第47話:裏方と、意味深な「わかった」
五月五日、朝。
スマホのアラームで目を覚ますと、部屋の中はしんと静まり返っていた。
トーストの焼ける匂いもしないし、キッチンから包丁がまな板を叩くリズミカルな音も聞こえない。
どうやら今日は、彩が合鍵を使って勝手に上がり込んでいないようだ。
「……まあ、そりゃそうか」
ほっとしたような、でも少しだけ拍子抜けしたような気分でベッドから這い出る。
時計を見ると、もう十時を回っていた。
時間的に、海斗と一条さんはもう待ち合わせ場所で合流して、デートに向かっている頃だろう。
(あいつ、ちゃんと一条さんをエスコートできてるかな……)
変に緊張して無言になってないだろうか。一条さんの歩幅に合わせて歩いているか。俺のアドバイス通り、ちゃんと「一緒にいて楽しい」って言葉にして伝えているか。
裏方というより、もはや初めてのお使いを見守る親のような心境だ。
そんな余計な心配をしながら、俺は溜まっていた洗濯機を回し、適当に部屋の掃除を済ませた。
主人公たちのラブコメが進行している裏側で、モブはモブらしく地味な日常タスクをこなすのだ。
昼前。
俺は駅前のカフェに到着し、バックヤードでエプロンの紐を結んでアルバイトのシフトに入った。
ゴールデンウィークの後半戦ということもあって、店内はそこそこ混み合っている。
次々と入るオーダーを捌きながら、カウンターの中でコーヒーを淹れたりグラスを洗ったりと慌ただしく動いていた。
そんな中、カラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませー……」
マニュアル通りの声を出して入口へ顔を向けた俺は、思わず目を疑った。
そこに立っていたのは、彩だった。
(……なんで今日も来たんだよ)
『渉くんがいないなら見守りには行かない』って言ってたけど、だからって俺のバイト先に来るか普通。
俺は内心で盛大にツッコミを入れつつ、他のお客さんの手前、無難な顔を作って彼女をフロアの隅の席へ案内した。
今日は夕方の五時までガッツリとシフトが入っている。
連休中で忙しいから、お前の相手をしてる暇なんて一秒もないぞ。
そう目で訴えかけると、彩は「わかってる」とでも言うように小さく頷き、カバンから文庫本を取り出した。
結局、俺はそれから夕方までひたすら働きっぱなしだった。
フロアを歩き回りながらチラッと隅の席を見ると、彩は本を読んでいる……フリをして、たまにカウンターの中で働く俺の方をじっと見ている。
やりづらいことこの上ないが、忙しすぎて文句を言いに行く余裕すらなかった。
十七時。
ようやくシフトが終わり、バックヤードで着替えて外に出る。
彩のやつ、俺が上がる少し前にお会計を済ませて店を出ていったみたいだが。
「……お疲れ、渉くん」
「うおっ」
従業員用の裏口から出たところで、壁に寄りかかっていた彩が声をかけてきた。
「お前……帰ってなかったのかよ。ずっと待ってたのか?」
「……うん。送ってって」
彩は短くそう言って、俺の隣に並んだ。
本当にただ俺のバイトが終わるのを待っていただけらしい。
「はいはい、わかったよ」と渋々ため息をつきながらも、俺は昨日と同じように、夕暮れの道を二人で歩き始めた。
なんだかんだ言って、休日の終わりにこうして並んで歩くのが少しだけ嬉しく感じている自分に気づく。モブのくせに、俺もだいぶこいつのペースに絆されてきているらしい。
他愛のない話をしながら歩いているうちに、彩のアパートの前に着いた。
「じゃあな。」
俺が手を振って帰ろうとすると、彩がふと足を止めた。
「ねえ、渉くん。明日はバイト?」
「明日? 明日は午前中だけだぞ。昼過ぎには上がる」
「……そっか。わかった」
彩はそれだけ言うと、小さく手を振ってドアの向こうへ消えていった。
(わかったって、なんやねん……)
俺は首を傾げながら、自分のアパートへと帰路についた。連休中のバイトの疲れもあって、その日はベッドに入ると泥のように眠ってしまった。
そして、翌朝。
スマホのアラームより少し早く、俺は目を覚ました。
部屋の中に漂う、トーストの焼けるいい匂いと、卵を炒めるバターの香り。……デジャブだ。
「……まさか」
ワンルームの短い廊下を抜けてキッチンを覗き込むと、そこには。
「おはよう、渉くん。もう起きちゃった?」
エプロン姿の彩が、フライパン片手に振り返った。
(お前……昨日の『わかった』って、そういうことかよ!)
午前中しかバイトがないなら、朝ごはんは作りに来れる。そういう計算か。
「合鍵で勝手に上がり込むなよ。ここはモブの部屋であり、男の一人暮らしの部屋なんだぞ」
「はいはい。顔洗っておいで。冷めちゃうよ」
俺の文句をさらっとスルーして、彩は手際よくお皿に料理を盛り付けていく。
結局、俺は洗面所で寝癖を水で必死に直し、テーブルについた。
今日のメニューは、こんがり焼けた厚切りのバタートーストに、半熟のベーコンエッグ、それにサラダと淹れたてのコーヒー。
どこの純喫茶のモーニングだよ。
「いただきます」
「……どう?」
「……美味い。マジで美味い。ありがとう」
「ふふっ、お粗末様」
向かい合って朝飯を食う。
完全に同棲カップルの休日の朝だ。
なんで俺がこんなフラグを全力で回収してるんだか。
美味すぎるベーコンエッグを口に運びながら、俺は自分の立ち位置が完全にブレ始めていることを自覚せざるを得なかった。
食後。
俺たちは一緒にアパートを出た。俺のバイト先のカフェは朝から開いているため、そのまま出勤だ。
「じゃあな、俺は裏口から入るから」
「うん。また後で」
別れ際、彩が当たり前のように言った。『また後で』の意味を考える間もなく、俺は更衣室で急いで着替え、フロアに出た。
「おはようございますー」
店長に挨拶し、カウンターの中に入ってエプロンを締めた、まさにその時だった。
カラン、とドアベルが鳴る。
開店して間もない時間だ。最初のお客さんを案内しようと声を張り上げた。
「いらっしゃいませ……って、お前かよ」
そこには、ついさっきまで俺の部屋で一緒にトーストをかじっていたはずの彩が立っていた。
「一名です。奥の席、空いてますか?」
しれっと客の顔をして言う彩。
「……どうぞ」
俺は深いため息をつきながら、他のお客さんの邪魔にならないフロアの隅の席へ案内した。
結局、午前中のシフト中ずっと、彩はそこにいた。
アールグレイの紅茶を頼み、途中でクッキーやシフォンケーキを追加注文して、持参した文庫本を広げている。
……いや、絶対に本なんか読んでいない。
俺がグラスを拭いたり、他のお客さんのオーダーを取ったりしてフロアを動き回るたびに、黒縁メガネの奥の視線がチラチラと俺を追っているのがわかる。
(完全に観察されてるな、これ……)
主人公たちの恋を安全圏から観察して楽しむのが、俺たちの楽しみだったはずだ。
それなのに、いつの間にか俺自身が、特等席から相棒に観察される側になっていた。
「お待たせいたしました、シフォンケーキです」
「ありがとう、店員さん」
わざとらしく他人のフリをして微笑む彩。
「ごゆっくり」とだけ返し、俺は少しだけ顔が熱くなるのをごまかして、逃げるようにカウンターへ戻った。
主役二人のデートの行方も気になるが、モブである俺の平穏な日常も、相棒のせいでだいぶかき乱されているらしい。
お読みいただき、ありがとうございました。




