第33話:合鍵と、鈴木さんの気持ち
時計の針は、すでに午後六時を回っている。
窓の外はオレンジ色から深い群青色へと変わり始めていた。
「……もう夕方。そろそろ、帰るね」
「ああ、そうだな。……あ、ちょっと待って」
玄関へ向かおうとする彼女を呼び止める。
俺は自分のリュックをごそごそと探り、今日彼女に貸したのとは別の、予備の家の鍵を取り出した。
「これ、持ってていいよ」
「……え?」
鈴木さんが目を丸くして立ち止まる。
俺はその手のひらに、金属の鍵をそっと乗せた。
「今日みたいに、俺がバイト中で店が満席だった時、いちいち店の裏で鍵を渡すのも面倒だろ。……持ってれば、俺がいなくても勝手に入ってていいから。適当に本でも読んで待っててくれたらいいし」
俺が言うと、鈴木さんは手の中の鍵を見つめたまま固まってしまった。
「……いいの? こんな大事なもの……」
「今更だろ。鈴木さんのこと信用してるし、うちには盗られて困るような貴重品もないからな。戸締まりだけしっかりしてくれればいいよ。……あ、入る時は一応、メッセージだけ送ってくれると助かるけど」
俺が笑って言うと、鈴木さんは鍵を両手でギュッと包み込むように握りしめた。
メガネの奥の瞳が、少しだけ熱を帯びたように揺れている。
「……うん。……大事にするね」
夜の帳が下り始めた住宅街を、彼女の家まで送っていく。
昨日の「おんぶ」の余韻か、それとも鍵の重みのせいか。
二人の間には、昨日よりもさらに親密で、なんだかむず痒い空気が流れていた。
「じゃあ、また明日。……九時半に、俺の部屋で」
「……うん。また明日。おやすみ、佐藤くん」
小さく手を振り、彼女は自分の家の中へと消えていった。
◇鈴木さん視点◇
自室に戻り、部屋の明かりをつける。
バッグから真っ先に取り出したのは、佐藤くんの部屋の鍵だった。
冷たいはずの金属が、ぎゅっと握りしめていたせいで、じんわりと温かくなっている。
(……合鍵、もらっちゃった)
ベッドの端に座り込み、両手で顔を覆う。
胸の奥が、ジンと熱くて苦しい。
学校では図書委員として、誰の目にも留まらないように気配を消している私。
そんな私の本当の姿……私服にこだわりがあって、ラブコメが好きで、意外と寂しがり屋なところを、佐藤くんは全部受け入れてくれた。
佐藤くんと出かけるための服を選ぶ時間は、信じられないくらい楽しい。
彼が「似合ってる」と言ってくれた時の表情を思い出すだけで、顔が熱くなる。
今日の「カモフラージュの練習」だってそうだ。
バレないためなんていうのはただの言い訳で、本当はもっと彼にくっついていたかっただけだった。
お風呂に入って髪を洗いながらも、お湯の温度以上に顔が熱いのが分かった。
おんぶされた時の広い背中。
靴擦れに絆創膏を貼ってくれた、優しくて不器用な手先。
彼のことを考えるだけで、頭の中がいっぱいになる。
お風呂から上がり、髪を乾かしてから、クローゼットを開ける。
明日の服はどうしようか。
風間くんたちのデートを見守るのが本来の目的だけど、佐藤くんと一緒に歩くなら、やっぱり可愛いって思われたい。
悩んだ末に、白のゆったりした薄手のニットに、インナーパンツのついた黒のスカパンを選んだ。
これなら動きやすいし、いざという時に彼にくっついても不自然じゃない。
(……私、すっかり浮かれてる)
鏡に映る自分の顔を見る。
頬が赤くて、自分でも引くくらい口元が緩んでいるのが分かった。
佐藤くんへの気持ちを、もしパーセンテージで表すなら。
……きっと、もう八十パーセントは超えている。
あと少し、何かのきっかけがあれば、私はもう「友達」なんて言い訳をしていられなくなるだろう。
(……明日、晴れるといいな)
彼からもらった鍵をベッドのサイドテーブルに置く。
明日のことを考えると、緊張と期待で、なかなか寝付けそうになかった。
第33話をお読みいただき、ありがとうございます。
合鍵という名の信頼を受け取り、佐藤への想いが加速する鈴木さんでした。




