第68話:空白の終わりと、無言のハグ
週末の土曜日。
俺は朝から、アパートの一階にあるカフェでアルバイトのシフトに入っていた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
休日のモーニングからランチタイムにかけて、店内はひっきりなしに客が訪れる。
俺はエプロンを身につけ、ホールとカウンターを忙しく動き回っていた。
カランコロン。
ドアベルが鳴るたび、俺は無意識に入り口へと視線を向けてしまう。
もしかしたら、黒髪ショートのあいつが立っているんじゃないか。
先週みたいに、文庫本を片手に「休日の読書に」なんて適当な理由をつけて、当然のようにいつもの端の席に座るんじゃないか。
……そんな淡い期待は、何度ベルが鳴っても裏切られ続けた。
来るわけがないのだ。
俺たちを繋いでいた『見守り』としての共通の目的は、先週の水族館で完全に終わってしまったのだから。
俺は、自分の中に湧き上がる女々しい期待を振り払うように、ひたすら目の前の仕事に打ち込んだ。
オーダーを取り、コーヒーを運び、空いたお皿を下げる。
何も考えないように、ただひたすらに体を動かした。
そうでもしていないと、ぽっかりと空いた心の穴から、どうしようもない寂しさが溢れ出してきそうだったからだ。
忙殺されているうちに時間はあっという間に過ぎていき、気づけば時計の針は正午を回っていた。
「渉くん、午前中のシフトお疲れさん。もう上がりでいいよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
マスターの言葉に一礼し、俺はエプロンを外して裏口から外へ出た。
初夏の日差しがやけに眩しい。
たった半日の労働だったはずなのに、体より心の疲労感が凄まじく、足取りは鉛のように重かった。
自分の部屋がある二階へと続く外階段を上る。
先週の週末までは、この階段を上る時、隣にはいつも彩がいた。
「作戦会議しよっか」と言いながら、当たり前のように俺の部屋に上がり込んできた。
二人でタブレットを覗き込んで、くだらないことで笑い合って、あいつが作ってくれた美味いご飯を食べた。
だけど今は、俺一人だ。
ドアの向こうには、誰の匂いもしない、静かで空っぽの部屋が待っている。
ただのモブの日常に戻っただけ。
それなのに、一度『誰かが待ってくれている』という幸福を知ってしまった俺にとって、一人の部屋に帰るという行為は、とてつもなく億劫で、寂しいものに変わってしまっていた。
「……はあ」
深いため息をつきながら、俺はポケットから鍵を取り出し、ドアノブに差し込んだ。
ガチャリ、と無機質な音が鳴る。
重いドアを押し開け、薄暗い三和土に足を踏み入れた、その時だった。
「……え?」
俺は、自分の目を疑った。
何もないはずの玄関に、見覚えのある黒いスニーカーが、ちょこんと行儀よく並べて置かれていたのだ。先週、水族館の尾行デートの時にあいつが履いていたのと同じ靴。
幻覚かと思った。
でも、違う。
静かだったはずの部屋の奥――リビングのドアの向こうから、かすかに、でもはっきりと音が聞こえてくる。
トントン、トントン。
小気味よくまな板を叩く音。
そして、お湯が沸く音と、食欲をそそる出汁のいい匂いが、ドアの隙間から漏れ出していた。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
頭の中が、一瞬でぐちゃぐちゃになる。
まさか。
なんで? 今日は約束なんてしてないし、そもそもこの1週間、ずっとただのクラスメイトみたいに距離を置いてたじゃないか。
どうやって入った? ああ、そうか、前に渡した合鍵か。
いや、それより、なんで急に俺の部屋に来たんだ。
いろんな疑問が頭の中を駆け巡る。
でも、それらの疑問をすべて塗り潰すように、腹の底から強烈な感情が込み上げてきた。
懐かしい。
嬉しい。
あいつが、俺の部屋にまた来てくれた。
ラノベの主人公なら、ここで「お前、なんでここにいるんだよ!」とドタバタしたツッコミを入れながら部屋に飛び込む場面かもしれない。
でも、俺はそんなこと、どうでもよかった。
もう誤魔化すのはやめだ。
自分の気持ちから逃げるのは、もう終わりにしよう。
後悔しないために。
この感情が間違いじゃないと、ちゃんと確かめるために。
俺は、震えそうになる右手を強く握り込み、リビングのドアノブに手をかけた。
そして、一気にドアを開け放つ。
「……あっ」
昼時の明るい日差しが差し込むキッチン。
そこでフライパンを握っていたエプロン姿の彩が、ドアの音に気づいてこちらを振り返った。
目が合う。
黒縁メガネの奥の、まっすぐな瞳。
彩は少しだけ驚いたような顔をした後、ふわりと、いつものように小さく微笑んだ。
「おかえり、渉くん。バイト、お疲れ様」
まるで、昨日も一緒にいたかのような。
ずっと前から、俺の帰りをここで待っていてくれたかのような、自然で穏やかな声。
その瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが、完全に決壊した。
なんで1週間距離を置いたのかとか、一条さんから何を言われたのかとか、聞きたいことは山ほどあったはずなのに。
エプロン姿のこいつを見た途端、そんな疑問は本当にどうでもよくなってしまった。
俺は、鈴木彩のことが好きなんだ。
モブだとか、観客だとか、そんな設定はもう関係ない。
俺はこの世界で、誰よりも、目の前にいるこの女の子のことが好きなんだ。
気づけば、言葉よりも先に体が動いていた。
俺は鞄を床に放り投げ、数歩でキッチンとの距離を詰める。
「え……渉く――」
驚いて目を丸くする彩の小さな体を、俺は無言のまま、両腕で強く抱きしめた。
「……っ」
腕の中に、柔らかくて温かい体温がすっぽりと収まる。
シャンプーの甘い匂いが、鼻先をかすめた。
突然の俺の行動に、彩の体が一瞬だけビクッと強張る。
怒られるかもしれない。
突き飛ばされるかもしれない。
それでも、俺は腕の力を緩めることができなかった。
絶対に、もう二度と手放したくなかった。
数秒の、永遠みたいな沈黙。
やがて。
彩は後ずさりも、拒絶もせず。
ただ静かに、ゆっくりと、俺の背中に両腕を回してきた。
そして、俺の存在を確かめるように、背中の服をギュッと強く握りしめる。
言葉はなかった。
ただ、お互いの体温と、力強く重なる鼓動だけが、昼下がりの静かな部屋の中に響いていた。
第68話をお読みいただき、ありがとうございました。
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