第19話 掌に刻まれた警告
美咲の掌に浮かんだ三文字を、直人は何度も見つめていた。
――逃げて。
黒い文字だった。
皮膚に傷がついているわけではない。血が滲んでいるわけでもない。それなのに、文字だけが掌の内側に焼きついたように残っていた。
「痛くないか?」
直人が尋ねると、美咲はゆっくり首を振った。
「痛くはない。でも……」
「でも?」
「この文字を見ると、胸が苦しくなるの」
美咲は自分の手を握りしめた。
「誰かが、私に伝えようとしている気がする。すごく必死に。何度も、何度も」
直人は地下で見た冊子を思い出した。
そこには千尋の名前が記されていた。
そして、記録は今も更新されていると、扉の向こうの人物は言った。
もし、この文字が千尋からの警告なら。
もし、彼女が今もどこかで生きているのなら。
美咲の手に浮かんだ文字は、単なる異変ではないのかもしれない。
「……千尋さんが伝えているのかな」
直人が呟くと、美咲は不安そうに顔を上げた。
「私も、そう思った。でも、千尋さんが誰なのかも、どこにいるのかも知らないのに」
「それでも、名前が浮かんだんだよな」
「うん」
「なら、無関係だと決めつけるのは早いと思う」
直人はそう言いながら、自分の言葉に確信を持てずにいた。
希望を持つことと、事実を信じることは違う。
誰かを救いたいと思うあまり、都合のいい答えを選んでしまえば、取り返しのつかないことになるかもしれない。
地下の記録者が言っていた。
――助けを求める声が、本当に助けを求めているとは限らない。
その言葉が、頭から離れなかった。
*
壁の時計は、正午を示していた。
止まっていた秒針は、何事もなかったかのように動き続けている。
だが、直人には、時計を見るたびに違和感があった。
秒針が一周するたび、かすかな音がする。
鐘の音に似た、乾いた響き。
耳を澄ませなければ聞き逃してしまうほど小さい。
それでも、確かに聞こえていた。
「管理人さんに話を聞こう」
直人は美咲に言った。
「この施設で、千尋さんについて何か知っている人がいるかもしれない」
「うん。でも、どうやって探すの?」
「まずは、ここにいる人たちに聞いてみる。地下の記録も気になるけど、今は地上で何が起きているのかを確かめたい」
直人は冊子を取り出しかけ、すぐに手を止めた。
地下の記録者は、最初の数ページだけ読むように言った。
それ以上を読めば、何が起こるのか。
あのとき、美咲の手は強い光を放ち、記録者は激しく動揺した。
偶然だったのか。
それとも、冊子そのものに何か仕掛けがあるのか。
今は判断できない。
直人は冊子を鞄の奥へしまった。
「行こう」
二人は管理人のいる事務室へ向かった。
*
事務室の前には、数人の人間が集まっていた。
食料の分配について話し合っているらしい。
昨日までなら、管理人が声をかければ、誰かが返事をした。
しかし、今日は違った。
誰もが互いを警戒し、他人の表情を窺っている。
直人が近づくと、管理人がこちらに気づいた。
「直人さん。ちょうどよかった」
「何かあったんですか?」
「食料の分配は、ひとまずまとまった。ただ、次の鐘が鳴ったあと、どうするのかという話になっていてね」
「どうするって?」
管理人は周囲を見回した。
「ここに残る人間と、別の場所へ移る人間を分けたいという意見が出ているんだ」
直人は眉を寄せた。
「まだ、次の鐘まで時間がありますよね」
「だからこそだよ。時間があるうちに決めておきたいらしい」
管理人は疲れたように目元を押さえた。
「全員が同じ考えならいい。だが、ここに残れば安全だと考える人間もいれば、ここにいること自体が危険だと考える人間もいる」
「……そうですか」
「それに、誰と一緒に行動するかという問題もある」
直人は、周囲の人々を見た。
食料を独占しようとした男たちが、壁際で話し合っている。
怪我をした女性は、別の女性に支えられて座っていた。
それぞれが、何かを考えている。
何かを恐れている。
そして、自分が生き残るために、何を選ぶべきかを決めようとしている。
「直人さんは、どうするんですか?」
管理人に尋ねられ、直人は言葉に詰まった。
「僕は……」
ここに残るべきなのか。
美咲を連れて、別の場所へ移るべきなのか。
地下の記録者が言ったように、目の前の人間を見て判断するべきなのか。
それとも、千尋の手掛かりを探すために、危険を承知で行動するべきなのか。
まだ、何も決められなかった。
「少し、考えさせてください」
直人が答えると、管理人は頷いた。
「それがいい。無理に今決める必要はない」
そう言ってから、管理人は声を落とした。
「ただし、ひとつ気になることがある」
「何ですか?」
「今朝から、何人かが同じことを言っているんだ」
「同じこと?」
「誰かに呼ばれた気がする、と」
直人の背筋が冷たくなった。
「誰にですか?」
「それが、わからないらしい。声が聞こえたわけでも、姿を見たわけでもない。ただ、誰かが自分の名前を呼んだ気がするんだそうだ」
直人は美咲を見た。
美咲も、こちらを見つめていた。
彼女の掌に浮かんだ文字。
誰かが伝えようとしている警告。
それらと、関係があるのだろうか。
「その人たちは、今どこに?」
「何人かは食堂にいる。だが、一人だけ、部屋から出てこない人間がいる」
「どうしてですか?」
「自分の名前を呼ぶ声が、ずっと聞こえると言っているらしい」
直人は息を呑んだ。
それは、ただの幻聴なのだろうか。
それとも、鐘が鳴る前から始まっている変化の一つなのか。
「会わせてもらえますか?」
直人が尋ねると、管理人は少し迷ったあと、頷いた。
「わかった。ただし、無理はしないでくれ」
*
その人物は、二階の奥にある小さな部屋にいた。
名前は、佐伯というらしい。
四十代くらいの男性で、痩せた身体をベッドの端に座らせていた。
直人が入室すると、佐伯は怯えたように顔を上げた。
「……誰ですか」
「朝霧直人です。少し話を聞かせてもらえませんか」
「話?」
「今朝から、誰かに名前を呼ばれる気がする、と聞きました」
佐伯の顔色が変わった。
「管理人が話したのか」
「はい。でも、無理に話してもらう必要はありません」
「……いや」
佐伯は首を振った。
「聞いてほしい。もう、自分でも何が起きているのかわからないんだ」
彼は、両手で顔を覆った。
「最初は、気のせいだと思った。廊下を歩いているときに、誰かが後ろから呼んだ気がしたんだ。振り返っても、誰もいなかった」
「それは、いつ頃ですか?」
「午前中だ。時計が止まったと騒いでいた頃だったと思う」
直人は、美咲の手を思い出した。
時計が止まったことと、何か関係があるのだろうか。
「そのあとも、聞こえたんですか?」
「何度もだ。食堂でも、部屋でも。声は聞こえないのに、誰かが自分の名前を呼んでいるとわかるんだ」
佐伯は顔を上げた。
目の下には濃い隈ができていた。
「そして、さっきから……」
「さっきから?」
「自分の名前じゃないんだ」
直人は眉を寄せた。
「どういうことですか?」
佐伯は、震える声で答えた。
「知らない女の子の名前が、頭の中に浮かんでくる」
直人の心臓が強く打った。
「どんな名前ですか?」
佐伯は、しばらく口を開かなかった。
やがて、かすれた声で呟いた。
「……千尋」
美咲が、息を呑んだ。
直人は佐伯に一歩近づいた。
「その名前を、どこかで聞いたことがあるんですか?」
「わからない。知らないはずなんだ。でも、頭の中から離れない」
佐伯は自分のこめかみを押さえた。
「千尋、千尋って……誰かが、ずっと呼んでいる気がする」
美咲が胸元を押さえた。
その顔から、血の気が引いていく。
「美咲、大丈夫か?」
「……この感じ」
彼女は、佐伯を見つめていた。
「地下で感じたのと同じ。誰かが、すごく怖がってる」
佐伯が顔を上げた。
その瞬間、彼の瞳が揺れた。
「……逃げろ」
「え?」
直人が聞き返すと、佐伯は立ち上がった。
「逃げろ。ここから逃げろ!」
彼は直人たちではなく、部屋の隅を見つめていた。
「来るな……! こっちへ来るな!」
直人が声をかけようとした、そのときだった。
佐伯の身体が大きく震えた。
呼吸が乱れ、両手が頭を抱え込む。
「やめろ……! その子を連れていくな!」
直人は駆け寄った。
「佐伯さん! 落ち着いてください!」
肩に手を置こうとした瞬間、佐伯が激しく腕を振り払った。
「触るな!」
直人は壁に背中をぶつけた。
佐伯は荒い息を繰り返している。
その目には、目の前の直人が映っていないようだった。
「千尋を……返せ……」
その言葉を最後に、佐伯は床に崩れ落ちた。
「佐伯さん!」
直人は膝をつき、彼の身体を支えた。
脈はある。
呼吸も続いている。
しかし、意識がない。
直人は震える手を彼の額に当てた。
淡い光が広がり、佐伯の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
しばらくして、佐伯は目を開けた。
「……あれ?」
彼は周囲を見回した。
「俺、どうして床に?」
直人は答えられなかった。
佐伯は、自分の腕を見つめた。
「何か、変な夢を見ていた気がするんだ」
「夢?」
「女の子がいて……いや、違う。誰かが、俺に何かを頼んでいた」
佐伯は額を押さえた。
「思い出せない」
直人は、美咲を見た。
彼女の掌には、まだ「逃げて」という文字が残っていた。
直人は確信しかけていた。
鐘が鳴る前から、何かが起きている。
そして、その異変は、千尋という名前を通じて、人々の意識に触れ始めている。
だが、それが救いなのか、危険なのかは、まだわからない。
*
事務室へ戻る途中、直人は美咲に尋ねた。
「さっき、何を感じたんだ?」
「佐伯さんの中に、別の誰かがいるような感じがした」
「別の誰か?」
「身体の中にいるっていう意味じゃないよ。記憶の奥に、誰かの気持ちが残っているような……そんな感じ」
美咲は言葉を探すように、ゆっくり話した。
「怖い、苦しい、助けてほしい。そういう気持ちだけが残っていて、誰のものなのか、本人にもわからなくなっているような気がしたの」
直人は足を止めた。
記憶の奥に残る、誰かの気持ち。
それが千尋のものだとしたら。
彼女は、何らかの形で人々の記憶に触れているのだろうか。
それとも、人々の中に残された記憶が、千尋という名前を作り出しているのだろうか。
どちらにしても、普通の現象ではない。
「直人さん」
美咲が言った。
「私、怖いよ」
直人は彼女を見た。
「うん」
「自分の手が光る理由も、千尋さんの名前が浮かぶ理由もわからない。もしかしたら、私もいつか、佐伯さんみたいになるのかもしれない」
「……そうだな」
直人は、安易に否定しなかった。
大丈夫だと断言することはできない。
何が起こるのか、誰にもわからないのだから。
「でも、もし何か起きたら、僕がそばにいる」
直人は続けた。
「君が自分でわからなくなったときも、僕は君の話を聞く。何が起きたのか、一緒に確かめる」
美咲は、少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう」
直人は頷いた。
守るという言葉は、簡単に口にできる。
だが、本当に守るためには、相手の意思を無視してはいけない。
危険だからといって、すべてを遠ざければいいわけではない。
それでも、失いたくないものがある。
その気持ちだけは、嘘ではなかった。
*
午後五時を過ぎた頃、施設内に放送が流れた。
『全員、食堂へ集まってください。今後の行動について、話し合いを行います』
管理人の声だった。
直人と美咲が食堂へ向かうと、すでに大勢の人が集まっていた。
壁際には食料の箱が積まれ、中央には長机が並べられている。
人々の顔には、疲労と不安が浮かんでいた。
管理人が前に立ち、静かに口を開いた。
「次の鐘まで、残り七時間を切りました。今夜、何が起こるかはわかりません。だからこそ、ここにいる全員が、自分の行動を決めておく必要があります」
食堂がざわついた。
「ここに残るべきだ!」
「いや、外へ出たほうが安全だ!」
「誰かが正気を失ったら、どうするんだ!」
声が飛び交う。
直人は、周囲の人々を見渡した。
食料を独占しようとした男。
怪我をした女性。
千尋の名前に苦しんだ佐伯。
それぞれが、ここにいる。
それぞれに、恐怖がある。
そして、誰もが、自分なりの答えを探している。
管理人が手を上げた。
「落ち着いてください。今日は、三つの選択肢を用意しました」
食堂が静かになった。
「ひとつ目。この施設に残り、全員で助け合うこと」
「ふたつ目。少人数のグループに分かれ、別々の場所で鐘を迎えること」
「三つ目。家族や大切な人だけで行動し、他の人間とは距離を置くこと」
直人は目を伏せた。
どれも、正しいとも間違いとも言い切れない。
大勢でいれば、助け合えるかもしれない。
しかし、一人が正気を失えば、被害は広がる。
少人数なら、危険を抑えられるかもしれない。
だが、助けを呼べる人間がいなくなる可能性もある。
大切な人だけを守る。
その選択は、誰かを守ると同時に、誰かを見捨てることにもつながる。
直人は美咲を見た。
彼女は、掌を握りしめていた。
黒い三文字は、まだ消えていない。
――逃げて。
誰から。
何から。
どこへ。
答えがないまま、選択の時間が近づいていた。
そして、直人は気づいていなかった。
食堂の一番奥で、佐伯が彼をじっと見つめていることに。
佐伯の唇が、声にならない言葉を形作った。
――朝霧直人。
その直後、佐伯の手の中で、一枚の古い写真が静かに折れ曲がった。
写真に写っていたのは、幼い少女だった。
裏面には、名前が書かれている。
千尋。
そして、その隣には、今よりずっと若い佐伯の姿があった。




