第70話:恋の答え合わせは、最高に温かいハグで
昼下がりの静かなキッチン。
俺の腕の中には、すっぽりと収まる彩の小さな体があった。
シャンプーの甘い匂いと、エプロン越しに伝わってくる温かい体温。
お互いの心臓の音が、うるさいくらいに重なって聞こえる。
突然抱きしめるなんて、いくらなんでも勢い任せすぎたかもしれない。
突き飛ばされても文句は言えない。
そう思いながらも、俺はどうしても腕の力を緩めることができなかった。
このまま時間が止まればいいのに。
そんな、ラブコメの主人公みたいなテンプレの台詞が頭をよぎる。
でも、今の俺にはそれが本音だった。
数秒とも数分ともつかない、永遠みたいな沈黙。
やがて、俺の背中に回された彩の小さな手が、服の生地をきゅっと強く握りしめた。
「……渉くん」
腕の中から、くぐもった声が聞こえた。
顔は見えない。でも、その声は微かに震えているように感じた。
「……ん」
「……寂しかった?」
静かで、でも俺の心のど真ん中を真っ直ぐに射抜くような問いかけ。
先週までの俺なら、きっと誤魔化していた。
「別に」「ただのモブだし」なんて言って、適当にはぐらかして逃げていたはずだ。
でも、もう自分に嘘をつくのはやめだ。
この一週間、さんざん思い知らされたじゃないか。
「……ああ。正直に言うと、めっちゃ寂しかった」
俺は、つっかえそうになる喉の奥から、本音を絞り出した。
「海斗と一条さんが付き合い始めて……俺たちを繋いでた口実がなくなって。お前との距離が目に見えて空いた気がして……なんか、すごく苦しかったんだ」
俺の言葉を聞いて、彩の肩がピクッと跳ねたのがわかった。
背中に回された腕の力が、さらに少しだけ強くなる。
「……私も」
彩が、俺の胸に顔を埋めたまま、ぽつりとこぼした。
「私も……本当だったら、月曜日からずっと、一緒に学校に行きたかったし……帰りたかった」
「彩……」
「ごめんね。私……すっごく、自分勝手な女だから」
彩はゆっくりと顔を上げ、至近距離で俺を見つめた。
黒縁メガネの奥にある、少し不思議な瞳。
そして、窓からの光を反射してさらさらと揺れる真っ黒なショートヘア。
彼女が、世界中の誰よりも特別で、綺麗に見えた。
「私ね、かなり前から……渉くんのことが、好きだったの」
ドクン、と。
俺の心臓が、今日一番の大きな音を立てた。
「朝早く来てご飯を作ったり、休日にバイト先に押しかけたり、同じ布団に入って寝たフリしたり……渉くんと一緒にいる時間が、すごく幸せで。このままずっと一緒にいたいなって、思ってた」
彩は言葉を探すように、少しだけ視線を彷徨わせた。
「でも……ただ漠然と『好き』っていう感情だけで流されるのは、ダメだと思ったの」
「ダメって……なんで?」
「だって、渉くんは私のこと、ずっと『ただの相棒』だと思ってたでしょ? 私も、自分のこの気持ちが、ただ一緒にいるから楽しいだけなのか、それとも本当に渉くん自身が好きなのか……ちゃんと確かめたかった。何が好きなのか、どういうところが好きなのか。本当に、渉くんがいなくなったら寂しいのかって」
だから、この1週間距離を置いた。
彩はそう言って、申し訳なさそうに眉を下げる。
「……一条さんも、1枚噛んでるんだ」
「えっ?」
「水族館の次の日。中庭で一条さんに呼ばれた時、別れ際に耳打ちされたでしょ」
彩の言葉に、俺は月曜日の昼休みを思い出した。
確かにあの時、一条さんは彩の耳元で何かを囁いていた。
「あの時、一条さんに言われたの。『鈴木さんも、頑張ってね』って」
「一条さんが……?」
「うん。その後私、一条さんに相談してたの。……渉くんに隠れて」
彩の頬が、ほんのりと赤く染まる。
「渉くんのことが好きだけど、どう動いていいか分からなくて。そしたら一条さんが、『自分の気持ちを、まっすぐ伝えること! 鈴木さん、告白しちゃいなよ!』ってアドバイスをくれて。あの子、恋愛初心者のはずなのに、客観的に見てすごく的確なこと言うから……それに乗っかっちゃった」
なるほど。
あの美少女、自分の恋が実った途端に、今度はこっちの裏方たちの世話まで焼いてくれていたのか。
さすがは学年のアイドルにして、王道ラブコメのメインヒロインだ。
面倒見が良すぎる。
「試すようなことして……本当に、ごめんなさい。私、こういう理屈っぽい女なんだけど……」
不安そうに瞳を揺らし、謝る彩。
俺は小さく息を吐き出すと、彩の肩に手を置き、そっと体を離した。
「え……」
彩が、小さく息を呑む。
目を見開いて固まる彩を真っ直ぐに見据え、俺は口を開いた。
「謝るなよ。……俺も、お前が距離を置いてくれたおかげで、自分を見つめ直す時間ができたんだから」
ごまかしのきかない、真っ直ぐな視線。
俺の言葉に、彩の頬がみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「俺は、彩みたいに頭が回るわけじゃないし、うまく説明できないから……単刀直入に言う」
俺は、少しだけ声のトーンを落とし、はっきりと告げた。
「俺は、彩が好きだ」
静かなリビングに、俺の言葉が真っ直ぐに響いた。
「この1週間……嘘みたいに、ずっとお前のことばっかり考えてた。朝起きた時、『一緒に学校行きたいな』って思った。放課後、下駄箱でお前を見た時、『一緒に帰りたいな』って、何度も引き留めそうになった」
彩が、大きな瞳に涙をいっぱいに溜めて、俺を見上げている。
「お前が俺にしてくれたこと、一緒にバカやった作戦会議、他愛のない帰り道。そういうのを全部思い返して……やっと気づけたんだ。自分の隣に、こんなにも手放したくない女の子がいたんだってことに」
「渉くん……」
「モブの俺に、こんな感情が芽生えるなんて思わなかった。でも、もう絶対に逃げないし、誤魔化さない」
俺は、彩の小さな両手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
少し冷たかった指先が、俺の体温と重なってじんわりと温かくなっていく。
「もう一度言う。俺は、彩が大好きだ」
大きく息を吸い込み、人生で一番の勇気を振り絞って、最後の一言を口にする。
「俺と、付き合ってくれ」
静寂。
キッチンに置かれたままの鍋から、かすかに湯気の立つ音が聞こえる。
彩は、真っ赤な顔のまま、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
黒縁メガネの奥から溢れた涙が、頬を伝って落ちていく。
そして。
「……うんっ」
涙ぐんだ声で、でも、今まで見たどんな表情よりも輝く、満面の笑みで。
彩は力強く、しっかりと頷いてくれた。
「私でよければ……よろしくお願いします」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなるような、すげえ嬉しい気持ちがブワッと広がった。
他人のラブコメを観測して満足していただけの俺が、初めて手に入れた、俺自身の『ハッピーエンド』。
「……よかった」
俺は安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになった。
「ふふっ、渉くん、大げさ」
「うるせえ。こっちは生きた心地がしなかったんだよ」
涙を拭いながら笑う彩を見て、俺も自然と笑みがこぼれる。
俺たちはもう、ただの『モブ』でも『裏方』でもない。
今日、この瞬間から。俺たちは、俺たち自身の物語の、主人公とヒロインになったんだ。
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