く人が出ると思ったからです」


「でも、知らなければ対策もできません」


「そのとおりです」


 管理人は、苦しそうに頷いた。


「私は、皆さんを守ろうとして、情報を隠しました。ですが、それが正しかったのかは、今でもわかりません」


 直人は、すぐには答えられなかった。


 守るために、知らせない。


 危険を避けるために、選択肢を奪う。


 その結果、誰かが助かることもあるのかもしれない。


 しかし、知らされなかった人間は、自分で判断する機会を失う。


「……僕たちは、地下へ行きます」


 直人は言った。


 管理人が顔を上げた。


「朝霧さん」


「危険なのはわかっています。でも、佐伯さんは千尋さんとの約束を思い出そうとしている。今夜を逃したら、次に何が起きるのかわかりません」


「それでも、あなたたちが危険にさらされる可能性がある」


「はい」


 直人は頷いた。


「だから、準備をして行きます。何も考えずに飛び込むつもりはありません」


 管理人は、長い沈黙のあと、立ち上がった。


「……わかりました。私も同行します」


「管理人さんも?」


「この記録を隠してきた責任があります。それに、私にも確かめたいことがある」


 管理人は書類を持ち、直人たちの前に立った。


「ただし、何があっても午前零時を過ぎたら、すぐに戻る。それを約束してください」


 直人は頷いた。


「わかりました」


     *


 午後十時。


 三人は地下へ続く階段を下りていた。


 直人の手には懐中電灯がある。


 佐伯は写真を握りしめ、管理人は古い書類を抱えていた。


 階段の途中で、佐伯が足を止めた。


「……ここだ」


「何がですか?」


 直人が尋ねると、佐伯は壁に手を伸ばした。


「昔、一度だけ、ここに来たことがある気がする」


「地下に?」


「ああ。千尋を探していたときだ」


 佐伯は、壁の一部を見つめていた。


「だが、どうしてここに来たのか、何を探していたのかは思い出せない」


 管理人が近づいた。


「この階段の先にある部屋は、以前、記録保管室として使われていました。現在は、ほとんどの資料を移しています」


「記録保管室……」


 佐伯は、その言葉を繰り返した。


 そして、再び歩き始めた。


 やがて、見覚えのある扉が現れた。


 第17話から、直人たちが何度も訪れている扉だ。


「記録者さん。僕です、朝霧です」


 直人が呼びかけた。


 返事はなかった。


「今夜、どうしても聞きたいことがあるんです」


 沈黙。


 佐伯が一歩前へ出た。


「千尋を覚えているか!」


 その声が、地下に響いた。


「俺は、あの子を守ると約束した。だが、何をしたのか思い出せない。あの子に何を約束したのかも、わからない!」


 佐伯は扉に手をついた。


「頼む。何か知っているなら、教えてくれ!」


 長い沈黙のあと、扉の向こうから声が返ってきた。


「……佐伯か」


 佐伯の身体が強張った。


「俺を知っているのか」


「知っている」


「なら、教えてくれ! 俺は千尋に何をしたんだ!」


 扉の向こうの人物は、すぐには答えなかった。


 やがて、低い声が響いた。


「君がしたことを、私がすべて知っているわけではない」


「何だと……」


「だが、ひとつだけ覚えていることがある」


 直人は息を潜めた。


「千尋は、君に守ってほしいと頼んだのではない」


 佐伯の顔から、血の気が引いた。


「……どういう意味だ?」


「千尋が君に頼んだのは、自分を助けることではなかった」


 扉の向こうから、紙をめくる音がした。


「彼女が君に頼んだのは、誰かを忘れないことだった」


 佐伯は、呆然と立ち尽くした。


「誰か……?」


「そうだ」


「誰を?」


 扉の向こうの人物は、答えなかった。


 代わりに、扉の下から一枚の紙が滑り出てきた。


 直人が拾い上げる。


 そこには、短い文章が書かれていた。


 ――千尋の記録は、本人のものではない。


 直人は、何度もその文字を読み返した。


「これは、どういう意味ですか?」


「書かれているとおりだ」


 記録者の声が答えた。


「千尋について残されている記録の一部は、彼女自身の行動や記憶を記したものではない」


「では、誰の記録なんですか?」


「それは、まだ言えない」


 直人は眉を寄せた。


「また、教えてくれないんですか」


「君たちが知るべきことは、少しずつ明らかになる。だが、すべてを一度に知れば、取り返しのつかない選択をするかもしれない」


「何を恐れているんです?」


 記録者は、しばらく黙っていた。


「……記録を信じることだ」


 直人は、紙を見つめた。


 記録は、事実を残すためのものだ。


 しかし、その記録が誰かの記憶をもとにしているのなら。


 その記憶が欠けているのなら。


 記録に残されたことが、必ずしも真実とは限らない。


     *


 午後十一時。


 地下の空気が、急に冷たくなった。


 佐伯は、写真を胸から取り出した。


「……何かが、思い出せそうなんだ」


 彼の声が震えていた。


「千尋が、俺に何かを渡した。いや、違う……俺が、千尋から何かを受け取ったんだ」


 直人が近づいた。


「何を受け取ったんですか?」


「わからない。小さなものだった気がする。手のひらに収まるくらいの……」


 佐伯は目を閉じた。


「それを、俺は返さなきゃいけないんだ」


 その瞬間、写真の裏に再び文字が浮かび上がった。


 ――返す相手を、間違えるな。


 管理人が息を呑んだ。


「これは……」


 直人は写真を見つめた。


 約束を返せ。


 返す相手を、間違えるな。


 言葉は少しずつ増えている。


 まるで、誰かが彼らを導いているかのように。


 しかし、どこへ導こうとしているのかはわからない。


 そのとき、扉の向こうから、激しい物音が響いた。


「記録者さん!」


 直人が扉を叩いた。


「大丈夫ですか!」


 返事はない。


 代わりに、低い声が聞こえた。


「……もう時間がない」


「何の時間ですか?」


「午前零時までだ」


 直人は時計を見た。


 午後十一時五十八分。


 あと二分。


「何が起きるんですか!」


 記録者は、苦しそうに答えた。


「誰かが、誰かの存在を忘れる」


 佐伯が、息を呑んだ。


「それは、どういう……」


「忘れられるのは、名前だけではない。顔だけでもない。その人が確かにここにいたという事実そのものが、失われるかもしれない」


 直人は、身体が凍りつくのを感じた。


 誰かの存在そのものが失われる。


 それは、死ぬこととも違う。


 生きているのに、誰からも覚えられなくなるのか。


 それとも、本当に世界から消えてしまうのか。


「どうすれば防げますか!」


 直人が叫んだ。


 記録者は、短く答えた。


「約束を返せ」


「誰に!」


「それを、今から確かめるんだ」


 午後十一時五十九分。


 廊下の時計が、かちりと音を立てた。


 佐伯が突然、膝をついた。


「……千尋」


 彼の目から、涙がこぼれた。


「思い出した……」


 直人が駆け寄る。


「何を思い出したんですか!」


 佐伯は震える手を胸ポケットに入れた。


 そこから取り出したのは、写真ではなかった。


 小さな、古びた金属製の鍵だった。


 佐伯は鍵を握りしめた。


「俺は、千尋からこれを預かったんだ」


「鍵……?」


「あの子は言った。もし、自分のことを誰も覚えていなくなったら、この鍵を、あの人に渡してほしいって」


「その人は、誰なんですか?」


 佐伯は顔を上げた。


 答えようとした。


 しかし、その瞬間。


 地下の照明が、一斉に消えた。


 暗闇の中で、誰かが名前を呼んだ。


 それは、直人の声でも、美咲の声でも、佐伯の声でもなかった。


 聞いたことのない声だった。


 けれど、その場にいた全員が、その名前を知っているような気がした。


 ――千尋。


 次の瞬間、時計の針が午前零時を指した。


 鐘は鳴らなかった。


 それなのに、直人の手の中から、佐伯の写真が消えていた。


「……写真は?」


 佐伯が呟いた。


 彼は、何もない手を見つめていた。


「俺の写真……どこへ行った?」


 直人は、床を照らした。


 写真は落ちていない。


 管理人も、周囲を探した。


 だが、どこにも見つからなかった。


 佐伯は、呆然と立ち尽くしていた。


「……俺は、誰を探していたんだ?」


 その言葉に、直人は息を呑んだ。


 佐伯の目から、千尋を知っていた人間の光が、少しずつ消えていく。


 直人は、叫びそうになるのを必死にこらえた。


「佐伯さん! 千尋さんです! あなたが守ろうとした、千尋さんです!」


 佐伯は直人を見た。


 困惑した顔だった。


「……千尋?」


 その名前を、初めて聞いた人間のように繰り返した。


 そして、静かに首を横に振った。


「知らない名前だ」


 直人は、鍵を握る佐伯の手を見つめた。


 写真は消えた。


 千尋の記憶も、失われ始めている。


 だが、鍵だけは残っていた。


 その鍵が何を開くのか。


 誰に返すべきものなのか。


 まだ、誰にもわからない。


 地下の扉の向こうから、記録者の声が響いた。


「……間に合わなかったか」


 直人は、扉を見つめた。


「何がですか!」


 返事はなかった。


 ただ、扉の下から、一枚の新しい紙が滑り出てきた。


 そこには、たった一行だけ記されていた。


 ――次に忘れられるのは、朝霧直人。


 直人は、息を止めた。


 午前零時。


 新しい一日が始まった。


 そして、誰かの存在が失われる現象は、まだ終わっていなかった。

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