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次の鐘が鳴るまで  作者: パルパル


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第20話 十八時の選択

 午後六時。


 施設の時計が、その時刻を示した瞬間だった。


 食堂の照明が、一度だけ明滅した。


 誰かが息を呑む。


 誰かが椅子を引く。


 誰かが、隣にいる人間の手を強く握った。


 だが、鐘は鳴らなかった。


 それなのに、直人は全身に冷たいものが走るのを感じた。


 何かが始まった。


 そう思った。


「……今の、何?」


 美咲が呟いた。


 彼女の掌に浮かんだ文字が、薄く揺れている。


 ――逃げて。


 直人は周囲を見回した。


 人々の様子に、目立った変化はない。


 しかし、管理人は時計を見つめたまま、動かなかった。


「管理人さん?」


 直人が呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げた。


「……予定より早い」


「何がですか?」


「いや。何でもない」


 管理人は言葉を濁した。


 直人は、その表情を見逃さなかった。


 何かを知っている。


 そう直感した。


 だが、今は問い詰めている場合ではなかった。


 管理人が食堂の中央へ進み、声を張り上げた。


「皆さん。先ほど説明した三つの選択肢について、今から希望を確認します。無理に他人の選択を変えさせないでください。どこで誰と過ごすかは、それぞれが決めることです」


 その言葉をきっかけに、人々が動き始めた。


 家族同士で話し合う者。


 友人を探して声をかける者。


 誰にも相談せず、一人で壁際へ向かう者。


 食堂は、急速に落ち着きを失っていった。


 直人は、美咲の隣に立った。


「僕たちは、どうしようか」


 尋ねると、美咲はすぐには答えなかった。


「ここに残るのが安全なのかな」


「わからない」


「外へ出たほうがいいのかな」


「それも、わからない」


 直人は苦笑した。


「本当に、わからないことばかりだ」


 美咲も、かすかに笑った。


「でも、ひとつだけわかるよ」


「何?」


「直人さんと一緒にいたい」


 直人は、返事をするまでに少し時間がかかった。


 その言葉が嬉しかったからではない。


 もちろん、嬉しかった。


 けれど、彼女の選択が、自分の存在だけで決まってしまっていいのかと思った。


「僕と一緒にいることが、一番安全とは限らないよ」


「うん」


「僕には、何が起こるのかもわからない。君を絶対に守れると約束することもできない」


「わかってる」


 美咲は、まっすぐに直人を見た。


「それでも、一緒にいたいの。守ってもらうためだけじゃない。私も、直人さんと一緒に考えたい」


 直人は、ゆっくり頷いた。


「……わかった。一緒に考えよう」


 そのとき、背後から声がした。


「お前たち、ここに残るのか?」


 振り返ると、食料を独占しようとした男が立っていた。


 名前は、黒田というらしい。


 直人とは苗字が同じだが、親戚というわけではない。


 男は腕を組み、食堂の人々を眺めていた。


「俺は、別の場所へ移ることにした」


「そうですか」


「ここに大勢でいたら、誰かが暴れたときに逃げられない。少人数で固まったほうがいい」


 その考えにも、一理あった。


 直人は否定しなかった。


「気をつけてください」


「お前は来ないのか?」


「まだ、決めていません」


 男は鼻を鳴らした。


「そうやって迷っているうちに、手遅れになるぞ」


 そう言って、彼は数人の仲間と食堂を出ていった。


 直人は、その背中を見つめた。


 彼らは自分たちを守ろうとしている。


 そのために、他の人間から離れることを選んだ。


 それが正しいのかどうかは、まだわからない。


 ただ、彼らが出ていったあと、食堂には不安そうな表情が増えていた。


「……あの人たちを、止めなくてよかったのかな」


 美咲が言った。


「本人たちが決めたことだから」


「でも、もし危険な場所へ行ってしまったら?」


「それでも、僕たちが無理に止めることはできないと思う」


 直人は、少しだけ言葉を切った。


「誰かを守ることと、その人の選択を奪うことは違うから」


 美咲は、静かに頷いた。


 そのとき、食堂の入口から管理人が戻ってきた。


「朝霧さん。少し、話がある」


 管理人の顔は、先ほどよりも険しかった。


     *


 事務室に入ると、管理人は扉を閉めた。


「さっきの時計のことですが」


 直人が口を開くと、管理人は頷いた。


「やはり、気づいていたか」


「何が起きているんですか?」


「私にも、正確なことはわからない。ただ、以前にも似た現象があった」


「以前?」


「鐘が鳴る前に、時計が止まったことがあるんだ」


 直人は息を呑んだ。


「いつですか?」


「この施設が、まだ避難場所として使われ始めたばかりの頃だ。あのときも、秒針が止まった。そして、何人かが自分の名前を呼ばれるようになった」


 佐伯のことが頭をよぎった。


「その人たちは、どうなったんですか?」


 管理人は、すぐには答えなかった。


「一人は、鐘が鳴る前に施設を出ていった。もう一人は、鐘が鳴ったあとに正気を失った。そして、残る一人は……」


 言葉が途切れた。


「残る一人は?」


「今も、行方がわからない」


 直人は、管理人を見つめた。


「その人の名前は?」


 管理人は、机の引き出しから古い書類を取り出した。


 紙は黄ばんでいて、端が破れている。


 その一枚に、三人の名前が記されていた。


 直人は、そのうちの一つを見て、目を見開いた。


 千尋。


「この人が……?」


「そうだ。行方不明になった少女だ」


 直人は書類を受け取った。


 年齢は、当時十二歳。


 保護された日付は、十年以上前。


 そして、備考欄には、短い文章が残されていた。


 ――本人の記憶に欠落あり。特定の時刻になると、周囲の時計が停止する現象を確認。


 直人は、何度もその文章を読み返した。


 時計が止まる。


 名前を呼ばれる。


 千尋の記録が更新される。


 そして、美咲の掌に浮かんだ「逃げて」という文字。


 すべてが、千尋という少女につながっているように思えた。


「どうして、このことを今まで教えてくれなかったんですか?」


 直人が尋ねると、管理人は苦しそうに目を伏せた。


「話すべきではないと思っていた」


「なぜです?」


「この記録を知った人間の中には、千尋を探しに行こうとした者がいた。だが、誰も戻ってこなかったからだ」


 直人は言葉を失った。


「……誰も?」


「少なくとも、私が知る限りでは」


 管理人は、机の上に両手を置いた。


「朝霧さん。お願いがある」


「何ですか?」


「今夜は、千尋を探しに行かないでほしい」


 直人は、すぐに答えられなかった。


 千尋を探さなければならない。


 そう思っていた。


 だが、過去に探しに行った人間が戻ってこなかったのなら、無謀に動くべきではないのかもしれない。


 それでも、美咲の掌に浮かんだ文字は消えていない。


 誰かが、逃げろと伝えている。


 その意味を確かめないままでいいのだろうか。


「……考えさせてください」


 直人は答えた。


 管理人は頷いた。


「それでいい。だが、ひとつ覚えておいてほしい」


「何ですか?」


「千尋を探すことと、千尋を救うことは、同じではない」


 直人は、胸の奥が重くなるのを感じた。


 地下の記録者も、似たようなことを言っていた。


 人を救いたいという気持ちは、ときに判断を誤らせる。


 その言葉が、今になって違う意味を持ち始めていた。


     *


 午後七時。


 食堂に戻ると、残ることを選んだ人々が、いくつかの小さな集団に分かれていた。


 誰がどこにいるのか。


 誰が誰と一緒に行動するのか。


 管理人が確認を進めている。


 直人は、美咲と一緒に食堂の隅へ向かった。


 その途中、佐伯が一人で座っているのが見えた。


 彼は、両手で何かを握りしめていた。


 古い写真だった。


 直人が近づくと、佐伯は慌てて写真を伏せた。


「佐伯さん」


「……朝霧さんか」


「少し、話をしてもいいですか?」


 佐伯は、疲れたように頷いた。


 直人は彼の向かいに座った。


「千尋という名前に、心当たりはありませんか?」


 佐伯の指が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 しかし、直人にはわかった。


「……どうして、その名前を?」


「管理人さんから、古い記録を見せてもらいました」


 佐伯は目を伏せた。


「そうか」


「あなたは、千尋さんを知っているんですか?」


 長い沈黙があった。


 食堂のざわめきが、遠くに聞こえる。


 やがて、佐伯は写真を裏返した。


 そこには、幼い少女と、若い頃の佐伯が写っていた。


「この子が、千尋だ」


 直人は息を呑んだ。


「あなたの……娘さんですか?」


「違う」


 佐伯は首を振った。


「俺は、この子を守ると約束した人間だ」


「約束?」


「ああ。だが、守れなかった」


 佐伯の声が震えた。


「鐘が鳴ったあの日、俺はこの子を連れて逃げようとした。だが、途中で……」


 彼は言葉を切った。


 何かを思い出そうとしているようだった。


「途中で、どうしたんですか?」


「わからない」


 佐伯は、苦しそうに目を閉じた。


「そこから先の記憶がないんだ。気がついたときには、俺は一人だった。千尋の姿も、ほかの人間の姿もなかった」


 直人は、何も言えなかった。


「ずっと探していた。だが、誰も知らないと言う。記録にも、名前が残っていない時期があった」


 佐伯は写真を握りしめた。


「それなのに、今朝から、あの子の名前が頭の中に浮かぶようになった」


「何か、思い出せそうですか?」


「いや。ただ……」


 佐伯は、ゆっくり顔を上げた。


「俺は、あの子を置いて逃げたんじゃないかと思う」


 その言葉は、直人の胸に重く落ちた。


「記憶はない。でも、そうだった気がするんだ」


「それは、まだわかりません」


 直人は言った。


「記憶がないからといって、あなたが何をしたのか、今ここで決めつけることはできません」


「だが、もし本当に俺が……」


「そのときは、事実を確かめてから考えましょう」


 直人は、佐伯の目を見た。


「自分を責めることと、事実を認めることは、同じではないと思います」


 佐伯は、黙っていた。


 やがて、写真を胸ポケットにしまった。


「……あんたは、変な人間だな」


「よく言われます」


「自分だって何もわかっていないのに、他人の話を聞こうとする」


「わからないから、聞きたいんです」


 佐伯は、ほんの少し笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「朝霧さん。もし、今夜、俺が正気を失ったら……」


「はい」


「俺を止めてくれ」


 直人は、すぐには答えなかった。


「あなたが誰かを傷つけようとしたら、止めます」


「それでいい」


「でも、あなた自身を傷つけようとするなら、それも止めます」


 佐伯は目を見開いた。


「……どうしてだ?」


「あなたが千尋さんを守れなかったと思っているなら、なおさらです。自分を傷つけても、過去は変わりません」


 直人は静かに続けた。


「何があったのかを知りたいなら、これからも生きていなければいけない」


 佐伯は、しばらく直人を見つめていた。


 そして、小さく頷いた。


「……わかった」


     *


 午後八時を過ぎた頃、施設内で奇妙なことが起こり始めた。


 最初は、一人の女性だった。


 食堂で水を飲んでいた彼女が、突然、コップを床に落とした。


「……あれ?」


 彼女は、自分の手を見つめた。


「今、誰かが……」


「どうしました?」


 近くにいた男性が声をかける。


 女性は、困惑した表情で周囲を見回した。


「私の名前を呼んだ気がしたんです」


 直人は、思わず立ち上がった。


 まただ。


 午前中から続いている現象。


 名前を呼ばれる感覚。


 千尋の記憶。


 その直後、別の場所でも声が上がった。


「俺も聞こえた!」


「私も!」


「誰かが、ずっと呼んでいる気がする!」


 食堂がざわめき始めた。


 直人は、美咲の手を見た。


 掌の文字が、濃くなっている。


 ――逃げて。


 美咲が苦しそうに胸を押さえた。


「直人さん……」


「大丈夫か?」


「来る……」


「何が?」


「わからない。でも、みんなの中に何かが入ってくるみたい」


 直人は、彼女の肩を支えた。


「落ち着いて。ゆっくり呼吸して」


「違うの……!」


 美咲は、涙を浮かべて首を振った。


「私じゃない。みんなが、誰かの記憶を思い出そうとしてる!」


 その瞬間、食堂の照明が消えた。


 悲鳴が上がる。


 暗闇の中で、何人もの人間が名前を呼び合った。


 直人は、美咲の手を握りしめた。


「ここにいる。大丈夫だ」


 数秒後、照明が戻った。


 そこにいた人々は、誰も倒れていなかった。


 凶暴化した人間もいない。


 しかし、全員が同じ方向を見つめていた。


 食堂の壁。


 そこには、何もないはずだった。


 だが、白い壁の中央に、黒い文字が浮かび上がっていた。


 ――十八時の選択は、記録された。


 直人は、息を止めた。


 誰が書いたのか。


 いつ書かれたのか。


 誰も、わからない。


 そして、その文字の下に、もう一行が浮かび上がった。


 ――次に失われるのは、記憶ではない。


 食堂が静まり返った。


 直人は、その言葉を見つめた。


 記憶ではない。


 なら、何が失われるというのか。


 命か。


 理性か。


 それとも、人間であるために必要な何かか。


 その答えを知る者は、ここにはいなかった。


 ただ一人。


 地下の扉の向こうにいる記録者だけは、何かを知っているのかもしれない。


 直人は、美咲の掌を見た。


 そこに浮かんでいた「逃げて」という文字が、ゆっくりと形を変えていく。


 最後に残ったのは、たった一文字だった。


 ――誰。


 美咲が、震える声で呟いた。


「……誰を、逃がせばいいの?」


 直人は答えられなかった。


 時計は、午後八時を示している。


 次の鐘まで、あと四時間。


 人々は、すでに選択を始めていた。


 そして、その選択が何を引き起こすのか。


 まだ、誰も知らなかった。

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