第17話 扉の向こうにいる人
「……やっと来たか」
扉の向こうから聞こえた声に、直人は足を止めた。
低く、かすれた声だった。
怒りも、喜びも感じられない。ただ、長い間、誰かを待ち続けていた人間の声だった。
隣にいる美咲の手が、淡く光っている。
その光は、地下へ続く階段の壁を照らしていた。
「誰ですか?」
直人は扉に向かって問いかけた。
「君たちは、何をしに来た?」
質問に質問が返ってきた。
直人は眉を寄せた。
「正直に言うと、わかりません」
「わからない?」
「彼女が、ここへ来るように言われたんです。鐘が鳴る前に、地下へ行けと」
扉の向こうが静かになった。
その沈黙に、美咲が口を開いた。
「あなたが、私を呼んだんですか?」
「いや」
返事はすぐに返ってきた。
「私ではない」
「では、誰が?」
「それを知りたいのは、こちらも同じだ」
直人は美咲を見た。
彼女は不安そうに自分の手を見つめている。
光は弱まるどころか、少しずつ強くなっていた。
「この光を知っているんですか?」
美咲が尋ねた。
「記録の中に、似た現象が残されている」
「記録?」
「鐘が鳴るようになってから、私はさまざまなことを記録してきた。人が変わる時刻。変化の程度。正気に戻った者と、戻らなかった者。その違いもな」
直人は息を呑んだ。
鐘による凶暴化について、ここまで詳しく調べている人間がいたのか。
「なら、教えてください。鐘が何なのか、あなたは知っているんですか?」
「知らない」
意外な答えだった。
「少なくとも、すべてを理解しているわけではない。記録を重ねても、確かな答えにはたどり着けなかった」
「それでも、わかったことはあるんでしょう?」
「ある」
声の主は、少し間を置いた。
「ひとつ、重要なことがある」
直人は扉に近づいた。
「鐘が鳴った瞬間に、人間が変わるわけではない」
「……どういう意味ですか?」
「変化は、鐘が鳴る前から始まっている可能性があるということだ」
直人は、言葉を失った。
鐘が鳴る。
人々が凶暴化する。
そして、次の鐘までの二十四時間が始まる。
これまで直人たちは、その音を境界線として考えていた。
しかし、もし変化が音よりも前に始まっているのなら。
鐘は、変化を起こすものではなく、すでに進んでいた何かを表面化させるものなのかもしれない。
「では、次の鐘が鳴る前に、何かが起きるんですか?」
「その可能性は否定できない」
「防ぐ方法は?」
「わからない」
直人は唇を噛んだ。
また、わからない。
この世界で何かを知ろうとするたび、目の前に新しい壁が現れる。
それでも、ここまで来た以上、引き返すわけにはいかなかった。
「あなたは、どうして地下にいるんですか?」
直人は尋ねた。
今度は、すぐに返事がなかった。
「……私は、人を傷つけた」
やがて、扉の向こうから声がした。
「鐘が鳴ったとき、私は正気ではなかった。自分が何をしているのか、わかっていなかった」
直人は黙って聞いていた。
「だが、正気に戻ったあとも、私がしたことは消えなかった。傷つけられた人間も、失われた命も、なかったことにはならなかった」
その声には、深い後悔が滲んでいた。
「だから、ここに残ったんですか?」
「違う。最初は、逃げるためだった」
思いがけない答えだった。
「自分のしたことを見たくなかった。誰かに責められるのが怖かった。私は、ここに隠れていれば、いつか何もかも忘れられると思っていた」
直人は目を伏せた。
自分にも、覚えがあった。
何もできなかったとき。
助けられなかった人がいたとき。
あのとき、もっと別の行動ができたのではないかと考えるたび、目を背けたくなる。
けれど、忘れようとしても、何も消えなかった。
「……僕にも、わかりません」
直人は言った。
「どうすれば正しいのか、何をすれば償いになるのか。僕にも答えはありません」
扉の向こうは静かだった。
「でも、何もしないままでいいとは思いません。自分がしたことを忘れられないなら、これから何をするかを考えることはできるはずです」
言いながら、直人は自分自身に言い聞かせているような気がした。
傷を治す力があっても、過去は治せない。
失われた命は戻らない。
それでも、目の前にいる人を見捨てたくはなかった。
「君は、傷を癒やせるそうだな」
突然、声の主が言った。
直人の身体が強張った。
「どうして、それを?」
「記録にあった。人の傷を癒やす力を持つ者が現れた、と」
「僕のことが書いてあるんですか?」
「君の名前はない。ただ、そういう力について記されていた」
直人は、自分の手を見つめた。
「僕の力で、何かを治してほしいんですか?」
「いや」
声は静かだった。
「私に必要なのは、治療ではない」
「では、何を?」
「記憶だ」
直人は眉を寄せた。
「記憶?」
「鐘が鳴るたび、人間は何かを失う。正気に戻ったあと、覚えている者もいれば、覚えていない者もいる。だが、記憶がないからといって、何も起きなかったことにはならない」
直人は、地下の記録を思い出した。
そこには、凶暴化した人々の行動だけでなく、正気に戻った人々の反応も残されていたはずだ。
泣き崩れる者。
自分のしたことを認めない者。
被害を受けた人間に、許しを求める者。
そして、何も覚えていないと繰り返す者。
鐘が鳴るたびに、世界は同じ惨劇を繰り返す。
けれど、そこにいる人間たちは、同じではない。
前の二十四時間で何をしたのか。
誰を助け、誰を見捨てたのか。
誰を信じ、誰を裏切ったのか。
それらすべてが、次の選択に影響していく。
「……記録は、まだ残っているんですか?」
「ああ。だが、すべてではない」
「見せてもらえませんか?」
「それはできない」
直人は顔を上げた。
「どうしてですか?」
「君たちが、まだ知らないほうがいいこともある」
「そんな言い方をされたら、余計に知りたくなります」
思わず口にした言葉に、隣で美咲が小さく笑った。
扉の向こうからも、かすかな笑い声が聞こえた。
「なるほど。君は、そういう人間なのか」
「どういう意味ですか?」
「自分が危険だとわかっていても、先へ進もうとする人間だという意味だ」
「……褒めてます?」
「さあな」
直人は、ため息をついた。
どうやら、相手は簡単に何も教えてくれそうにない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
この人物は、鐘について何かを知っている。
そして、その知識は、次の二十四時間を生き延びるために必要なものかもしれない。
*
美咲が、突然、直人の服をつかんだ。
「直人さん」
「どうした?」
「……誰かが、泣いてる」
彼女は扉を見つめていた。
その手が、先ほどよりも強く光っている。
「どこかで、誰かが助けを求めてる」
直人は耳を澄ました。
何も聞こえない。
「声が聞こえるのか?」
「ううん。声じゃないの」
美咲は首を振った。
「悲しいのか、怖いのか、よくわからない。でも……ひとりで、ずっと耐えてる感じがする」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「私、知ってる気がする。この感じ」
「誰のことを?」
「わからない。でも、たぶん……」
美咲は言葉を切った。
そして、小さく名前を口にした。
「千尋……?」
直人は息を呑んだ。
千尋。
地下の人物が口にした名前。
行方不明の少女。
彼女を探し続ける父親。
それらが、今、ひとつにつながりかけていた。
「美咲、千尋さんを知っているのか?」
「違う。会ったことはないと思う」
「じゃあ、どうして名前を?」
「わからないの……」
美咲は、光る手を胸に押し当てた。
「でも、この光が、何かを教えようとしてる気がする」
直人は彼女の肩を支えた。
「無理をしなくていい」
「でも、直人さん。もし、本当に誰かが助けを求めているなら……」
「わかってる」
直人は静かに答えた。
「見捨てるつもりはない。でも、今は何が起きているのか確かめよう」
美咲は小さく頷いた。
扉の向こうから、低い声が響いた。
「その名前を、どこで聞いた?」
先ほどまでの穏やかさは消えていた。
「美咲が口にしただけです。彼女も、理由はわからないと言っています」
「そうか……」
声の主は何かを考えているようだった。
「もし、その子が本当に千尋のことを感じ取っているのなら、君たちは決して急いではいけない」
「なぜですか?」
「人を救いたいという気持ちは、ときに判断を誤らせる」
直人は、返す言葉を失った。
「助けを求める声が、本当に助けを求めているとは限らない。誰かを救おうとした結果、別の誰かを危険にさらすこともある」
「それでも、助けを求めている人がいるなら、確かめるべきです」
「……そう言うと思った」
扉の向こうで、何かが床に置かれた。
紙が擦れる音。
やがて、扉の下の隙間から、一枚の紙が滑り出てきた。
直人はそれを拾った。
古い記録の切れ端だった。
そこには、時刻と短い文章が書かれていた。
――第二段階、午前六時。
――食料の配給を停止。
――一部の居住者が、他者への提供を拒否。
――救助活動を続ける者、三名。
直人は目を見開いた。
これは、鐘が鳴ったあとの記録だ。
そして、その下に、別の文字が記されていた。
――千尋、保護対象。
「これは……?」
「私が残した記録の一部だ」
扉の向こうの声が答えた。
「鐘が鳴ったあとの世界で、人々がどのような選択をしたのか。それを記録していた」
「千尋さんは、ここにいたんですか?」
「かつて、この施設にいた可能性がある」
「今は?」
「わからない」
直人は、紙を強く握った。
また、わからない。
けれど、何も手掛かりがなかったときとは違う。
千尋は、少なくとも、この施設の記録に名前が残る人物だった。
彼女を探すことが、鐘の謎を解くことにつながるかもしれない。
*
階段の上から、足音が聞こえた。
「直人さん!」
聞き覚えのある声だった。
管理人だ。
直人は振り返った。
「どうしたんですか?」
「早く戻ってくれ。上で問題が起きている」
「何があったんです?」
「食料のことで揉めている。備蓄を全部、自分たちの部屋に運び込もうとしている人間がいるんだ」
直人の表情が曇った。
まだ、次の鐘まで時間はある。
だが、その時間があるからこそ、人々は選択を始めているのかもしれない。
自分だけが助かればいいと考える者。
誰かを見捨ててでも、生き延びようとする者。
そして、自分が危険にさらされても、他人を助けようとする者。
鐘が鳴るまでの時間は、単なる猶予ではない。
人間が、自分の本性と向き合うための時間でもあるのだ。
「わかりました。すぐ戻ります」
直人は答えた。
美咲も、階段へ向かおうとした。
だが、その前に、直人は扉を振り返った。
「また来ます」
扉の向こうから、返事があった。
「来るなら、次は一人で来い」
「……どうしてですか?」
「その子を、これ以上危険にさらすな」
直人は、美咲を見た。
彼女の手の光は、少し弱まっていた。
「考えておきます」
直人はそう答え、階段を上り始めた。
背後で、扉の向こうの人物が何かを呟いた。
その声は小さく、直人には聞き取れなかった。
ただ、最後の一言だけが、地下の冷たい空気に残った。
「……間に合えばいいが」
*
地上へ戻ると、廊下には人だかりができていた。
数人の男たちが、備蓄倉庫の前に立ちふさがっている。
その足元には、食料の箱が積まれていた。
「これは俺たちが見つけたんだ!」
男の一人が叫んだ。
「だから、俺たちが持っていく。文句はないだろ!」
「みんなで分ける約束だったはずです!」
若い女性が言い返した。
「約束? そんなもの、いつまで守れると思ってるんだ!」
男は女性を突き飛ばした。
彼女は床に倒れた。
直人は駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
女性の額から血が流れていた。
直人は彼女の傷に手を当てた。
傷が塞がっていく。
だが、女性の震えは止まらなかった。
「……ありがとうございます」
彼女は小さく言った。
直人は頷いた。
傷は治せる。
けれど、恐怖までは消せない。
男たちは食料の箱を抱え、廊下の奥へ向かおうとしていた。
「待ってください!」
直人は立ち上がった。
「それは、みんなの食料です」
「お前に何がわかる!」
男が振り返った。
「次の鐘が鳴ったら、どうなるかわからないんだぞ! 自分の身を守るために食料を確保して、何が悪い!」
直人は答えられなかった。
男の言葉には、恐怖があった。
生き延びたいという、切実な願いがあった。
だからといって、他人の食料を独占していいわけではない。
けれど、力ずくで取り上げれば、今度は別の争いが始まる。
どうすればいいのか。
誰を信じればいいのか。
誰と一緒に過ごすべきなのか。
まだ、答えは出なかった。
直人は、男たちの目を見た。
「……わかりました」
その言葉に、周囲がざわめいた。
「ただし、全部を持っていくのはやめてください」
「何だと?」
「あなたたちにも食料は必要です。でも、ここにいる全員にも必要なんです」
直人は、できるだけ落ち着いた声で続けた。
「まず、全員分の食料を確認しましょう。そのうえで、どれだけ分けられるかを決める。それなら、どうですか?」
「そんな悠長なことをしていられるか!」
「だからこそです」
直人は言った。
「次の鐘まで、まだ時間があります。その時間を、奪い合いだけで使いたくないんです」
男は黙った。
周囲の人々も、何も言わなかった。
やがて、食料の箱を抱えていた男が、ゆっくりと箱を床に置いた。
「……一度だけだ」
男は吐き捨てるように言った。
「話し合いには応じる。でも、俺たちが納得できなかったら、次は知らないぞ」
直人は頷いた。
「それで構いません」
男たちは、ひとまず倉庫の前から離れた。
争いは終わったわけではない。
ただ、少しだけ先送りされたにすぎない。
直人は、床に座り込んだ女性へ手を差し伸べた。
彼女は、その手を握った。
「……次の鐘まで、あと何時間ですか?」
女性が尋ねた。
直人は、壁の時計を見た。
「まだ、時間はあります」
そう答えたものの、直人自身、その言葉を信じ切れてはいなかった。
時間があることと、助かることは同じではない。
残された時間をどう使うか。
誰を守るのか。
何を諦め、何を諦めないのか。
その選択は、もう始まっていた。
直人は、地下へ続く階段を振り返った。
扉の向こうには、まだ知らない記録がある。
そして、美咲の光が感じ取った、正体不明の誰かがいる。
千尋も、そのどこかにつながっているのかもしれない。
直人は、拳を握った。
次の鐘が鳴る前に、できることを探さなければならない。
誰かを救うために。
そして、次の鐘が鳴ったあとも、自分たちが人間でいられるように。
時計の針は、静かに進んでいた。
鐘が鳴るまでの時間は、まだ終わっていない。




