第64話:予習と、打ち合わせ
月曜日の朝。
アパートのドアを開けると、すっかり見慣れた黒髪ショートの女子が立っていた。
「おはよう、渉くん」
「おう、おはよ。今日も早いな」
「うん。……行こっか」
いつの間にか、こうして朝一緒に登校するのが当たり前になりつつある。
去年までは、モブの俺が女子と一緒に学校に行くなんてあり得ないと思っていたのに。
人間の慣れって怖い。
学校に着くと、相変わらず一条さんはクラスの中心でキラキラ輝いていたし、海斗は自分のイケメンオーラを消して机に突っ伏していた。
今週末、あの二人の関係が大きく変わる。
その事実を知っているのは、教室の中で俺と彩だけだ。
その優越感と、ほんの少しの寂しさが入り混じった妙な気分で、俺は一日を過ごした。
放課後。
「じゃあ、打ち合わせしよっか」
帰りのホームルームが終わるなり、彩が俺の席にやってきてそう言った。
「打ち合わせって……水族館の?」
「うん。当日グダグダになったら困るでしょ。……渉くんの家で、いい?」
小首を傾げて聞いてくる彩に、俺は断る理由なんて持っていなかった。
「わかった。じゃあ、帰るか」
俺の部屋のローテーブルにタブレットを置き、二人で並んで水族館のフロアマップを覗き込む。
「一条さん、どこで告白するんだろうね」
「定番なら、やっぱりペンギンとかクラゲの水槽の前あたりか?」
「うん。でも、帰りの電車の中とか、別れ際っていう可能性もあるよね」
「まあ、こればっかりは行ってみないとわかんないな。とりあえず、適当に後ろからついてって様子を見るしかないか」
真面目に話し合ってはいるものの、小さなタブレットの画面を一緒に見ているせいで、距離がバカみたいに近い。
彩の肩が俺の腕に触れるたび、ビクッと体が跳ねそうになる。
シャンプーのいい匂いが鼻をくすぐってきて、正直、打ち合わせどころじゃない。
『メインカップルの恋を応援するための打ち合わせ』。
この理由があるからこそ、俺たちはこうして放課後に一緒に帰り、密着しながら話すことができる。
でも、その理由の賞味期限は、もう今週末に迫っていた。
「ねえ、渉くん」
不意に彩が顔を上げ、至近距離でバッチリ目が合った。
黒縁メガネの奥のまっすぐな瞳が、俺を捉える。
「ん、なんだ?」
「……今日、夕ご飯作っていってもいい? 冷蔵庫、何か余ってる?」
思わぬ申し出に、俺は目を丸くした。
「え、いいけど……ご両親とか大丈夫なのか? 帰り遅くなると心配するだろ」
「これから連絡するから大丈夫。……一緒に、食べたいし」
少しだけ頬を染めて、スッと目を逸らしながら言う彩。
相変わらず心臓に悪い。
「……じゃあ、お願いしようかな」
「うん。任せて」
冷蔵庫にあった豚肉と野菜で、彩が手早く回鍋肉を作ってくれた。
向かい合って座り、一緒にご飯を食べる。
当たり前のように俺の部屋で夕飯を作ってくれて、一緒に食べて笑い合う。
この状況は、どう考えてもただの友達の距離感じゃない。
食後、すっかり暗くなった道を二人で歩き、彩を家まで送った。
月曜日が終わり、火、水、木と過ぎていく。
その間も、俺たちは当たり前のように朝一緒に登校し、帰りも一緒に帰った。
ただ、俺の中で少しだけ変化があった。
学校にいる間も、無意識のうちに彩の姿をチラチラと目で追ってしまうようになったのだ。
体育の授業中、女子のコートでバドミントンをしている姿。
昼休みに自分の席で、一人静かに本を読んでいる姿。
ショートヘアから覗く白い首筋。
ふと視線を向けると、彩もこちらを見ていて、バッチリ目が合うことが何度もあった。
その度に、俺は誤魔化すように慌てて目を逸らしてしまう。
(……あの二人が付き合った後、俺たちはどうなるんだ?)
ずっと、喉の奥までその質問が出かかっていた。
でも、俺は結局、金曜日の放課後になるまでそれを口にすることができなかった。
「ただのクラスメイトに戻るだけだよ」――そんな当たり前の答えが返ってくるのが、どうしようもなく怖かったからだ。
そして、とうとう一条さんの告白の日は明日に迫っていた。
金曜日の帰り道。
俺と彩は明日の最終確認をしていた。
「明日は、海斗たちが集合する時間の少し前に、駅前の広場で待ち合わせでいいか?」
「うん、わかった。……いよいよだね」
彩が、少しだけ緊張したような、寂しそうな声で呟く。
「そうだな。明日で全部決まる」
楽しみな反面、これで本当に『メインカップルを見守る役目』が終わってしまう。
明日、海斗と一条さんが付き合うことになれば。
俺と彩の関係は、一体どうなってしまうんだろう。
不安と期待が入り混じった複雑な気持ちを抱えたまま、俺たちは明日の決戦に向けて、それぞれの家へと帰っていった。
――そして迎えた、土曜日の朝。
「……んん」
目を覚ますと、キッチンの方からトントンと小気味よくまな板を叩く音と、出汁のいい匂いが漂ってきた。
(……あれ? 俺、まだ寝ぼけてるのか?)
のそりとベッドから這い出し、リビングのドアを開ける。
そこには、当然のようにエプロン姿の彩がキッチンに立っていた。
昨日の帰り際、たしかに「駅前で待ち合わせ」と約束したはずなのに。
「あ、おはよう。渉くん」
「おま……なんで俺の家にいるんだよ。待ち合わせ、駅前だろ」
「合鍵、持ってるから。……決戦の前に、ちゃんと朝ごはん作ってあげようと思って」
お玉を片手に淡々と答える彩。
前に渡した合鍵を使って、当たり前みたいな顔で俺の日常に上がり込んできている。
文句めいたことを口にしてしまったが、実際のところ俺の顔はだらしなく緩みっぱなしだった。
朝起きて、こいつがキッチンにいて、美味そうなご飯の匂いがする。
その事実が、正直に言ってめちゃくちゃ嬉しい。
(……やっぱり、俺には無理だ)
この心地よくて幸せな日常を手放すなんて、どう考えてもできそうになかった。
第64話をお読みいただき、ありがとうございました。




