第30話:ぬいぐるみシールドと、夜道のおんぶ
西日が差し込むリビングで、俺たちは冷たいオレンジジュースを飲んで一息ついていた。
壁際のクッションに寄りかかる鈴木さんの置き部屋着姿は、俺の部屋にすっかり馴染んでいる。
彼女の隣には、先ほどゲームセンターで俺が取った大きなぬいぐるみが、ちょこんと鎮座していた。
「……さて、読書の時間だ」
冷たいグラスに水滴が光る中、鈴木さんがふっと表情を和らげてそう言った。
俺も「そうだな」と返し、お互いに持ってきたラノベを開いて、まったりとした休息の時間に入る……はずだった。
「……っ」
鈴木さんが姿勢を変えようと膝を立てた時、小さく顔をしかめて動きを止めた。
「ん? どうした?」
「……ううん、なんでもな……痛っ」
誤魔化そうとした彼女だったが、足を伸ばした拍子に再び顔を歪めた。
俺が手元の本を置いて彼女の足元を見ると、白い足首の少し下、かかとの部分が赤く擦り剥けているのが見えた。
「それ、靴擦れか?」
「……うん。でも、こんなに長く歩いたのは今日が初めてだから、少し擦れちゃったみたい」
「ちょっと待ってろ」
俺は立ち上がり、テレビ台の引き出しから小さな救急箱を取り出した。
除菌シートと絆創膏を手に、鈴木さんの足元に膝をつく。
「……平気。自分で貼れるから」
「いいから。消毒しないと。ちょっと染みるぞ」
俺は有無を言わさず、彼女の足首にそっと手を添えた。
ショートパンツから伸びる、ひんやりとして滑らかな素肌。
触れている手のひらから伝わってくる体温に、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
だが、ここで動揺を見せれば彼女も気まずくなる。
俺はポーカーフェイスを必死に保ち、除菌シートで軽く傷口を拭き、丁寧に絆創膏を貼った。
「……意外と、手際がいい」
頭上から、小さな呟きが降ってきた。
顔を上げると、鈴木さんは先ほどまで隣に置いていた大きなぬいぐるみを抱き上げ、顔の半分――鼻から下を完全に隠してしまっていた。
「……女の子の足に躊躇いなく触るとか、全然モブっぽくない。主人公のイベントみたい」
ぬいぐるみ越しに聞こえる声は、いつものクーデレなトーンを装いながらも、少しコミカルに俺をいじっている。
しかし、ぬいぐるみの横から覗く彼女の耳の先は、茹でダコのように真っ赤に染まっていた。
恥ずかしさに耐えきれず、大好きなキャラクターのぬいぐるみで『シールド』を張っているのだ。
(こいつ可愛いな…。)
俺は心の中で悶絶しながら、なんとか平静を装って苦笑した。
「悪かったな。バイトで立ち仕事してるから、靴擦れの手当てくらい慣れてるだけだよ」
そう言って救急箱を片付けようと立ち上がりかけた時、ぬいぐるみシールドの後ろから、少しだけ上目遣いの視線が俺を射抜いた。
「……今日の下見」
「ん?」
「……男の子と、初めて二人きりでお出かけしたけど。……悪くなかった」
クーデレ特有の遠回しな賛辞。
たったそれだけの言葉に、俺の胸の奥がギュッと締め付けられるように甘く疼いた。
「……おう。俺も、悪くなかったよ」
俺が少し照れくさく返すと、鈴木さんはぬいぐるみ越しに目を細め、コクリと頷いた。
それから一時間ほど本を読み、時計の針が午後六時を回った頃。
「そろそろ帰る」と鈴木さんが脱衣所で再び私服に着替え、玄関へと出てきた。
俺のパーカー姿から一転、またオフショルとミニスカートのお洒落な姿に戻った彼女だが、ブーツに足を入れる時の動きが明らかにぎこちない。
絆創膏を貼ったとはいえ、靴擦れを起こした足で硬いブーツを履いて歩くのは相当痛いはずだ。
「……よし、行くか」
俺は少し考えてから、一緒にアパートのドアを開けた。
外はもうすっかり日が落ちて、薄暗い住宅街にオレンジ色の街灯がポツポツと灯り始めている。
鈴木さんは俺の隣を歩き始めたが、やはり痛みを庇っているのか、歩くペースが普段の半分以下になっていた。
俺は少しだけ前を歩き、彼女の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「……佐藤くん? どうしたの?」
「ほら、乗れよ。おんぶしてやる」
「……えっ!? いや、高校生でおんぶなんて……目立つし、恥ずかしい」
鈴木さんが素っ頓狂な声を上げて後ずさる。
「誰も歩いてないって。それに、足痛いまま歩いて悪化でもしたら、本番の金曜日にちゃんと見守りできなくなるだろ」
「それは……そうだけど。でも……」
「いいから。ほら、早く」
俺が促すと、鈴木さんは少しの間モジモジと躊躇っていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……モブの背中に乗るなんて、なんか変な感じ」
そんな憎まれ口を叩きながらも、俺の背中にそっと体重を預けてきた。
俺は彼女の膝裏のあたりに手を回し、よいしょと立ち上がった。
その瞬間、俺の背中に、ふわりとした『柔らかい感触』が押し当てられた。
(……っ!? い、意外とあるんだな……!)
普段はゆったりした制服で気配を消しているし、今日のオフショルでもそこまで強調されてはいなかったが、密着してみるとはっきりと分かる女の子特有の柔らかさ。
俺は一瞬で顔から火が出そうになり、必死に深呼吸をして雑念を振り払った。
背中に感じる彼女の体温はとても温かく、そして、驚くほど軽かった。
首元に回された彼女の腕から、甘いシャンプーの香りが漂ってくる。
「……重くない?」
「全然。お前、もっと飯食った方がいいぞ」
「……余計なお世話」
夜の静かな住宅街を、俺は鈴木さんをおんぶしたままゆっくりと歩く。
靴音だけが響く空間で、背中越しに伝わってくる彼女の鼓動が、俺の心臓の音と少しずつ重なっていくような気がした。
「……ねえ、佐藤くん」
「なんだ?」
「……本番の風間くんも、一条さんにこれくらいできたら、ハッピーエンドなのにね」
俺の耳元で、鈴木さんが小さく、けれど優しく囁いた。
「……あいつが本番でそれくらいできたら、何も文句はないけどな。まあ、もしダメそうなら、何かあった時に俺たちでフォローしてやろうぜ」
「……うん。頑張らないとね」
やがて、彼女の家の少し手前、街灯の光が届きにくい場所で俺はしゃがみ、彼女をそっと下ろした。
「……送ってくれて、ありがとう」
スカートの裾を整えながら、鈴木さんが小さく頭を下げる。
「気にするな。……あ、そうだ。本番は明後日の五月一日、金曜日だよな」
「うん。……明日は、何してるの?」
鈴木さんが、少しだけ視線を泳がせながら聞いてきた。
俺は小さく笑って答える。
「午前中のバイト以外は、特に予定はないな。」
「……そっか。じゃあ」
鈴木さんは、抱えていた大きめのトートバッグ(中にはぬいぐるみが入っている)をギュッと握りしめ、上目遣いで俺を見た。
「……明日も、本、読みにいっていい? まだ途中だから」
「ああ。連休なんだし、いつでも来ればいいさ。」
「……うんっ」
鈴木さんは今日一番の、花が咲いたような笑顔を見せると、「また明日ね」と小さく手を振り、少しだけ足を引きずりながら自分の家へと入っていった。
誰もいなくなった夜道で、俺は一人、静かに帰り道を歩き始めた。
(……あれ? これって……モブじゃなくて、完全にラブコメ始まってないか……?)
主役たちを見守るはずだった俺のGWは、自分でも気づかないうちに、どうしようもないくらい甘い色に染まりきっていた。
第30話をお読みいただき、ありがとうございました。




