第56話:モブのお風呂場事情と、常備される歯ブラシ
時刻は十五時過ぎ。
アパレルショップを出た俺たちは、予想以上に服をたくさん買ってしまったため、荷物を置くために一旦俺のアパートへと戻ってきた。
「ふぅ……結構買ったな」
「うん。でも、いい買い物ができたね」
リビングの床にいくつかの紙袋を置き、一息ついたところで、彩が何かを思い出したようにポンと手を打った。
「あ、そういえば」
「ん? どうした。なんか買い忘れでもあったか?」
俺が首を傾げると、彩は俺の顔をじっと見て、さらりと言った。
「お風呂場、見せてもらってもいいかな」
「……は?」
(いや、なんでだよ)
唐突すぎる要求に、俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
女の子が男子の部屋のお風呂場を見たいなんて、普通言わないだろ。
「なんでだよ」
「だって来週、お泊まりでしょ。だから、渉くんがどんな石鹸とかシャンプー使ってるか気になっちゃって」
「いや、お風呂くらい家で入ってから来ればいいんじゃないの?」
俺が至極真っ当な提案をすると、彩はふるふると首を横に振った。
「夜遅いし、お風呂入った後に外歩いて湯冷めするの嫌だもん」
「……あー。まあ、確かにそれはそうだね」
五月とはいえ、夜風はまだ少し冷たい。
それに、女の子が夜道をお風呂上がりの無防備な状態で歩くのは危ない気もする。
完全に論破された俺は、渋々ため息をつき、「散らかってないと思うけど……」と言いながら彩をお風呂場へと案内した。
「……うん。見事に男の子のお風呂場だね」
浴室のドアを開け、中に並んだボトルを見た彩が呟いた。
そこにあるのは、ドラッグストアの特売コーナーに並んでいるような、一番安くて大容量の男物シャンプーとボディソープだ。
俺は匂いや成分に全くこだわりがないので、とにかくコスパ重視で選んでいる。
ただ、ニキビができるのだけは嫌だったので、洗顔料だけはそこそこの値段のやつを置いてある。
モブとしての最低限の身だしなみというやつだ。
「……やっぱり、私が使ってるのとは違うなー。当たり前だけど」
「そりゃそうだろ。シャンプーなんて星の数ほど種類あるんだし」
「ねえ、渉くん」
彩は浴室から顔を出し、俺を見上げて言った。
「どうせだったら、同じの使いたい」
「同じのって、シャンプーとか?」
「うん」
(同じ匂いになりたいってことか……?)
そんなラブコメみたいな思考が一瞬頭をよぎったが、全力で振り払う。
「まあ、別に俺はこだわりないし……。ちょうどボトルの中身も少なくなってきてたから、変えるのは全然いいよ」
「本当? じゃあ、そうしよう」
彩は満足げに頷くと、ふと洗面台の鏡の横に目を向けた。
「あとは……歯ブラシがないね」
「ないね。俺の一人暮らしなんだから当たり前だろ」
「じゃあ、今からドラッグストア行こうか」
こうして俺たちは、部屋に帰ってきて早々、再び駅前のドラッグストアへと足を運ぶことになった。
ドラッグストアのシャンプーコーナー。
ズラリと並んだ商品の中から、彩は少しだけ悩む素振りを見せた後、水色の綺麗なボトルを手にとった。
「これ、どうかな? 匂いもキツすぎないし、男女兼用で使いやすいと思うんだけど」
「お、いいんじゃないか。俺はよくわかんないから任せるよ」
(なるほど。高すぎもしないけど、安っぽくもない。彩は普段、俺と違ってこういうちょっとお洒落なやつを使ってるんだな)
彼女のプライベートな一面を垣間見た気がして、少しだけ新鮮な気分になる。
シャンプーとコンディショナー、それにボディソープをカゴに入れ、俺たちは日用品コーナーへと移動した。
「あとは歯ブラシだな」
俺はトラベル用品のコーナーに目を向けた。
「お泊まり用だったら、こういうケースに入ったやつがいいよな。小さい歯磨き粉もセットになってるし」
俺がプラスチックケースに入った携帯用の歯ブラシセットを指差すと、彩はなぜかため息をついた。
そして、普通の歯ブラシがズラリと並んだコーナーから、淡いブルーの持ち手の歯ブラシを一本手に取って、俺のカゴにポイッと放り込んだ。
「え、そっち? いや、お泊まりなんだから携帯用の方が……」
「そっちは遠出用でしょ」
彩は呆れたような目で俺を見て、そして、とんでもない爆弾をさらりと投下した。
「普通の歯ブラシなら、そのまま置いておけばいいじゃん。……また、泊まりに来るし」
「……っ!」
(また来るの!?)
俺の心臓が、本日何度目かわからない激しい警鐘を鳴らした。
一回きりのお泊まりイベントじゃなくて、今後も継続的に泊まりに来る宣言。
それはもう、完全に通い妻というか、半ば同棲の第一歩みたいなものじゃないか。
俺の脳内は、焦りと混乱が七割。
だけど、残りの三割くらいは、「また俺の部屋に来てくれるんだ」という、モブにあるまじき純粋な嬉しさが占めていて……その自分の感情に、さらに激しく動揺してしまう。
「……な、なるほどね。了解しました……」
俺が引きつった顔でカゴを持ち直すと、彩はプイッと視線をそらし、「……ん」とだけ小さく頷いた。
クーデレ特有の平坦な声だったが、その耳の先がほんのりと赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
レジに向かい、彩が財布を出そうとするのを俺は手で制した。
「あ、いいよ。俺が出す」
「え、でも私の歯ブラシとか……」
「俺バイトしてるし、どっちみちシャンプーとかボディソープは買い替えなきゃいけなかったからさ。これくらいは払わせてくれ」
俺が少しかっこつけて言うと、彩は少しだけ目を丸くした後、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「……そっか。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。ありがとう、渉くん」
お会計を済ませてドラッグストアを出た俺たちは、再び俺のアパートへと戻り、買ってきたシャンプーや歯ブラシを洗面台にセットした。
見慣れた殺風景な洗面台に、二つ並んだお洒落なシャンプーボトルと、青と白の二本の歯ブラシ。
それを見た瞬間、いよいよ本当に女の子が泊まりに来るんだという実感が湧いてきて、俺は密かにゴクリと息を飲んだ。
「じゃあ、荷物も置いたし……送っていくよ」
「うん。お願い」
夕暮れ時。
俺たちは、彩のアパートまでの道をゆっくりと並んで歩いた。
ペアルックの服も買った。お風呂の準備も整った。
来週末。
裏方のモブである俺にとって、過去最大級のラブコメイベントが、いよいよ幕を開けようとしていた。
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