第8話 奪われた名
採石場跡の入口は、山肌に空いた黒い裂け目のようだった。
昔は石を切り出すために開かれた場所なのだろう。入口の周囲には、割れた石材や錆びた道具が転がっている。だが、廃墟というには不自然に整っていた。
道がある。
人の足で何度も踏み固められた道だ。
入口の左右には古い石柱が立ち、その上に神殿の聖印が刻まれている。
立入禁止。
浄化区画。
呪病管理地。
そう書かれた札が、風もないのにかすかに揺れていた。
レオンは入口の前で足を止めた。
奥から冷たい風が流れてくる。
湿った石の匂い。
古い水の匂い。
そして、薄い鉄の匂い。
リュシアの表情が変わった。
彼女は剣の柄に手を置いたまま、入口を見つめている。
「知ってる場所?」
レオンが尋ねると、リュシアはすぐには答えなかった。
いつもの短い返事がない。
それだけで、答えは半分出ていた。
「……似てる」
やがて、彼女は言った。
「ここそのものは知らない。でも、匂いが似てる」
「匂い?」
「首輪をつけられた場所」
レオンは言葉を失った。
リュシアは自分の首に触れた。
そこにはもう奴隷印はない。
けれど、指先は何もない皮膚を確かめるように、ゆっくり動いた。
「暗い石の部屋。濡れた床。鉄の匂い。誰かが泣いてる声。私は……」
言葉がそこで止まる。
思い出したくないのではない。
思い出そうとすると、何かに引っかかる。
そんな止まり方だった。
レオンは彼女の横顔を見た。
「記憶にも、何かされてるかもしれない」
「分かる?」
「今はまだ。触れてみないと」
「触る?」
リュシアがこちらを見る。
その目には迷いがあった。
戦う時の彼女にはほとんど迷いがない。
だが、自分の中へ踏み込まれることには、まだ慣れていない。
当然だった。
彼女はずっと、他人に勝手に触れられ、縛られ、所有された側にいた。
レオンは首を横に振る。
「今はやめる。君が望んだ時だけにする」
「……解除できるなら、すぐやればいいのに」
「本人の心まで勝手に剥がすのは違う」
リュシアは黙った。
しばらくして、小さく頷く。
「なら、奥で必要になったら言う」
「分かった」
「でも、先に言っておく」
リュシアは入口の闇へ目を戻した。
「私が止まったら、置いていかないで」
「置いていかない」
「動けなくなったら?」
「引っ張る」
「あなたの力で?」
「そこは相談したい」
リュシアは少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、私もなるべく止まらない」
二人は採石場跡へ入った。
足元は石段になっていた。
元は作業員が使っていた道だろうが、今は神殿の術式で補強されている。壁には青白い灯りが等間隔に浮かび、奥へ進むほど空気は冷たくなった。
しばらく進むと、鉄格子の扉が現れた。
扉そのものは古い。
だが、中央に新しい札が貼られている。
選別区画。
搬送前処置室。
レオンは眉をひそめた。
「治療施設の言葉じゃない」
「人を物みたいに分ける言葉」
リュシアの声が硬い。
扉の向こうから、低い呻き声が聞こえた。
レオンは扉の術式を見る。
施錠。
外部侵入禁止。
内部脱走禁止。
発声制限。
名前識別停止。
その最後の一つに、嫌な気配があった。
「名前識別停止……?」
「何それ」
「中にいる人の名前を、外から認識しづらくする術式だと思う」
「どういう意味?」
「助けに来た人が、誰が誰か分からなくなる。連れていかれても、記録上は番号だけになる」
リュシアの瞳が冷えた。
「また番号」
彼女は処刑台で、罪人番号十七番と呼ばれていた。
その名残が、声に滲んでいた。
レオンは鉄格子に手を当てる。
中にいる人たちのものではない。
神殿が後から貼った鍵だ。
「解除」
鉄格子の札が裂け、扉が開いた。
中は広い石室だった。
壁際に、村人たちが座らされている。
十人ほど。
老人、若者、女、子供。
全員の首から、小さな木札が下がっていた。
そこに名前は書かれていない。
数字だけだ。
番号三十一。
番号三十二。
番号三十三。
木札から細い黒い線が伸び、首筋へ食い込んでいる。
村人たちは、こちらを見ても反応が薄かった。
疲れているだけではない。
何かを諦めさせられている目だった。
部屋の奥に、看守らしき男がいた。
太い腕。
革鎧。
腰には棍棒。
神官ではない。
雇われた監視役だろう。
男はレオンたちを見ると、驚きより先に舌打ちした。
「侵入者か。審問局の連中、何やってやがる」
リュシアが剣を抜いた。
男は棍棒を肩に担ぐ。
「おいおい、女剣士か。ここで暴れるなら、そいつらが痛むぞ」
彼が壁のレバーに手をかける。
村人たちの木札が、同時に黒く光った。
老人が呻く。
子供が肩を震わせる。
レオンは一歩前に出た。
「それ以上触らないでください」
「命令すんな、外れ職」
男はにやりと笑った。
「神殿から聞いてるぜ。解除士だろ。妙なものを外すんだとよ。だがな、ここにある札は神殿の正規管理札だ。外したら、中の連中は自分が誰かも分からなくなる」
村人たちが怯えたように木札を押さえる。
看守は楽しそうに続けた。
「名前ってのは大事だ。だから預かってる。こいつらが治療を終えるまでな」
「治療?」
リュシアが低く言う。
「ここにいる人たちは、治療されてるように見えない」
「見た目の話じゃねえ。神殿が治療だと言えば治療だ」
「便利な言葉」
「何とでも言え」
男はレバーを少し引いた。
村人の木札が光り、部屋中に呻き声が広がる。
リュシアが踏み出しかける。
レオンは手で制した。
リュシアの動きが止まる。
止められたことに苛立ちがある。
けれど、村人を人質に取られている以上、強引には動けない。
レオンは木札を見た。
番号。
発声制限。
自己認識鈍化。
外部記憶遮断。
名乗り禁止。
そして、所有権仮移転。
名前を奪っているわけではない。
名前へ手が届かないように、蓋をしている。
本人の奥には残っている。
だが、声に出せない。
周囲も思い出せない。
記録も番号になる。
人を消すには、首を落とすより先に名前を奪えばいい。
レオンは、そういう仕組みを見せられている気がした。
「その札は、名前を預かってるんじゃない」
レオンは言った。
「名前を隠してる」
看守の顔がわずかに歪む。
「だから何だ」
「人を番号にして運ぶために」
「荷は荷札をつけるだろうが」
リュシアの殺気が膨らんだ。
看守もそれを感じたのか、レバーを強く握る。
「動くなよ。こいつを引けば、全員の札が締まる。声も出せずに転がるぜ」
レオンは壁のレバーを見る。
命令装置。
木札の痛覚印と、発声制限を強めるためのもの。
ただ、レバーそのものは芯ではない。
部屋の中央にある石台。
そこに置かれた黒い箱。
そこから木札全部へ線が伸びている。
名前管理箱。
ひどい名前だ。
「リュシア」
「何」
「看守を止められる?」
「札は?」
「俺が剥がす」
「同時?」
「たぶん」
「たぶんは嫌い」
「俺も最近、嫌いになってきた」
リュシアは一度だけ息を吸った。
「三呼吸」
「分かった」
看守が眉をひそめる。
「何をこそこそ――」
一呼吸。
リュシアが床を蹴った。
看守が反応してレバーを引こうとする。
二呼吸。
レオンは黒い箱へ向かって走った。
足元の石に躓きかける。
それでも手を伸ばす。
三呼吸。
看守の棍棒がリュシアへ振り下ろされた。
リュシアは受けずに半歩沈み、男の手首を柄で打つ。
同時に、レオンの指が黒い箱に触れた。
箱から冷たい声のような術式が流れ込む。
番号化。
名乗り禁止。
家族関係遮断。
救出対象不明化。
搬送後記録消去。
本人の名は奥にある。
奪われてはいない。
ただ、厚い蓋をされている。
なら、その蓋だけを外す。
「お前たちの番号は、名前じゃない」
レオンは言った。
「解除」
黒い箱が割れた。
村人たちの木札に亀裂が走る。
番号三十一。
番号三十二。
番号三十三。
数字が剥がれ、黒い煙となって消える。
首筋に食い込んでいた線がほどけた。
最初に声を出したのは、小さな女の子だった。
「……ミア」
かすれた声。
けれど、確かに名前だった。
「私、ミア……ミルガ村の、ミア……!」
その声を聞いた途端、隣にいた女が泣き崩れた。
「ミア! ああ、ミア!」
老人が自分の胸を押さえる。
「わしは、トルマン……トルマンだ……番号ではない……」
若い男が震えながら立ち上がる。
「俺はハンス。妹を探してた。そうだ、妹を……!」
石室に名前が戻っていく。
番号ではなく。
荷ではなく。
治療対象でもなく。
人の名が、ひとつずつ戻っていく。
看守は目を見開いた。
「ば、馬鹿な。名前札まで外すのかよ!」
リュシアはその隙を逃さなかった。
棍棒を弾き、男の膝を蹴る。
看守が崩れる。
さらに剣の柄が顎を打ち、男は白目をむいて床に倒れた。
リュシアは剣先を男の喉元に置き、低く言う。
「荷じゃない」
返事はなかった。
気絶している。
それでも彼女は、もう一度言った。
「この人たちは、荷じゃない」
レオンは村人たちへ近づいた。
「動けますか」
老人のトルマンが頷く。
「足は……重いが、動ける」
「無理はしないでください。名前を隠す術式は剥がしました。でも、体力は戻っていません」
トルマンは自分の手を見つめた。
「名前を忘れかけておった」
「完全に忘れたわけではありません。隠されていただけです」
「では、思い出せるのか」
「はい」
その言葉に、石室のあちこちで小さな嗚咽が漏れた。
リュシアは黙ってそれを聞いていた。
その横顔に、レオンは違和感を覚える。
怒りだけではない。
痛みに似たものがある。
その時、石室の奥から、かすれた声がした。
「……リュシア?」
リュシアの体が固まった。
声の方を見る。
奥の壁際に、片腕を布で吊った男が座っていた。
髪は白髪まじりで、頬はこけている。
年は四十前後だろうか。
首から下がっていた木札は割れている。
だが、彼の目には、はっきりとした意志が戻っていた。
「リュシア・ヴァレン……なのか」
リュシアは息を止めた。
剣先が、わずかに下がる。
「……ガルド?」
男は笑おうとして、咳き込んだ。
「生きてたか……よかった」
リュシアは動かなかった。
いや、動けなかった。
レオンは初めて見た。
剣を持つ彼女が、敵を前にした時よりも深く揺れている姿を。
「知り合い?」
レオンが静かに尋ねる。
リュシアは答えない。
代わりに、ガルドと呼ばれた男が言った。
「灰鷹の傭兵団で、一緒だった。俺は副長のガルド。リュシアは、団で一番若い剣士だった」
灰鷹の傭兵団。
その名を聞いた瞬間、リュシアの指が剣の柄を強く握った。
「やめて」
小さな声だった。
ガルドは苦しげに目を伏せる。
「すまん」
「言わないで」
「だが、言わなきゃならない。お前は、何も悪くなかった」
リュシアの喉が動いた。
声は出なかった。
ガルドはゆっくりと語り始めた。
「俺たちは、ローデン男爵から護衛依頼を受けた。呪病患者を神殿の治療施設へ運ぶ馬車の護衛だと言われた。報酬は良かった。神殿印もあった。疑う理由は少なかった」
レオンは黙って聞いた。
ローデン男爵。
また、その名だ。
「でも、途中でリュシアが気づいた。馬車の中の連中は病人じゃない。縛られて、番号をつけられて、声を封じられていた。子供までいた」
リュシアの顔色が悪くなる。
記憶の蓋が、少しずつ開いているのだろう。
「私は……」
彼女はかすれた声で言った。
「止めた」
「ああ。お前は止めた。馬車を止めろと叫んだ。俺たちも中を見た。団長は依頼を破棄すると言った」
ガルドの声が震えた。
「その夜、神殿兵と男爵の私兵が来た。俺たちは反逆者にされた。団長は殺された。何人かは逃げた。何人かは捕まった」
リュシアは壁に手をついた。
「私は、団を裏切ったって……」
「違う」
ガルドは強く言った。
「お前が裏切ったんじゃない。俺たち全員が、神殿と男爵に裏切られた」
レオンはリュシアを見た。
彼女の首に、かつて奴隷印があった場所。
そこには今、何もない。
だが、目に見えない鎖はまだ残っていた。
自分が仲間を裏切った。
自分のせいで団が壊れた。
そう思い込ませるための、記憶の封印。
奴隷印と一緒に剥がれなかった奥の鎖。
リュシアが小さく首を振る。
「でも、私が馬車を開けたから」
「開けなければ、子供たちは運ばれていた」
「私が叫んだから」
「叫ばなければ、俺たちは知らずに荷を守っていた」
「私が……」
「リュシア」
ガルドの声が鋭くなった。
「お前は剣士だった。荷を守るためじゃない。人を守るために剣を抜いた」
リュシアの目から、音もなく涙が落ちた。
彼女自身も驚いたようだった。
すぐに袖で拭おうとして、手が止まる。
泣いてはいけないと体が覚えているのかもしれない。
レオンは、彼女の記憶に絡む術式を見た。
首元ではない。
胸の奥に近いところから、細い黒い線が伸びている。
罪悪感増幅。
記憶混濁。
仲間殺し誤認。
反論不能。
奴隷化受容。
ひどい術式だった。
人の後悔に寄生している。
完全な嘘だけではない。
彼女が馬車を開けたのは事実。
叫んだのも事実。
その後に仲間が死んだのも事実。
だが、責任の向きがねじ曲げられている。
彼女自身を縛るために。
「リュシア」
レオンは静かに言った。
「見えてる」
彼女は涙を拭い、こちらを見た。
「何が」
「君の記憶に、封印がある。全部は剥がせないかもしれない。君の後悔そのものは、君のものだから」
「うん」
「でも、押しつけられた罪なら剥がせる」
リュシアは目を閉じた。
長い沈黙。
石室の中にいる村人たちも、ガルドも、誰も急かさなかった。
やがて彼女は、剣を鞘に収めた。
「やって」
その一言は、命令ではなかった。
願いだった。
レオンは彼女の前に立つ。
触れていいか、と目で尋ねた。
リュシアは小さく頷く。
レオンは彼女の首元に指を近づけた。
肌には触れない。
その少し手前にある、見えない黒い結び目へ意識を伸ばす。
これは心を変えるものではない。
彼女の悲しみを消すものでもない。
死んだ仲間をなかったことにするものでもない。
ただ、誰かが勝手に結びつけた嘘の鎖を外すだけだ。
「君の罪じゃないものは」
レオンは言った。
「君が背負わなくていい」
黒い線が震える。
リュシアの呼吸が乱れた。
ガルドが祈るように目を伏せる。
レオンは結び目だけを掴む。
「解除」
リュシアの体が小さく震えた。
黒い線がほどけ、薄い灰となって消える。
彼女は両手で胸元を押さえた。
苦しそうに息を吸う。
それから、ゆっくり吐いた。
涙はまだ止まっていない。
けれど、目の奥にあった濁りが少し薄れた。
「……思い出した」
彼女は言った。
「団長が、逃げろって言った。ガルドが、私を押した。私は、扉を開けて、子供を外へ出した」
ガルドが頷く。
「ああ」
「私は、裏切ってない」
「裏切ってない」
「私は……奴隷になるために剣を抜いたんじゃない」
「そうだ」
リュシアは顔を上げた。
泣いている。
けれど、剣士の目だった。
「私は、人を守るために剣を抜いた」
その言葉は、レオンには解除できない。
誰にも奪えない、彼女自身のものだった。
石室の外で、鐘のような音が鳴った。
低い警報音。
看守が倒れ、名前管理箱が砕けたことで、施設の奥へ知らせが飛んだのだろう。
村人たちが怯える。
レオンはすぐに顔を上げた。
「急ぎましょう。ここから出ます」
ガルドが壁に手をつき、立ち上がろうとした。
片腕が使えず、足も震えている。
リュシアが彼を支えた。
「歩ける?」
「昔のお前ほど速くは走れん」
「今の私でも、無理はさせない」
「そりゃ困った」
ガルドは弱く笑った。
その笑いに、リュシアもほんの少しだけ表情を緩める。
レオンは石室の奥を見る。
出口は二つ。
来た道と、さらに奥へ続く通路。
来た道へ戻れば、村へ逃がせる。
奥へ進めば、連れていかれた人々の先がある。
両方は選べない。
いや、今は選べる形にしなければならない。
「リュシア」
「分かってる」
彼女は村人たちを見た。
「この人たちは外へ」
「奥は?」
「行く」
迷いはなかった。
だが、先ほどまでとは違う。
怒りだけで突っ込む目ではない。
自分で選んだ目だ。
ガルドがリュシアの腕を掴んだ。
「奥は危ない。あそこには、選別された者が送られる。俺も詳しくは知らないが、叫び声がする」
「だから行く」
「お前はもう逃げてもいい」
「逃げない」
リュシアは静かに言った。
「今度は、自分の足で入るって決めた」
ガルドは何か言いかけて、やめた。
そして、レオンを見る。
「解除士」
「レオンです」
「なら、レオン。こいつは昔から無茶をする」
「知ってます」
「止められるか?」
「たぶん無理です」
「なら、横にいてやってくれ」
レオンは頷いた。
「そのつもりです」
警報音が近づいてくる。
奥の通路から足音が響いた。
複数。
神殿兵か、看守か。
リュシアが剣を抜く。
レオンは割れた名前管理箱の中を見た。
まだ小さな術式片が残っている。
その中に、通路の扉を管理する鍵があった。
来た道へ戻る扉。
村へ続く出口。
奥へ続く封鎖門。
全部が繋がっている。
「外へ出る道を開けます」
レオンは村人たちへ言った。
「走れない人は支え合ってください。村まで戻れば、仲間がいます」
トルマンが頷く。
「恩に着る」
「名前を忘れないで」
老人は胸を張った。
「忘れん。わしはトルマンだ」
少女が母親の手を握る。
「私はミア」
若い男が妹の名を口にする。
「俺はハンス。妹を探す」
名前が石室に満ちる。
レオンは割れた箱へ手を置いた。
「もう番号で閉じ込めるな」
指先に力を込める。
「解除」
来た道の封鎖扉が開いた。
青白い灯りが外へ向かって伸びる。
村人たちは互いを支えながら動き出した。
ガルドも、トルマンに肩を借りて歩き出す。
リュシアがその背中を見る。
「ガルド」
男が振り返った。
「団長は」
ガルドは静かに首を横に振った。
「最後まで立ってた」
リュシアは目を閉じた。
「そう」
「お前に言えと言われた」
「何を」
「走れ。生きろ。剣を捨てるな」
リュシアの手が、剣の柄を握る。
今度は震えていなかった。
「分かった」
ガルドは頷き、村人たちと共に出口へ向かった。
足音が遠ざかる。
代わりに、奥から来る足音が大きくなる。
レオンは奥の通路を見た。
そこには、さらに厚い鉄扉がある。
扉の上には、神殿の聖印と黒い鎖の紋章。
搬送後処置区画。
関係者以外立入禁止。
リュシアが隣に立つ。
「行ける?」
「怖いけど」
「うん」
「行く」
「うん」
レオンは扉に手を当てた。
今までの扉より重い。
封印が幾重にも重ねられている。
発見者処分。
記録消去。
侵入者拘束。
証言者番号化。
そのすべてが、奥にあるものを隠すために張られていた。
リュシアが剣を構える。
「剥がして」
レオンは頷いた。
「解除」
鉄扉の封印が砕けた。
奥から、冷たい風が吹いた。
その風に混じって、人の声が聞こえる。
泣き声ではない。
祈りでもない。
誰かが、必死に自分の名前を呼んでいる声だった。
リュシアの目が鋭くなる。
レオンは職業札を握った。
奪われた名前を取り戻した人々は、外へ向かった。
まだ奥に残る者たちがいる。
番号にされ、運ばれ、記録から消されようとしている誰かがいる。
なら、やることは同じだ。
名を奪う札も。
人を荷にする箱も。
神殿が正しさの顔で貼った鎖も。
全部、剥がす。
二人は扉の奥へ踏み込んだ。




