第7話 呪われた村
林の奥へ進むほど、空気が重くなった。
木々の葉は濃い緑のままなのに、どこか色が沈んで見える。鳥の声も少ない。風が吹くたび、枝葉が擦れる音だけがやけに大きく響いた。
レオンは足を止め、首から下げた職業札に触れた。
赤い光はもうない。
職業凍結令は剥がした。
だが、銅札の奥に残った冷たさは消えていない。
神殿は、もうレオンを外れ職とは見ていない。
禁忌解除士。
あの呼び名が、まだ耳に残っていた。
「怖い顔」
先を歩いていたリュシアが振り返った。
「そんな顔をしてた?」
「してた」
「考え事をしてただけだ」
「あなたの考え事は、だいたい顔に出る」
「それ、直せるかな」
「解除できる?」
「できない」
「なら無理」
あっさり言われて、レオンは小さく息を吐いた。
リュシアの歩き方は、粉挽き小屋に入る前より少しだけ安定している。肩に残っていた異端指定の痛覚印を剥がしたからだろう。
もちろん、傷そのものが消えたわけではない。
それでも、余計な痛みを押しつけられていないだけで、人はずいぶん動けるようになる。
余計な痛み。
余計な鎖。
余計な罪。
ここ数時間で見てきたものは、どれもそれだった。
人が背負わなくていいはずのものを、誰かが正しい顔で背負わせている。
そして、神だの契約だの勇者だのと名前をつける。
レオンは奥歯を噛んだ。
リュシアが不意に手を上げる。
「止まって」
彼女の声が低くなった。
レオンはすぐに足を止める。
木々の先に、灰色の柵が見えた。
村だ。
だが、普通の村ではない。
村を囲む木柵の外側に、白い杭が何本も打ち込まれている。杭と杭の間には細い縄が張られ、そこに神殿の聖印を描いた札が吊るされていた。
村の入口には大きな板が立っている。
赤い字で、こう書かれていた。
呪病封鎖中。
神殿の許可なき立ち入りを禁ず。
村人との接触を禁ず。
脱走者は異端として処分する。
リュシアが目を細めた。
「ここ?」
「たぶん」
粉挽き小屋で見た審問局の通達。
近隣の呪病発生村への接近を阻止。
その文字が示していた場所だ。
レオンは白い杭を見た。
聖印の札。
封鎖縄。
村を囲む薄い膜のような結界。
そこに漂う魔力は、清浄とはほど遠かった。
「呪病って、どういう病?」
リュシアが尋ねる。
「教本には、呪いが病の形で出るものだと書かれていた。熱、痣、幻覚、衰弱。普通の治癒では治りにくい」
「本当にあるの?」
「あるとは聞いてる」
「ここは?」
レオンは杭に刻まれた術式を見た。
呪いを外へ出さないための封鎖。
そう見える。
だが、その下に別の線がある。
外へ出さないのではない。
内へ閉じ込めている。
村人の体に刻まれた反応を、村の中で循環させている。
症状維持。
脱走時悪化。
外部証言無効。
接触者忌避。
そして、村全体への罪状固定。
「また、違う」
レオンは呟いた。
リュシアが剣の柄に手を置く。
「本当の呪病じゃない?」
「少なくとも、この封鎖結界は治すためのものじゃない」
その時、村の中から子供の泣き声が聞こえた。
続いて、大人の怒鳴り声。
「やめてください! その子はまだ歩けます!」
「選別だ。神殿の命令に逆らうな」
レオンとリュシアは顔を見合わせた。
リュシアはもう走り出していた。
「待って」
「待たない」
「結界がある」
「じゃあ早く剥がして」
「順番が逆だと思う」
言いながらも、レオンは村の入口へ駆け寄った。
白い縄が行く手を塞いでいる。
触れれば、侵入者を異端として記録する術式が働く。
だが、その記録もまた神殿管理印を通じている。
神ではない。
人が作った檻だ。
「解除」
縄に吊るされた聖印札が裂けた。
薄い膜が一部だけ開く。
リュシアはその隙間を迷わず抜けた。
レオンも続く。
村の中へ入った瞬間、湿った薬草と腐った水のような匂いが鼻を刺した。
家々の戸は閉ざされ、窓には布がかけられている。道端には、白い布で腕を巻いた村人たちが座り込んでいた。
彼らの肌には、黒い斑点が浮かんでいる。
だが、斑点の形が不自然だった。
病の広がり方ではない。
同じ位置に、同じ形。
腕、首筋、胸元。
まるで、上から印を押されたような痣だった。
村の広場では、神殿兵が数人、村人を集めていた。
中央には、灰色の馬車。
その扉には鉄格子があり、すでに何人かの村人が押し込まれている。
子供もいた。
先ほど泣いていた声の主だろう。
十歳ほどの少年が、母親にしがみついている。
神殿兵がその腕をつかんだ。
「この子は神殿で治療する。離せ」
「治療なら、私も一緒に!」
「呪病患者の家族は村内待機だ」
「連れていかれた人は、誰も戻っていないじゃないですか!」
母親の声が広場に響いた。
周囲の村人たちが、怯えたように顔を伏せる。
神殿兵の後ろに立っていた男が、ゆっくりと振り返った。
黒い手袋。
灰色の法衣。
白い仮面ではないが、胸元には審問局の黒縁聖印がある。
粉挽き小屋で対峙したグラウスではない。
もっと若い男だ。
彼は手にした帳面を閉じ、冷たい声で言った。
「戻らないのではない。浄化が長引いているだけだ」
「嘘です!」
母親が叫ぶ。
「夫もそう言われて連れていかれました! 父も! 隣の娘も! 誰も帰ってこない!」
男は小さく息を吐いた。
「呪病は疑いによって悪化する」
彼が指を鳴らすと、母親の首筋の黒い斑点が光った。
母親が苦しげに膝をつく。
少年が泣き叫ぶ。
「お母さん!」
リュシアが前へ出た。
剣が抜かれる。
「やめろ」
神殿兵たちが振り返る。
若い審問官の目がリュシアを捉えた。
そして、すぐにレオンへ向く。
「……来たか」
まるで、待っていたような声だった。
レオンは広場へ踏み込んだ。
「その人に何をした」
「治療の妨げとなる興奮を鎮めただけだ」
「痛みで?」
「必要な処置だ」
「便利な言葉ですね」
若い審問官は冷ややかに笑った。
「私は審問局補佐官セイン。禁忌解除士レオン・アッシュフォード。君の接近は予測されていた」
リュシアがレオンの前に立つ。
「罠?」
「半分は」
レオンは村を囲む杭を見た。
広場。
馬車。
神殿兵。
補佐官セイン。
そして村人たちの体に刻まれた黒斑。
全部が、ひとつの術式で繋がっている。
村そのものが檻になっていた。
「ここは呪病の村じゃない」
レオンは言った。
村人たちが顔を上げる。
セインの目が細くなった。
「軽々しく断定するな。外れ職の分際で」
「その言い方、久しぶりに聞いた気がします」
「外れ職でなければ禁忌職。どちらにしても、君は神殿の管理下に置かれる」
「嫌です」
「拒否権はない」
セインが手を上げる。
神殿兵たちが一斉に槍を構えた。
リュシアが低く言う。
「何人?」
「兵は六人。審問官補佐が一人。馬車の中にもいるかも」
「倒せる数」
「君が?」
「あなたが邪魔しなければ」
「努力する」
神殿兵の一人が踏み込んだ。
リュシアの剣が槍を弾く。
二人目の兵が横から回る。
レオンを狙っている。
その動きは分かりやすい。
彼らの目的はリュシアを倒すことではなく、レオンを捕まえることだ。
槍の穂先がレオンの腕を狙う。
殺すつもりではない。
生け捕りだ。
レオンは槍の柄に巻かれた白布を見た。
審問局支給の捕縛印。
命中時、対象の職業札を一時硬直させる。
解除士対策。
「本当に、準備がいい」
レオンは半歩下がりながら、白布へ手を伸ばした。
「解除」
槍の白布がほどけ落ちる。
兵士の腕から力が抜けた。
そこへリュシアが戻り、剣の柄で兜を打つ。
兵士が倒れる。
「一人」
「数えなくていい」
「いる」
リュシアはそう言いながら二人目へ踏み込む。
踏み込みは鋭い。
だが、戻りがわずかに遅い。
傷と疲労は、まだ彼女の体に残っていた。
セインは動じなかった。
彼は広場の中央に立ち、帳面を開く。
「村民番号十二番、十三番、十四番。症状悪化」
彼が読み上げた瞬間、広場の隅にいた三人の村人が苦しみ出した。
首筋の黒斑が光る。
咳き込み、膝をつき、胸を押さえる。
村人たちが悲鳴を上げた。
リュシアの動きが止まりかける。
神殿兵がその隙を狙う。
レオンは叫んだ。
「リュシア、前!」
リュシアはぎりぎりで槍をかわした。
だが、頬に浅い傷が走る。
セインは淡々と言った。
「動けば村民の症状を進行させる。君たちが抵抗するほど、この村の患者は苦しむ」
母親がうずくまったまま、顔を上げる。
「やめて……」
少年が泣きながら母親を抱きしめる。
レオンの拳が震えた。
人質。
しかも、村人の病を人質にしている。
いや。
病ではない。
レオンは黒斑を見た。
村人の体に刻まれた印は、自然発生ではない。
村を囲む杭から細い線が伸び、村人の黒斑へ繋がっている。
さらに、セインの帳面がその線を操作している。
帳面。
杭。
黒斑。
馬車。
これが呪病の正体だ。
「リュシア」
「何」
「セインを斬るな。帳面もまだ壊さないで」
「理由」
「反動が村人に行く」
「じゃあ?」
「杭を剥がす」
リュシアは一瞬だけ村の外周を見る。
白い杭は村を囲んでいる。
数が多い。
「全部?」
「芯があるはず」
「早く見つけて」
「努力する」
セインが帳面に指を置いた。
「村民番号二十番。脱走傾向あり。拘束強化」
今度は、広場の端にいた若い男が悲鳴を上げた。
足首の黒斑から、黒い紐のようなものが伸び、地面に縫いつける。
「やめろ!」
村人たちが叫ぶ。
しかし誰も神殿兵へ向かえない。
黒斑が光れば、痛みが走る。
逃げれば悪化する。
疑えば悪化する。
逆らえば悪化する。
呪病ではない。
村人の行動を縛るための、病のふりをした檻だ。
レオンは広場の中央にある井戸を見た。
井戸の縁に、白い札が貼られている。
浄化水源。
神殿管理。
その札から、村全体へ術式が流れている。
杭ではない。
芯は井戸だ。
村人全員が飲む水に、薄く印を混ぜていた。
水を飲めば黒斑が出る。
黒斑が出れば呪病患者とされる。
患者は村から出られない。
出ようとすれば症状が悪化する。
そして、神殿が選別した者だけを治療と称して連れていく。
「見つけた」
レオンは井戸へ向かった。
セインの目が動く。
「止めろ」
神殿兵が一斉にレオンへ向かう。
リュシアがその前に入った。
剣が走る。
一人目の槍を弾く。
二人目の腕を柄で打つ。
三人目を足払いで転ばせる。
だが、六人全部は止めきれない。
一人が横を抜ける。
レオンは井戸の手前で、その兵と向き合った。
剣はない。
勝てない。
だが、兵の腕輪に迷いの線が見えた。
服従印。
審問局命令。
村民接触忌避。
対象を人ではなく感染源として見るための補助術式。
兵士の目は揺れている。
本当は、この村人たちを見ている。
苦しんでいる人間だと分かっている。
それでも、術式が「患者」「危険」「異端」と上書きしている。
「あなた、本当にこの人たちを刺したいですか」
兵士の槍が止まる。
「俺は……命令で……」
「なら、命令だけ剥がします」
レオンは腕輪に触れた。
「解除」
腕輪が外れた。
兵士の顔から、ぼんやりした膜のようなものが消える。
彼は周囲を見回し、苦しむ村人と、泣く子供を見た。
槍を下ろす。
「……俺は、何をしていた」
「まだ間に合います」
レオンは井戸へ駆けた。
セインが帳面に強く指を押し当てる。
「村民全体、症状進行」
広場のあちこちで黒斑が光った。
老人が倒れる。
子供が泣く。
母親がうずくまる。
リュシアの目に怒りが宿った。
「レオン!」
「分かってる!」
レオンは井戸の縁に手を置いた。
強い。
井戸そのものではない。
底に沈められた白い石。
そこから村全体へ術式が流れている。
浄化石。
そう呼ばれているのだろう。
だが、実際には呪印を薄く水に溶かすための核だ。
罪の水。
村全体への罪状固定。
症状維持。
選別移送。
地下搬送適性。
その言葉を読み取った瞬間、レオンは息を呑んだ。
地下搬送適性。
やはり、ここでも神殿地下が出てくる。
呪病の治療ではない。
連れていく者を選んでいる。
何のために。
答えはまだ見えない。
だが、ろくなものではないことだけは分かった。
「やめろ!」
セインの声が初めて乱れた。
「その井戸は、呪病を封じるための浄化核だ!」
「違う」
レオンは井戸の中へ手を伸ばす。
水は冷たい。
底から伸びる白い線が、指先に絡む。
村全体の黒斑と繋がっている。
雑に壊せば、反動が来る。
だから壊さない。
繋がりをほどく。
水を通じて押しつけられた罪の印だけを剥がす。
「これは、病じゃない」
レオンは言った。
「村を罪人にするための札だ」
井戸の底で、白い石が震えた。
「解除」
最初に消えたのは、痛みだった。
広場にいた村人たちが、戸惑ったように息を吸う。
次に、黒斑が薄くなった。
腕の印。
首筋の印。
胸元の印。
同じ形をしていた痣が、灰のように皮膚から剥がれ落ちる。
村を囲む白い杭が、一本ずつひび割れた。
吊るされていた聖印札が風に舞う。
封鎖結界が、音もなく消えていく。
井戸の水が一度だけ白く光り、それから透明に戻った。
村人たちは、自分の腕を見ていた。
黒斑がない。
痛みもない。
咳も止まっている。
ただし、衰えた体力までは戻っていない。立ち上がった村人たちは、互いに肩を貸し合いながら、それでも自分の足で地面を踏んでいた。
少年の母親が、震える手で首筋に触れた。
「消えた……」
老人が立ち上がる。
「足が……動く」
若い男が、地面に縫いつけられていた足を動かした。
「動く……!」
広場に、声が広がっていく。
奇跡だ、と誰かが言いかけた。
けれど、その言葉は途中で止まった。
空中に、隠されていた記録が浮かび上がったからだ。
呪病発生偽装計画。
封鎖対象、ミルガ村。
水源印付与。
村民症状維持。
脱走者悪化処理。
選別移送名簿。
神殿地下搬送予定。
村人たちは、その文字を読んだ。
読んでしまった。
静けさが落ちた。
それは、恐怖の静けさではなかった。
怒りが言葉になる直前の静けさだった。
セインは帳面を閉じようとした。
だが、帳面の表紙にも同じ文字が浮かび上がっている。
隠蔽印が剥がれたのだ。
「違う」
セインは言った。
「これは必要な管理だ。呪病という名目がなければ、村民は無秩序に移動し、汚染を広げる」
「汚染なんてなかった」
レオンは井戸から手を上げた。
水滴が指先から落ちる。
「あなたたちが作った」
「大義のためだ」
「誰の?」
セインは答えなかった。
リュシアが神殿兵を押しのけ、セインの前に立つ。
彼女の剣先が、帳面へ向いた。
「それで連れていった人は、どこ?」
セインは唇を結んだ。
「治療中だ」
リュシアの剣先が少し上がる。
「嘘」
セインの額に汗が浮かぶ。
「神殿に逆らうな。お前は再拘束対象だ」
言った瞬間、村人たちの視線がセインに刺さった。
先ほどまで呪病患者として膝をつかされていた者たちが、今は立っている。
腕に黒斑はない。
痛みもない。
そして、自分たちが病ではなく、縛られていたと知っている。
母親が少年を背に庇いながら、一歩前へ出た。
「返して」
その声は震えていた。
けれど、確かに前へ出た。
「連れていった人たちを返して」
老人も杖をついて前へ出る。
「わしの息子を返せ」
「妹を返せ!」
「治療だと言ったな!」
「誰も戻らない理由を言え!」
声が増える。
セインは後ずさった。
「黙れ! お前たちは呪病患者だ! 神殿の管理なしでは――」
「もう印はない」
レオンは言った。
「その言葉では縛れない」
セインの顔が歪む。
彼は帳面を開き、必死に指でなぞった。
「村民番号全体、再発――」
何も起きなかった。
帳面のページは白くなっている。
村人の黒斑も、井戸の核も、封鎖杭も消えた。
命令する先がない。
セインは初めて、恐怖の表情を浮かべた。
「なぜだ……審問局の管理術式だぞ……」
「管理術式だから剥がせた」
レオンは静かに言った。
「本当の病でも、本人の意志でもない。神殿が後から貼った鎖だから」
リュシアが剣の腹で、セインの手から帳面を叩き落とした。
さらに足を払う。
セインは地面に倒れた。
立ち上がろうとしたところへ、リュシアの剣先が喉元に置かれる。
「動かないで」
「貴様……奴隷の分際で……」
リュシアの目が冷えた。
「その言葉、まだ言うんだ」
セインが息を詰まらせる。
レオンは落ちた帳面を拾った。
表紙には審問局の黒縁聖印。
中には、村人の名前と番号が並んでいる。
連れていかれた者の欄には、同じ印が押されていた。
地下搬送済。
戻りの記録はない。
レオンの手に力が入る。
「レオン」
リュシアが呼んだ。
「今、無理して全部背負う顔」
「……顔に出るな」
「出る」
彼女は剣をセインに向けたまま言った。
「でも、これは背負うんじゃなくて、追う話」
レオンは帳面を閉じた。
その通りだった。
ここで苦しむだけでは、誰も戻らない。
剥がした後に、次を見なければならない。
村長らしい老人が近づいてきた。
顔色は悪いが、目には力が戻っている。
「解除士様」
「様はやめてください」
「では、レオン殿」
老人は震える手で、村の外を指した。
「あちらの旧道を進むと、北の採石場跡へ出ます。連れていかれた者たちは、いつもそちらの道を通っておりました」
「採石場跡?」
「昔は石を切っておった場所です。今は神殿が立ち入りを禁じております」
レオンとリュシアは目を合わせた。
神殿地下。
採石場跡。
繋がっている可能性は高い。
「分かりました」
レオンは頷く。
「ただ、すぐには行けません。村の封鎖は解けましたが、神殿兵がまた来るかもしれない」
すると、先ほど腕輪を剥がされた神殿兵が一歩前へ出た。
彼は槍を地面に置いた。
「俺が残る」
レオンは驚いて彼を見る。
兵士は苦い顔で言った。
「命令されていたとはいえ、俺はこの村を見張っていた。許されるとは思っていない。だが、次に審問局の連中が来たら、時間稼ぎくらいはする」
別の神殿兵も、迷いながら槍を下ろした。
「俺も……もう、病人だと思い込まされていたとは言えない」
リュシアは彼らをしばらく見ていた。
「信用はしない」
兵士たちは黙って頷く。
「でも、逃げなかったことは覚えておく」
それだけ言うと、彼女は剣を下げた。
レオンは村人たちへ向き直った。
「井戸の水は、今は大丈夫です。ただ、底にあった石の欠片は触らないでください。完全に砕けていますが、念のため埋めた方がいい」
村の男たちが頷いた。
細かく確認したいことは多い。
だが、今は長居できない。
必要なことだけを伝える。
この村は、もう病の村ではない。
あとは彼ら自身が立つ番だ。
母親が少年を連れて、レオンの前に来た。
「ありがとうございました」
少年も頭を下げる。
「お母さん、もう痛くないって」
「よかった」
レオンは少しだけ笑った。
すると少年が、不思議そうに尋ねた。
「お兄さんは、神殿の人じゃないの?」
「違う」
「じゃあ、何の人?」
答えに迷った。
外れ職。
解除士。
禁忌解除士。
神殿に追われる者。
どれも正しいようで、どれも少し違う。
リュシアが横から言った。
「剥がす人」
少年が目を瞬かせる。
「剥がす人?」
「うん。悪いものを」
レオンは少し困った顔をした。
「説明が雑じゃないかな」
「分かりやすい」
少年は小さく頷いた。
「じゃあ、連れていかれた人たちの悪いものも剥がして」
レオンは言葉を失った。
軽く言われた願いではない。
子供が本気で信じかけている願いだ。
全部できるとは言えない。
けれど、何もしないとも言えない。
「できる限り」
レオンはそう答えた。
「剥がしてくる」
少年は頷いた。
それで十分だと思ったように。
セインは縄で縛られ、村の広場に転がされていた。
縛ったのはリュシアだ。
相変わらず、結び目が容赦ない。
「痛い……手が……」
セインが呻く。
リュシアは冷たく見下ろした。
「痛いだけで済んでる」
どこかで聞いた言い方だった。
レオンが見ると、リュシアは少しだけ目を逸らした。
「何」
「いや、似てきたなと思って」
「誰に」
「俺に?」
「それは嫌」
「即答か」
短いやり取りの後、二人は村の北側へ向かった。
封鎖の札は、もう力を失っている。
白い杭は割れ、縄はただの縄になっていた。
村の外へ出る直前、レオンは振り返った。
村人たちはまだ不安そうだった。
それでも、家の戸が開き始めている。
窓の布が外され、光が家の中へ入っていく。
病の村と呼ばれて閉じ込められていた場所が、少しずつ普通の村に戻っていく。
それは派手な勝利ではない。
だが、確かな変化だった。
「行くよ」
リュシアが言った。
「うん」
二人は旧道へ入った。
道は北へ続いている。
採石場跡。
神殿地下。
連れていかれた村人たち。
そこには、今までより深い鎖がある。
レオンはそう感じていた。
だが、同時に分かっている。
どれだけ深くても、どれだけ綺麗な言葉で隠しても、誰かが後から貼った理不尽なら剥がせる。
奴隷印も。
救済契約も。
偽りの奇跡も。
借り物の勇者の加護も。
呪病という名の村ごとの檻も。
全部、剥がしてきた。
なら、次も剥がす。
リュシアが隣を歩きながら、低く言った。
「今度は、地下?」
「たぶん」
「暗い場所は嫌い?」
「好きではない」
「私は慣れてる」
「それは、あまりいい慣れ方じゃないな」
「うん」
リュシアは短く認めた。
そして、剣の柄に手を置く。
「でも、今度は私が入る。自分の足で」
その言葉は、誰にも命じられていなかった。
誰にも縛られていなかった。
だから、レオンには解除できない。
する必要もない。
「じゃあ、一緒に行こう」
「うん」
旧道の先で、山肌が黒く口を開けている。
採石場跡への入口だった。
その奥から、冷たい風が吹いてくる。
レオンは職業札を握り、前へ進んだ。
神殿が地下に隠したもの。
神殿が近づかせたくなかった村。
呪病の名で閉じ込められ、選別され、運ばれた人々。
その鎖の先を、今から見に行く。
剥がすために。




