第57話:二本の歯ブラシと、匂わせ
「じゃあ、また明日な」
「うん。ありがとう、送ってくれて」
日曜日の夕暮れ。
彩の住むアパートの前まで送り届けると、彼女はカバンの紐をぎゅっと握りながら俺を見上げてきた。
「……気をつけて帰ってね。あの、家に着いたら、LINE頂戴」
「あ、あし。わかったよ」
いつになく素直な彩の言葉に少しドギマギしつつ、俺は手を振って彼女の家を後にした。
そこから自分のアパートまでの帰り道は、なんだかやけに遠く感じられた。
さっきまで隣にあった小さな温もりが急になくなったせいで、無性に肩のあたりがスースーする。
ガチャリと鍵を開け、暗い玄関に足を踏み入れる。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かって呟いてみたが、当然返事はない。
ついさっきまで彩がいて、一緒に豚の生姜焼きを食べて、笑い合っていた部屋。
それが今は、やけに広く、そして静かに感じられた。
(……あー、やっぱり寂しいな)
昼間にバイトが終わって俺の部屋に帰ってきた時、エプロン姿の彩が「おかえり」と言ってくれた。
あの瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなったのを覚えている。
でも、あれは決して当たり前のことじゃないんだ。普段は誰もいない暗い部屋に帰って、自分で明かりをつけるのが俺の日常なのだから。
手を洗おうと洗面所に向かい、電気をつける。
鏡の前には、さっき一緒に買ってきたばかりの水色のシャンプーボトルと、コップに立てられた青と白、二本の歯ブラシが並んでいた。
(……なんだよこれ。余計に意識しちゃうだろ)
たった一日、いや数時間一緒に過ごしただけなのに。
あいつが帰っただけで、なんで俺はこんなに部屋の静けさを負担に感じているんだ。
これまでは「一人で平穏に過ごすモブの日常」が一番だと思っていたのに、彩が残していった痕跡を見るたびに、胸の奥がギュッと締め付けられるような、むず痒いような変な気持ちになる。
(……だめだ。完全に俺、モブの枠をはみ出し始めてるな)
とりあえず「家着いた」とだけ彩にLINEを送り、俺は週末の「お泊まり」に向けて心を落ち着かせるよう努めながら、その日は早めにベッドに入った。
翌日、月曜日。
学校という日常空間に戻れば、少しは冷静になれるかと思っていた。
……が、その期待は朝一番から裏切られることになる。
「……え?」
アパートの階段を降り、エントランスのドアを開けて外に出ると、そこに見慣れたショートヘアの女の子が立っていた。
黒縁メガネの奥の目が、俺の姿を捉える。
「あ、渉くん。おはよう」
「彩……? 」
「やっほ。……一緒に行こうと思って、待ってた」
(待ってたって……)
「おう、おはよう……。じゃあ、行くか」
「……ん」
並んで通学路を歩き始める。
いつもなら学校や海斗たちのラブコメ展開について「一条さんのあの時の視線さ……」なんて気軽に話しながら歩くのに、今朝はとにかく会話が続かない。
「今日、ちょっと風強いな」
「……うん。そうだね」
「あ、足元、段差あるから気をつけろよ」
「……ん。ありがとう」
(いや、気まずい! というかお互いぎこちなすぎる!)
学校という日常の場所へ向かっているのに、俺と彩の間には『お揃いのシャンプー』と『洗面台の歯ブラシ』、そして『今週末のお泊まり』というとんでもない秘密がある。
そりゃあ意識するなという方が無理だし、ぎこちない対応になるのも当然だった。
「そりゃそうだろ」と心の中で自分に言い訳をしながら、俺たちは必要最低限の会話だけでなんとか校門をくぐった。
昼休み。
隣の席の海斗は、委員会の急な用事で先生に呼び出されていた。
俺は自分の弁当箱を持ち、彩と合流して昼食をとることにした。
いつも通り、遠巻きにクラスの様子を観察するための定位置だ。
「海斗、委員会の仕事長引いてるみたいだな」
「うん。お昼食べる時間あるといいんだけど」
彩は卵焼きを箸でつつきながら、淡々と答える。口調はいつも通りのクーデレだが、なんとなく俺と目を合わせないようにしているのがわかった。
そんな不器用な会話をしていると、ふいに「あ、佐藤くん、鈴木さん!」と明るい声が聞こえてきた。
「今日、ここ一緒に食べてもいい?」
現れたのは、学年一の美少女にしてこの現実世界のメインヒロイン、一条さんだった。
彼女は俺たちの返事を待たずに、手作りの可愛いお弁当箱を広げて向かいの席に座った。
「おう、別にいいけど……」
「一条さんのお弁当、今日も美味しそうだね」
「えへへ、ありがとう。あ、このおからハンバーグ、お母さんに教えてもらったんだー」
和やかに会話が始まる。
俺たちは裏方として、海斗のいない隙に少しでも一条さんのサポートをしてやろうと身構えた。
しかし、一条さんはお弁当のウインナーを頬張りながら、俺と彩の顔を交互にジッと見つめてきた。
「……ねえ。二人ってさ」
「ん? なに?」
「最近、なんか雰囲気変わったよね。なんていうか、すっごく仲良しっていうか……」
一条さんは少し身を乗り出し、悪戯っぽく笑ってとんでもない爆弾を落とした。
「もしかして、付き合ってるの?」
(ブフォッ!!)
俺は飲んでいたお茶を危うく吹き出しそうになり、必死に口元を押さえて咳き込んだ。
隣を見ると、彩も箸をピタッと止めて完全にフリーズしている。
(メインヒロインの勘、鋭すぎだろ! どんな観察眼!?)
俺がパニックになっていると、彩がコホンと一つ咳払いをして、いつもの平坦な声で答えた。
「……別に。気のせいじゃない? 私たちはただの友達だし」
「え〜? 本当に〜?」
「本当。ただ、趣味が合うから一緒にいるだけ」
彩は表情一つ崩さずに見事なクーデレ対応を見せた。……が、彼女の耳の先から首筋にかけて、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのを、俺も一条さんも見逃さなかった。
「ふふっ、そっかぁ。まあ、そういうことにしておいてあげる!」
一条さんは楽しそうに笑いながら、自分の弁当に戻った。
(……終わった。これ絶対にバレてるやつだ)
俺たちの立ち位置が、完全に崩壊の危機を迎えていた。
放課後の帰り道。
初夏の風が吹き抜ける中、俺たちは少しだけ距離を空けて並んで歩いていた。
「……一条さんに、完全に怪しまれたな」
俺がポツリとこぼすと、彩はジト目で俺を睨んできた。
「渉くんの態度が不自然すぎるからでしょ。お茶吹き出しそうになってたし」
「しょうがないだろ! 不意打ちだったんだから」
「私みたいに、冷静に対処しなよ」
「耳まで真っ赤にしてた奴が言うセリフかよ」
「……っ、あれは、しょうがないでしょ!」
彩は顔を赤くしてプイッとそっぽを向いた。
言い合いをしているようで、どうにも甘ったるい空気が漂ってしまう。
「……悪い。でも、無理もないだろ」
俺は夕日に染まる空を見上げながら、正直な気持ちを吐露した。
「……週末のことが頭から離れなくて、変に意識しちゃうんだから」
自称モブの俺らしからぬ、ストレートな本音。
それを聞いた彩は、ピタリと足を止めた。
俺も立ち止まって振り返ると、彩は少しだけ俯き、自分のカバンの持ち手を両手でぎゅっと握りしめていた。
「……私も」
「え?」
「私も……一緒だから。金曜日のことばっかり、考えちゃう」
消え入りそうな声で、だけどはっきりとそう呟いた彩の横顔は、夕日よりもずっと赤く染まっていた。
(……やばい。)
今日が月曜日。
お泊まりの約束は、今週の金曜日の夜だ。
あと四日。たった四日後の金曜日が来たら、俺たちのこの裏方という関係は、一体どうなってしまうんだろうか。
期待と、緊張と、抑えきれない高揚感。
俺たちは再び歩幅を合わせ、金曜日に向けて、ゆっくりと歩き出した。
第57話をお読みいただき、ありがとうございました。




