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次の鐘が鳴るまで  作者: パルパル


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第21話 失われるもの

 食堂の壁に浮かんだ文字は、誰も触れていないのに、ゆっくりと薄れ始めていた。


 ――十八時の選択は、記録された。


 ――次に失われるのは、記憶ではない。


 最後の一文字が消えたとき、食堂にいた誰もが、息をすることさえ忘れていた。


「……誰が書いたんだ」


 最初に声を上げたのは、黒田だった。


 彼は壁に近づき、指先で文字があった場所をこすった。


 白い壁に、何の跡も残っていない。


「誰かの悪ふざけじゃないのか」


「電気が消えたときに、誰かが書いたんじゃない?」


「そんな短時間で、あんな文字を書けるわけがないだろ」


 人々の声が重なった。


 疑い。


 恐怖。


 そして、自分だけは異変の外側にいると思いたい気持ち。


 直人には、それらが手に取るようにわかった。


 何が起きているのか理解できないとき、人は原因を探す。


 原因が見つからなければ、誰かを疑う。


 誰かを疑えば、少なくとも、自分の恐怖に形を与えられるからだ。


「みなさん、落ち着いてください」


 管理人が声を張り上げた。


「今のところ、誰も怪我はしていません。まずは全員の状態を確認しましょう」


「状態って、何を確認するんだ!」


 男が叫んだ。


「次に何が失われるのか、わかっているのか!」


「わかりません。だからこそ、確認する必要があるんです」


 管理人の声にも、隠しきれない動揺があった。


 直人は美咲の顔を見た。


「大丈夫か?」


「……うん。でも」


 美咲は自分の掌を見つめていた。


 そこには、先ほどまで浮かんでいた文字の痕跡すらない。


「何か、変なの」


「何が?」


「さっきまで、誰かが近くにいた気がしたの。すごく近くに。なのに、今は……」


 美咲は周囲を見回した。


「いなくなっちゃった」


「誰かが、ここから出ていったのか?」


「違うと思う。そういうことじゃなくて……」


 彼女は胸元に手を当てた。


「誰かを知っていたはずなのに、その人のことがわからなくなったような感じがするの」


 直人は言葉を失った。


 記憶ではない。


 壁に浮かんだ文字は、そう告げていた。


 では、何が失われるのか。


 美咲が感じているものは、その答えにつながっているのだろうか。


「美咲。今、誰かの名前を思い出せる?」


「名前?」


「さっきまで感じていた人の名前だよ」


 美咲は目を閉じた。


 しばらくして、首を横に振った。


「……わからない」


「顔は?」


「それも、わからない」


「声は?」


 美咲は、何かを思い出そうとするように眉を寄せた。


「声も、聞いていないと思う。でも……」


 彼女の目に、不安が広がった。


「その人がいなくなったことだけは、わかるの」


     *


 午後八時二十分。


 管理人は、食堂にいる人々を一人ずつ確認し始めた。


 名前を呼び、返事を確かめる。


 体調に異変がないか。


 自分の名前を覚えているか。


 今、自分がどこにいるのか理解できているか。


 質問は単純だった。


 しかし、答える人々の表情は次第に険しくなっていった。


「名前なんて、忘れるわけないだろ」


 黒田が不機嫌そうに言った。


「俺は黒田だ。ここにいる理由も覚えている。次の鐘に備えるためだろ」


「ありがとうございます。では、今の体調は?」


「問題ない」


「何か、違和感はありませんか?」


「ないと言っているだろ!」


 黒田は机を叩いた。


 管理人は、それ以上問い詰めなかった。


 直人は、そのやり取りを見ながら考えていた。


 名前を覚えている。


 ここにいる理由もわかっている。


 それだけで、本当に大丈夫だと言えるのだろうか。


 人間は、自分の変化に自分で気づけるとは限らない。


「朝霧さん」


 管理人が直人を呼んだ。


「あなたにも、確認をお願いしたい」


「僕にですか?」


「はい。体調の悪い人がいたら、あなたの力で診てもらえると助かります」


 直人は頷いた。


「わかりました」


 彼は食堂を見渡した。


 怪我人はいない。


 倒れている者もいない。


 だが、人々の顔には、明らかな疲労が浮かんでいた。


 そのときだった。


「……あの」


 小さな声がした。


 食堂の隅に座っていた若い女性だった。


「どうしました?」


 直人が近づくと、女性は何度も唇を動かした。


「私……さっき、誰かと話していたんです」


「誰とですか?」


「わかりません」


 女性は、困ったように笑った。


「変ですよね。話していたことは覚えているんです。何を話したのかも、少しだけ。でも、相手が誰だったのかだけ、どうしても思い出せないんです」


 直人の背筋が冷たくなった。


「その人は、いつからいなくなったんですか?」


「わからないんです。気がついたら、一人で座っていて……」


 女性は自分の隣の椅子を見た。


「ここにいたはずなんです」


 椅子は空いていた。


 食堂には、ほかにも空席がある。


 だから、その椅子が特別な意味を持つとは限らない。


 それでも、直人は視線をそらせなかった。


「その人が、どんな人だったか覚えていますか?」


「ええと……」


 女性は目を閉じた。


「私より背が高くて、たぶん男性で……」


 そこで、言葉が止まった。


「……駄目です。何も思い出せません」


 彼女は両手で顔を覆った。


「私、誰と話していたんでしょう」


 直人は答えられなかった。


 忘れたのではない。


 最初から、そんな人間はいなかった。


 そう考えることもできる。


 しかし、女性は確かに、誰かと話した感覚を覚えている。


 記憶の中に、相手の存在だけが抜け落ちている。


 そんなことが、本当に起こるのだろうか。


「管理人さんを呼んできます」


 直人はそう告げ、立ち上がった。


 その瞬間、女性が直人の袖をつかんだ。


「待ってください」


「どうしました?」


「私……その人に、何か約束をした気がするんです」


 女性の指が震えていた。


「大切な約束だったと思います。絶対に忘れちゃいけない約束だったのに……」


 彼女は、声を詰まらせた。


「約束の内容も、相手の名前も、何も思い出せないんです」


 直人は、彼女の手をそっと握った。


「無理に思い出そうとしなくていいです。今は、落ち着いてください」


「でも……」


「何か思い出したら、すぐに教えてください。僕たちも、一緒に調べます」


 女性は、ゆっくり頷いた。


 直人は立ち上がり、管理人のもとへ向かった。


 記憶そのものが消えたわけではない。


 それなのに、人と人とのつながりだけが、抜き取られている。


 もし、これが今夜起きる異変の始まりなら。


 次に失われるものは、もっと大きいのかもしれない。


     *


 午後九時。


 直人は、美咲とともに二階の廊下を歩いていた。


 食堂にいた人々の確認は、ひとまず終わった。


 体調不良を訴える者はいたが、今のところ、明確な身体の異常は見つかっていない。


 ただし、数人が同じような違和感を訴えていた。


 誰かと話した気がする。


 誰かを待っていた気がする。


 誰かに何かを約束した気がする。


 それなのに、相手のことだけがわからない。


「直人さん」


 美咲が足を止めた。


「私、さっきの人のことを考えていたの」


「食堂で、誰かと話していた人?」


「うん。あの人は、相手のことを思い出せなかった。でも、約束をしたことは覚えていた」


「そうだね」


「もし、約束だけが残って、相手がいなくなったら……」


 美咲は言葉を切った。


「その約束は、誰が守ればいいんだろう」


 直人は、すぐに答えられなかった。


 約束は、誰かと誰かの間に生まれるものだ。


 相手がいなくなれば、約束を交わした理由も、意味も、わからなくなる。


 それでも、約束したという事実だけが残るのなら。


 それは、ひどく残酷なことに思えた。


「……相手がわからなくても、約束をしたことが本当なら、無意味にはならないと思う」


 直人は、ゆっくりと言った。


「ただ、何を約束したのかもわからないなら、守りようがない。だから、まずは何が起きているのかを調べる必要がある」


 美咲は頷いた。


 そのとき、廊下の奥から足音が聞こえた。


 佐伯だった。


 彼は壁に手をつき、何かを探すように歩いていた。


「佐伯さん?」


 直人が声をかけると、佐伯は驚いたように顔を上げた。


「……朝霧さん」


「どうしたんですか?」


「いや、少し確認したいことがあってな」


 佐伯は、手に持っていた写真を見下ろした。


 幼い千尋と、若い頃の佐伯が写っている写真だ。


「この写真を見ていたら、気になることがあったんだ」


「何ですか?」


 佐伯は写真の裏を見せた。


 そこには、千尋の名前と、古い日付が書かれている。


 そして、日付の下には、薄く消された文字があった。


 直人は目を細めた。


「これ、何て書いてあるんですか?」


「わからない。ずっと前から、こうなっていた」


 佐伯は指先で、消された文字をなぞった。


「だが、さっきから気になって仕方がない。何か、大切なことが書いてあった気がするんだ」


 直人は写真を受け取った。


 文字は、乱暴に消されたようには見えなかった。


 むしろ、長い時間をかけて薄くなったようだった。


「千尋さんが書いたものですか?」


「それも、わからない」


 佐伯は苦しそうに目を伏せた。


「俺は、あの子のことを覚えている。顔も、声も、笑い方も。だが、あの日に何があったのかだけは、どうしても思い出せない」


 彼は写真を握りしめた。


「もし、俺があの子を置いて逃げたのなら……」


「佐伯さん」


 直人は、静かに呼びかけた。


「まだ、決まったわけじゃありません」


「だが、俺は何かを忘れている」


「はい」


「その何かが、千尋を救うために必要なことだったら?」


 直人は、答えを探した。


 その可能性はある。


 しかし、今ここで佐伯を責めても、何も解決しない。


「なら、思い出す方法を探しましょう」


 直人は言った。


「一人で抱え込まないでください。僕たちも協力します」


 佐伯は、しばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……ありがとう」


 その瞬間だった。


 写真の裏側に、黒い文字が浮かび上がった。


 直人は息を呑んだ。


 消えていたはずの文字が、少しずつ濃くなっていく。


 そこに現れたのは、短い一文だった。


 ――午前零時、約束を返せ。


 美咲が、口元を押さえた。


 佐伯の顔から、血の気が引いていく。


「……そんな」


 彼は、震える声で呟いた。


「この言葉は……」


「知っているんですか?」


 直人が尋ねた。


 佐伯は答えなかった。


 ただ、写真を握る手が、激しく震えていた。


 廊下の時計が、午後九時を示している。


 次の鐘まで、あと三時間。


 直人は、写真に浮かんだ言葉を見つめた。


 約束を返せ。


 誰に。


 何を。


 そして、約束を返すとは、どういう意味なのか。


 答えは、まだわからない。


 だが、今夜の異変が、千尋と佐伯の過去に深く結びついていることだけは、確かに思えた。

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