第23話:無防備な部屋着と、見極める瞳
パタン、と脱衣所の扉が閉まる音を聞きながら、俺はリビングで立ち尽くしていた。
ローテーブルの上には、さっきコンビニで買ってきた弁当とパスタが置かれているが、全く食欲が湧かない。
それどころか、心臓がうるさすぎて味が分かる気すらしなかった。
俺がこれまで鈴木さんと普通に話せていたのは、彼女のことを完全に『オタク趣味が合う男友達』と同じ枠で見ていたからだ。
お互いにラブコメの主人公たちを特等席から眺め、ニヤニヤしながら裏工作をする『同志』。
だからこそ、自分の部屋に呼ぶことも、適当な格好で会うことも平気だった。
でも、昨日のカフェで彼女の完璧な私服姿を見てから、俺の脳内バグは悪化の一途をたどっている。
同級生の、しかも実はめちゃくちゃ可愛い女子が、俺の部屋で着替えている。
そして、その部屋着は今後この部屋に「常備」される。
女の子の扱いなんてラノベの知識しかないモブの俺には、処理しきれないイベントだ。
「……落ち着け、俺。相手は同志の鈴木さんだぞ。変に意識したら気持ち悪がられる……」
必死に自分に言い聞かせていると、ガチャリと扉が開く音がした。
「……お待たせ」
俺はビクッと肩を揺らし、恐る恐る振り返った。
そこに立っていた鈴木さんの姿を見て、俺の思考は完全に停止した。
先ほどまでの、スリットスカパンに柄シャツというクールな私服とは全く違う。
上は、少しオーバーサイズで袖がダボッとした、薄手のグレーの長袖パーカー。
そして下は、ショートパンツとハーフパンツのちょうど中間くらい……太ももの真ん中より少し下あたりまでの長さの、黒いスウェットパンツだった。
春とはいえ、いくらなんでもラフすぎる。
パーカーの裾から伸びる白くて細い脚が、俺の視界に暴力的なまでのインパクトを持って飛び込んできた。
「お、おまっ……! ちょ、ストップ! そこで止まって!」
「……え?」
俺が両手を前に突き出して叫ぶと、鈴木さんは目を瞬かせて立ち止まった。
「い、いくらなんでも、それラフすぎないか!? というか、脚! 露出多すぎないか! 大丈夫なのかそれ!」
「……そう? もう春だし、これくらいがちょうどいい」
鈴木さんはパーカーの袖を指先でいじりながら、きょとんと首を傾げた。
俺は視線をどこに向けていいか分からず、天井の照明を睨みつけながら早口でまくし立てる。
「いや、季節の問題じゃなくてだな! ここ、一応男の部屋だぞ! 男友達の家に来る感覚なのかもしれないけど、俺だって健全な男子高校生で……っ」
「……大丈夫」
俺の言葉を遮るように、低くて落ち着いた声が響いた。
恐る恐る視線を戻すと、鈴木さんは真っ直ぐに俺を見ていた。
メガネの奥の、ガラス玉のように透明な瞳。
ただ無防備なだけじゃない。
俺がどう動揺して、どういう態度をとるのかを、じっと観察して見極めようとするような、射抜くような視線だった。
「……佐藤くんのこと、信用してるから」
「…………っ」
その言葉に、俺は完全にフリーズした。
「信用してる」という言葉の裏にあるのは、『佐藤くんは変なことをしない(できない)誠実な人だよね?』という確認にも聞こえたし、単に俺がヘタレだと見透かされているだけのようにも思えた。
彼女の真意は読めないが、俺が激しく動揺してタジタジになっているのを見て、鈴木さんの口元がほんの少しだけ、満足げに緩んだような気がした。
「……そ、そうかよ。じゃあ、弁当冷める前に食おうぜ」
「……うん。いただきます」
これ以上言葉を交わすと俺の容量が爆発しそうだったので、逃げるようにローテーブルの前に座った。
向かいに座る鈴木さんは、クッションの上にちょこんと正座をしてパスタを食べている。
膝を曲げているせいで、さっきよりも脚の白い肌が露わになっていて、俺は必死に弁当のハンバーグだけを凝視してやり過ごした。
昼食を終えた後は、昨日と同じようにラノベの読書タイムになった。
鈴木さんは壁際にクッションを引き寄せ、足を崩して壁に寄りかかりながら本を開いている。
俺も部屋の反対側、できるだけ彼女から距離を取った場所に座って本を開いたが、内容は一文字も頭に入ってこなかった。
「……ここの主人公、本当に鈍感。ヒロインがこんなに分かりやすくアピールしてるのに」
「あ、ああ、そうだな。そこがいいところでもあるんだけど……」
「……佐藤くんみたい」
「へっ!?」
不意打ちの一言に顔を上げると、鈴木さんは本から視線を外さず、淡々とページをめくっていた。聞こえなかったフリをするのが精一杯だった。
ダボッとしたパーカーに包まれた華奢な肩。本をめくるたびに揺れるショートヘア。そして、どうしても視界の端に入ってしまう脚。
こうして改めて見ると、彼女は本当に顔立ちが整っていて、スタイルもいい。
どうしてこの子は、学校ではあんなに気配を消して、地味な図書委員の『モブ女子』を演じているんだろうか。
ちょっとメイクしたり、見た目もっと明るくして学校に行ったら、間違いなく学年で噂になるレベルの美少女なのに。
(なんで学校では地味にしてるんだ……?)
純粋な疑問だった。聞いてみたい衝動に駆られる。
でも、聞けなかった。
俺は女の子の扱いに慣れていない、ただのモブだ。もしその理由を聞いてしまえば、彼女のパーソナルな領域に深く踏み込むことになる。
俺が彼女を「女の子」として猛烈に意識していることがバレてしまったら、今のこの『同志』という関係が壊れてしまうかもしれない。
せっかくできた共通の趣味を持つ友達が、気まずくなって離れていくのは、絶対に嫌だった。
だから俺は、湧き上がる疑問と激しいドキドキを心の奥底に封じ込め、再び手元のラノベに視線を落とした。
それから数時間。
西日が部屋に差し込み始め、時計の針が十七時を回った頃。
「……ん」
鈴木さんが小さく背伸びをして、本を閉じた。
「……そろそろ、帰る時間。暗くなってきたし」
「そうだな。お疲れ。着替えてきなよ」
鈴木さんが脱衣所で再びクールな私服に着替え終わるのを待ってから、俺は立ち上がった。
「送るよ」と声をかけると、彼女は嬉しそうに「ありがとう」と頷いた。
昨日とは違い、今日はお母さんからの「晩ご飯食べていく?」というお誘いイベントは発生しなかった(正直、俺の心臓が持たなかったので助かった)。
門のところで「今日はこれで」と挨拶をし、鈴木さんは「また明日、学校で」と小さく手を振って家の中へと入っていった。
鈴木さんを送り届けた帰り道。
俺はアパートの近くにあるスーパーに立ち寄った。
「明日の朝飯用のパンと……今日の夕飯は、適当に豚肉でも炒めるか」
特売の豚バラ肉とネギをカゴに入れながら、俺は一人で小さく息を吐いた。
昨日はあんなに賑やかで温かいご飯を食べたのに、今日はまた一人の食卓だ。なんだか急に、一人暮らしの自由さが寂しく感じてしまう。
買い物を終えて、自分の部屋に戻る。
鍵を開けてリビングの電気を点けると、そこにはいつもの殺風景な俺の部屋があった。
でも、昨日までと決定的に違うことが一つだけある。
俺の部屋のクローゼットの中には今、彼女が置いていったあのグレーのパーカーとショートパンツが、きちんと畳まれてしまってあるのだ。
「……マジで、どうなってんだよ、俺の日常」
買ってきた豚肉を冷蔵庫にしまいながら、俺は誰にともなく呟いた。
モブの平穏な生活は、あの柔らかい部屋着の持ち主によって、完全にペースを握られてしまっていた。
第23話をお読みいただき、ありがとうございました。




