第54話:久しぶりの「おかえり」と、モブの自覚
午後一時。
ピークタイムの忙しい時間帯を乗り切り、俺の今日のシフトが終了した。
朝の甘いイベントの影響か、今日の俺はなぜか仕事のキレがすこぶる良く、ホールもキッチンも余裕を持って回すことができた。
フロアの隅の席に彩がいるから、というのも少なからずある。
そんなに見られていると意識してしまうし、接客の合間にチラッとそちらを見ると、たまにバッチリ目が合ったりもした。
着替えを済ませてフロアに出ると、彩が座っていた席はもう空になっていた。
(……まあ、どこに行ったかは大体予想がつくけどな)
俺は少しだけ口角が上がるのを抑えながら、初夏の日差しの中、自分のアパートへと帰路についた。
ガチャ、と鍵を開けてドアを押し開ける。
三和土には、見慣れたローファーがきちんと揃えられていた。
「……やっぱりな」
俺が靴を脱いでいると、奥の短い廊下からパタパタと足音がして、ひょっこりと彩が顔を出した。
俺の部屋に置いてある、少し大きめのエプロンを身につけている。
「あ、渉くん。おかえり」
なんてことのない、日常のワンフレーズ。
だけど、親元を離れて一人暮らしを始めてから、自分が帰る場所で誰かに『おかえり』と言われるのは、本当に久しぶりのことだった。
誰もいない暗い部屋に帰って、自分で明かりをつけるのが当たり前の毎日。
そこに、明かりがついていて、温かい匂いがして、自分を待ってくれている人がいる。
(……なんだこれ)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
俺は少しだけ顔を伏せ、寂しさと嬉しさが入り混じったような、自分でもどんな顔をしているのかわからない表情で、ぽつりと返した。
「……ただいま」
俺が優しくそう言うと、彩はふわりと嬉しそうに微笑んだ。
「お昼ご飯、私が作るね。冷蔵庫にあるもの、適当に使っちゃうけどいい?」
「ああ、助かる。……ホールもキッチンも動き回って汗かいたから、ちょっとシャワー浴びてくるわ」
「うん。上がった頃にはできてるよ」
これから二人で服を探しに出かけるというのに、汗臭いまま行くのはマズい。俺はタオルと着替えを持って、浴室へと向かった。
シャワーを出し、お湯を頭からかぶる。
(……はぁ。なんか、すげぇな)
シャワーの音に混じって、薄いドアの向こうから、トントンと包丁がまな板を叩くリズミカルな音が聞こえてくる。
しばらくすると、ジュージューと何かを炒める音に変わり、換気扇を通してごま油と醤油の香ばしい匂いが漂ってきた。
(……こういうの、完全にラノベでよくある同棲とか新婚のイベントだよな)
朝の「行ってらっしゃい」からの、昼の「おかえり」。
そして手作りのご飯。
普段の俺なら「ラブコメかよ!」と全力でツッコミを入れて、ヒロインのペースに巻き込まれまいと必死にモブのバリアを張るところだ。
でも、俺の趣味は読書で、特にそういうラノベの甘い展開が大好物なのだ。
ツッコミを入れつつも、実は心の底では、こういうシチュエーションに憧れていなかったと言えば嘘になる。
(……なんだかんだ文句言ってるけど、俺、彩にめちゃくちゃ癒やされてるな)
シャワーに打たれながら、俺は素直にそう認めるしかなかった。
彼女が俺の部屋にいてくれるこの空間が、どうしようもなく心地いい。
モブとしての立ち位置とか、裏方の役目とか、そういうのを全部忘れてしまいそうになるくらいに。
シャワーから上がり、体を拭いて私服に着替える。
タオルでざっと髪を拭きながらリビングに入ると、小さなテーブルの上にはすでに二人分の昼食が並んでいた。
「あ、ちょうどできたよ。今日は豚の生姜焼き定食です」
「うお、マジで美味そう」
こんがり焼かれた豚肉に、千切りキャベツ。それにワカメのお味噌汁。
一人暮らしの男子高校生が一番喜ぶ、百点満点のメニューだった。
「いただきます」
二人で手を合わせて、生姜焼きを口に運ぶ。
甘辛いタレがしっかり絡んでいて、ご飯が無限に進む味だ。
「……美味い」
「よかった。ちょっと味濃かったかなって思ったけど」
「いや、これくらいが最高。」
俺がガツガツと白米をかき込むのを見て、彩はメガネの奥の瞳を細めて嬉しそうに笑った。
お腹を満たし、一息ついたところで時計を見る。
時刻は午後二時を回ったところだ。
「ごちそうさま。じゃあ、そろそろ行くか」
「うん! 渉くんの服、ビシッと選んであげるから覚悟して」
彩はエプロンを外し、気合十分といった様子で立ち上がった。
俺のメンタルは朝から削られっぱなしだが、美味しいご飯とシャワーの後のこの心地よい疲労感なら、悪くない。
俺たちは肩を並べてアパートを出て、いざ、ペアルックの服探しへと出発した。
第54話をお読みいただき、ありがとうございました。




