第18話 鐘が鳴る前に
最初に異変に気づいたのは、直人ではなかった。
「……時計、止まってない?」
食料倉庫の前で、若い女性が呟いた。
彼女の視線の先には、廊下の壁に掛けられた時計があった。
長針は、午前十一時五十七分を指している。
秒針だけが動いていなかった。
「電池が切れたんじゃないのか?」
誰かが答えた。
「さっきまで動いてたよ」
「じゃあ、壊れたんだろ」
その場にいた人々は、すぐに興味を失った。
時計が壊れることくらい、珍しくもない。
今の世界では、もっと深刻な問題がいくらでもある。
食料。
水。
怪我人。
そして、次の鐘。
直人は、壁の時計を見つめていた。
秒針は動かない。
しかし、時計の下に置かれた小さなデジタル時計は、正常に時を刻んでいた。
十一時五十七分二十秒。
二十一秒。
二十二秒。
世界の時間が止まったわけではない。
止まったのは、あの時計だけだ。
「直人さん」
美咲が小さく呼んだ。
「地下に戻りましょう」
「どうして?」
「わからない。でも、あの人に伝えなきゃいけない気がする」
美咲の手は、まだかすかに光っていた。
直人は地下への階段を見た。
第17話で、扉の向こうの人物は言っていた。
――来るなら、次は一人で来い。
美咲を危険にさらすな。
あの言葉には、脅しとは違う響きがあった。
何かを恐れている。
あるいは、何かを知っている。
「僕一人で行く」
直人が言うと、美咲は首を横に振った。
「駄目です」
「でも、あの人は君を連れてくるなと言った」
「私が行かなかったら、何もわからないままになるかもしれない」
「美咲……」
「私だって怖いよ。でも、怖いから何もしないって決めたくない」
その言葉に、直人はすぐに返事ができなかった。
彼女の言うことは正しい。
けれど、正しいことが安全とは限らない。
守りたいと思うほど、選択は難しくなる。
「……わかった。ただし、少しでも危険を感じたら、すぐに戻る」
「うん」
二人は、もう一度地下へ向かった。
*
階段を下りるにつれ、空気が冷たくなっていった。
地上のざわめきは遠ざかり、足音だけが壁に反響する。
扉の前に着いたとき、美咲の手が強く光った。
「いるんですか?」
直人が呼びかけた。
「私たちです」
返事はなかった。
直人は扉に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
扉の下に、紙が挟まっていた。
第17話で受け取った記録とは違う。
今度の紙は、白く新しい。
直人はそれを引き抜いた。
紙には、一行だけ書かれていた。
――鐘が鳴る前に、記録者を見つけろ。
「記録者……?」
直人は扉を見つめた。
「あなたのことですか?」
沈黙。
やがて、向こうから声が返ってきた。
「その紙を、どこで手に入れた」
「扉の下に挟まっていました」
「……見せろ」
「どうやって?」
「扉の下から戻せ」
直人は紙を差し込んだ。
向こう側で、紙を拾う音がした。
しばらくして、声が戻ってきた。
「これは、私が書いたものではない」
「でも、あなたは記録者なんですよね?」
「私は記録を残している。だが、この言葉を書いた覚えはない」
「では、誰が?」
「それを知りたいのは、こちらも同じだ」
また、その言葉だった。
直人は苛立ちを覚えた。
ここへ来てから、何度同じやり取りを繰り返しただろう。
わからない。
知らない。
確かではない。
世界が壊れた理由も、鐘の正体も、誰も答えを持っていない。
それでも、わからないことがあるからといって、何もできないわけではない。
「あなたが残した記録を、見せてください」
直人は言った。
「千尋という名前がありました。彼女は、この施設にいた可能性があるんですよね」
「……ああ」
「なら、彼女がどこへ行ったのか、何を知っていたのか。それを調べたいんです」
「なぜ、そこまで千尋にこだわる?」
「美咲が、彼女の名前を感じ取ったからです」
直人は隣を見た。
美咲は扉に目を向けたまま、じっと立っている。
「本人にも理由はわかりません。でも、何かがつながっている気がするんです」
「何か、か」
声の主は、しばらく黙っていた。
「人間は、わからないものに意味を求める。偶然を運命と呼び、恐怖に名前をつける。そうしなければ、耐えられないからだ」
「それでも、確かめることはできます」
「確かめた結果、何もなかったら?」
「そのときは、何もなかったと受け入れます」
「確かめた結果、取り返しのつかないことを知ったら?」
直人は、答えに詰まった。
何も知らないままでいられたなら。
知らずに済んだなら。
そんなふうに思う瞬間は、きっと来る。
それでも。
「……それでも、知らないふりをするよりはいい」
直人は答えた。
「少なくとも、僕はそう思います」
扉の向こうから、深いため息が聞こえた。
「君は、あの記録に書かれた人物とよく似ている」
「誰のことですか?」
「まだ、教えることはできない」
直人は思わず天井を仰いだ。
「また、それですか」
美咲が、ほんの少し笑った。
扉の向こうの人物も、かすかに笑ったようだった。
だが、次の言葉は笑いを消した。
「いいか。鐘が鳴る前に、ひとつだけ覚えておけ」
声が低くなる。
「次に正気を失う人間が、必ずしも他人を傷つけるとは限らない」
「どういう意味です?」
「自分を傷つける者もいる。逃げ出す者もいる。誰かを守ろうとして、結果的に誰かを危険にさらす者もいる」
直人は黙って聞いていた。
「鐘が鳴ったあと、人々を見分けようとするな。善人か悪人か、敵か味方か。そんな単純な区別は、すぐに役に立たなくなる」
「では、どうすればいいんですか」
「何をしたかを見ろ。そして、正気に戻ったあと、何を選ぶかを見ろ」
その言葉は、直人の胸に残った。
人は、ひとつの行動だけで決まるわけではない。
けれど、行動の結果から逃げることもできない。
誰かを傷つけたなら、その事実と向き合わなければならない。
誰かを救ったなら、その救いがどこまで届いたのかを確かめなければならない。
直人は自分の手を見た。
傷を治す力。
それは、傷ついた人を救うための力だ。
しかし、その力だけで世界を救えるわけではない。
「……あなたは、次の鐘が鳴ったら、どうするんですか?」
直人が尋ねた。
「ここに残る」
「扉を開けないんですか?」
「開けられない」
「どうして?」
長い沈黙があった。
「私が外へ出れば、誰かが死ぬかもしれない」
その声には、迷いがなかった。
ただ、諦めだけがあった。
直人は扉に一歩近づいた。
「それは、あなたが決めることなんですか?」
「何?」
「あなたが外へ出たら誰かが死ぬと、どうして決めつけるんですか」
「私は……」
「過去に誰かを傷つけたからですか?」
返事はなかった。
「自分がしたことを忘れられないのは、当然だと思います。でも、だからといって、これから何をしても無意味だと決める必要はないはずです」
直人は、言葉を選びながら続けた。
「僕には、あなたがどんなことをしたのか、わかりません。あなたを許せるかどうかも、わかりません。でも、あなたが何をするかを、あなた自身が決めることはできるはずです」
扉の向こうは静かだった。
やがて、かすれた声が返ってきた。
「……君は、残酷なことを言う」
「そうかもしれません」
「罪を抱えた人間に、これからを選べと言うのか」
「はい」
直人は答えた。
「過去を消すことはできないからです」
しばらくして、扉の向こうから小さな音がした。
何かが置かれた音だった。
扉の下から、今度は薄い冊子が滑り出てきた。
「持っていけ」
声の主が言った。
「ただし、すべてを読むな。最初の数ページだけにしろ」
「どうしてです?」
「君が今、知るべきことは限られている」
直人は冊子を拾った。
表紙には、何も書かれていなかった。
開くと、最初のページに日付と時刻が並んでいた。
午前零時。
午前六時。
正午。
午後六時。
そして、ページの下には、同じ文章が何度も記されていた。
――鐘のあと、人は必ずしも同じ人間ではない。
直人は次のページをめくった。
そこには、食料を独占した者の記録があった。
別のページには、見知らぬ人を救うために自分の食料を分けた者の記録。
さらにその次には、家族を守ろうとして、他人を締め出した者の記録が残されていた。
それぞれの行動の横には、短い追記がある。
――正気に戻ったあと、謝罪した。
――自分の行動を否定した。
――何も覚えていないと主張した。
――被害を受けた者は、許さなかった。
直人はページを閉じた。
そこに書かれていたのは、特別な怪物の記録ではない。
自分たちと同じ人間の記録だった。
「この冊子は、何ですか?」
「私が残してきた記録の一部だ」
「なぜ、僕に?」
「君が傷を治せるからだ」
「傷を治すことと、記録に何の関係が?」
「君は、人の身体を元に戻せる。だが、元に戻った人間が、以前と同じ人間だとは限らない」
声の主は、静かに言った。
「身体が治っても、恐怖は残る。命が助かっても、誰かを傷つけた記憶は消えない。そして、記憶が消えたとしても、傷つけられた人間の苦しみは残る」
直人は冊子を抱えた。
「君の力が、この世界で何を意味するのか。私にも、まだわからない」
声は続けた。
「だからこそ、見てほしい。傷が治ったあとに、人間が何を選ぶのかを」
直人は、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
「それから」
声の主が言った。
「次に鐘が鳴るまで、ここへ戻ってくるな」
「どうしてです?」
「今、君たちがここにいること自体が、危険なのかもしれない」
直人が問い返そうとした、そのときだった。
美咲が突然、胸元を押さえた。
「……痛い」
「美咲?」
彼女の手が、強烈な光を放った。
地下の壁が白く照らされる。
冊子のページが、風もないのに一斉にめくれた。
その中の一枚に、直人は見覚えのある名前を見つけた。
――千尋。
名前の横には、短い記述があった。
――次の鐘まで、保護を継続すること。
直人が文字を読み終える前に、美咲が膝をついた。
「美咲!」
直人は彼女を支えた。
「どうした? どこが痛む?」
「わからない……でも、誰かが……」
美咲は息を詰まらせた。
「誰かが、今、すごく怖がってる」
扉の向こうから、初めて激しい物音が響いた。
「冊子を閉じろ!」
声の主が叫んだ。
「今すぐだ!」
直人は慌てて冊子を閉じた。
美咲の手の光が、急速に弱まっていく。
静寂が戻った。
直人は扉を見た。
「今のは何だったんですか!」
「……わからない」
「あなたにも、わからないんですか?」
「わからない。だが、ひとつだけ確かなことがある」
声の主は、苦しそうに言った。
「千尋の記録が、今も更新されている」
直人の心臓が強く打った。
「それは、千尋さんが生きているということですか?」
「そうとは限らない」
また、答えは断定を避けた。
「記録が更新されている理由も、誰が更新しているのかも、私にはわからない」
直人は冊子を見下ろした。
千尋。
美咲の光。
鐘の前に起き始めた異変。
それらは、まだひとつの答えには結びつかない。
けれど、無関係だと片づけるには、あまりにも多くのものが重なっていた。
「……僕たちは、何をすればいいんですか」
直人が尋ねた。
扉の向こうから返事があった。
「地上へ戻れ。目の前にいる人間を見ろ。次の鐘が鳴る前に、できることをしろ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
声の主は言った。
「世界の秘密を知ろうとする前に、目の前の人間を見捨てるな」
直人は、美咲を支えながら立ち上がった。
冊子を胸に抱き、階段へ向かう。
あと数段で地上へ戻れるというところで、直人は足を止めた。
「最後にひとつだけ、聞かせてください」
扉の向こうから返事はない。
「あなたは、千尋さんを救いたいんですか?」
長い沈黙があった。
そして、声が返ってきた。
「……救いたいと思っている」
その声は、ひどく弱かった。
「だが、私には、救う資格がないのかもしれない」
直人は何も答えなかった。
その言葉に、簡単な慰めを返すことはできなかった。
救う資格があるのか。
誰かを許す資格があるのか。
そんなものを、誰が決められるのだろう。
直人は美咲とともに、地上へ戻った。
*
廊下へ出ると、食料倉庫の前には、まだ人が集まっていた。
先ほど食料を独占しようとしていた男たちが、箱を前にして話し合っている。
全員が納得したわけではない。
不満そうな顔もあれば、疑いの目を向ける者もいた。
それでも、食料はまだ分けられる状態にあった。
直人は、少しだけ息を吐いた。
何も解決していない。
鐘の正体も、千尋の居場所も、美咲の手の光も。
それでも、今ここで誰かが傷つくことを、ひとまず防げた。
それだけは確かだった。
「直人さん」
美咲が、彼の袖をつかんだ。
「さっき、扉の向こうの人が言っていたこと……」
「うん」
「私たち、間に合うのかな」
直人は答えを探した。
間に合う。
きっと大丈夫だ。
そう言ってやりたかった。
しかし、根拠のない希望を口にすることが、彼女を救うとは限らない。
「……わからない」
直人は正直に答えた。
「でも、間に合わせるために、できることを探そう」
美咲は、静かに頷いた。
そのとき。
壁の時計が、かちりと音を立てた。
止まっていた秒針が、再び動き始めたのだ。
十一時五十九分五十秒。
五十一秒。
五十二秒。
直人は時計を見上げた。
その針は、正常に進んでいる。
だが、秒針が一周するたびに、かすかな音が聞こえた。
鐘の音に似ていた。
まだ、鐘は鳴っていない。
それでも、何かが近づいている。
直人は美咲の手を見た。
光は消えていた。
代わりに、彼女の掌には、見覚えのない文字が浮かんでいた。
たった三文字。
――逃げて。
美咲が息を呑んだ。
直人は、その文字を見つめたまま動けなかった。
誰が書いたのか。
誰に向けられた言葉なのか。
そして、何から逃げろというのか。
答えは、まだない。
時計の針は進み続ける。
次の鐘まで、残された時間はわずかだった。




