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『外れ職《解除士》、勇者の加護も奴隷契約も全部まとめて無効化する~悪党の加護を剥がしたら、世界が俺に土下座した~』  作者: あちゅ和尚


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第6話 禁忌の解除士

 北の林にある古い粉挽き小屋は、思ったよりも静かだった。


 村の老人が言った通り、もう誰も使っていない。


 屋根は少し傾き、壁の板は何枚か外れ、水車は半分朽ちている。小屋の横を流れる細い水路だけが、かろうじて昔の形を残していた。


 扉には錆びた錠前が下がっている。


 レオンはそれを見て、少しだけ息を吐いた。


「これは普通の錠前だ」


 リュシアが横目で見る。


「普通だと何か違うの?」


「落ち着く」


「変な人」


「ここ数時間、普通じゃない錠前ばかりだったから」


 レオンは錠前に指を当てた。


 古い鉄の感触。


 ただ閉じるためだけの仕組み。


 人を縛るための呪いも、証言を封じる術式も、偽装契約もない。


 本当にただの鍵だった。


「解除」


 軽い音を立てて、錠前が外れた。


 リュシアが少し呆れた顔をする。


「それにも言うんだ」


「癖で」


「決め台詞みたい」


「やめてくれ。少し恥ずかしくなる」


 扉を押すと、埃の匂いが流れ出した。


 中には古い石臼と、破れた麻袋、干からびた木箱がある。窓は狭いが、外からは見えにくい。休むには十分だった。


 リュシアは中をひと通り確認してから、壁際に腰を下ろした。


 剣は膝の上。


 休む姿勢になっても、手は柄から離れない。


 レオンはそれを見て、少し言葉を探した。


「傷を見せてくれ」


「治せるの?」


「治せない」


「なら、なぜ?」


「血が出てるなら縛れる。呪いが残ってるなら剥がせる。できることと、できないことがある」


 リュシアはしばらく黙っていた。


 それから、左肩の布を少しずらした。


 白い肌に、青黒い痕がある。


 カイルの加護剣を受けた時のものだろう。


 斬れてはいない。


 けれど、痣の周囲に薄い白い線が残っていた。


 レオンは眉をひそめた。


「やっぱり残ってる」


「何が?」


「異端指定の痛覚印。傷そのものを悪化させるほどじゃないけど、痛みを長引かせる」


「勇者候補の剣で?」


「たぶん、加護に混ざってた」


 リュシアは小さく鼻を鳴らした。


「加護って、ろくでもない」


「本物は違うのかもしれない」


「見たことある?」


「ない」


「じゃあ今のところ、ろくでもない」


 否定できなかった。


 レオンは指先を痣の近くへ近づける。


「傷は治せない。でも、余計な痛みだけなら剥がせる」


「やって」


「痛かったら言ってくれ」


「痛いのは慣れてる」


「慣れなくていい」


 その言葉に、リュシアがわずかに目を伏せた。


 レオンは白い線に意識を集中する。


 これは治癒ではない。


 壊れた肉を繋ぐことも、失った血を戻すこともできない。


 ただ、他人が勝手に貼りつけた苦痛の印を外すだけだ。


「解除」


 白い線が細い煙になって消えた。


 リュシアの肩から力が抜ける。


 彼女は何度か腕を動かし、少し驚いた顔をした。


「軽くなった」


「よかった」


「本当に治したわけじゃない?」


「うん。無理をしたら普通に痛む」


「便利だけど、不便」


「よく言われる」


「誰に?」


「今、君に」


 リュシアは少しだけ笑った。


 それから壁に背を預け、ようやく目を閉じた。


 剣は膝の上に置いたままだが、呼吸が少しずつ落ち着いていく。


 レオンも反対側の壁に座り込んだ。


 全身が重い。


 走り続けた足は震えているし、鞭を掴んだ手のひらはまだ熱い。肩も脇腹も痛む。


 だが、眠ることはできなかった。


 目を閉じれば、処刑場が浮かぶ。


 首輪。


 契約魔法陣。


 広場の沈黙。


 倉庫で泣いていた少年。


 偽聖女にすがっていた母親。


 勇者候補に薬草を奪われそうになった子供。


 剥がせた。


 確かに剥がせた。


 けれど、そのたびに同じものが見えてくる。


 神殿の印。


 男爵の名。


 商会の契約。


 誰かが作った仕組みが、弱い人間へ向かって伸びている。


 一本切っても、別の場所に繋がっている。


「考えすぎ」


 目を閉じたまま、リュシアが言った。


 レオンは少し驚く。


「寝てなかったのか」


「寝ようとはしてる」


「邪魔した?」


「あなたの考えてる音がうるさい」


「そんな音はしない」


「顔がうるさい」


「初めて言われた」


 リュシアは薄く目を開けた。


「後悔してる顔じゃない。でも、全部背負おうとしてる顔」


 レオンは答えに詰まった。


 そんなつもりはない、と言おうとしてやめる。


 たぶん、見抜かれている。


「俺は、戦えないから」


「知ってる」


「はっきり言うな」


「事実だから」


「だから、せめて見えたものくらいは剥がしたいと思う」


 リュシアはしばらく黙った。


 そして、ぽつりと言った。


「剥がした後に斬る人もいる」


 レオンは彼女を見た。


「君のこと?」


「他にいる?」


「今のところ、いない」


「なら、勝手に一人で背負わないで」


 その声は、強くはなかった。


 けれど、命令でも契約でもない。


 彼女自身の意志だった。


 レオンは頷いた。


「分かった」


「本当に?」


「努力する」


「弱い」


「急には変われない」


「それは分かる」


 小屋の中に、短い静けさが戻った。


 だが、その静けさは長く続かなかった。


 レオンの胸元で、何かが熱を持った。


「……っ」


 彼は慌てて首から下げていた小さな銅札を取り出した。


 職業札。


 成人の儀で神殿から渡される、職業を示す札だ。


 そこには薄く、《解除士》という文字が刻まれている。


 外れ職。


 雑用職。


 誰にも羨ましがられなかった銅札。


 その札が、赤く光っていた。


 リュシアが即座に剣を取る。


「何?」


「職業札が反応してる」


「危ないもの?」


「普通は、こんなふうに光らない」


 銅札の表面に、白い文字が浮かんだ。


 神殿通達。


 職業凍結令。


 対象、レオン・アッシュフォード。


 職業、《解除士》。


 危険度、再判定中。


 神殿管理下における職能使用を禁ずる。


 違反時、異端職として封印処理を行う。


 レオンの指が冷たくなった。


「職業凍結令……?」


 リュシアが眉を寄せる。


「職業を凍らせるって、どういう意味」


「神殿が、職業札を通じて職能の使用を制限する命令だと思う」


「そんなことできるの?」


「普通はしない。犯罪者の魔術師や呪具職人に使うって聞いたことはある。でも、解除士に使うなんて……」


 言葉の途中で、銅札から白い鎖が伸びた。


 鎖はレオンの手首へ絡みつき、指先を冷たく縛る。


 視界の端で、世界の線がぼやけた。


 錠前の仕組み。


 術式の縛り目。


 いつもなら見えるものが、薄い霧に覆われていく。


 解除の感覚が遠ざかる。


 リュシアが立ち上がった。


「レオン」


「大丈夫」


「大丈夫じゃない顔」


 白い鎖はさらに伸び、レオンの喉元へ巻きつこうとする。


 職業停止。


 異端指定。


 職能封印。


 神殿への強制出頭。


 銅札から流れ込む言葉は、冷たく、整っていた。


 整っているからこそ、気味が悪い。


 これは怒りではない。


 処罰でもない。


 道具を箱に戻すための手続きだ。


 神殿は、レオンを人として見ていない。


 危険な機能として見始めている。


「外れ職じゃなかったのか」


 レオンは苦く笑った。


「便利な時だけ雑用扱いで、困ったら危険職か」


 鎖が喉に触れる。


 声が詰まりかけた。


 リュシアが剣で鎖を斬ろうとする。


 だが、刃は白い鎖をすり抜けた。


「斬れない」


「職業札から来てる。物理じゃない」


「なら、あなたが剥がして」


「今、それを封じられてる」


 リュシアの目が鋭くなる。


 だが、彼女には斬れない。


 この鎖は、レオン自身の職業に絡みついている。


 神殿の管理台帳。


 成人の儀。


 職業認定。


 外れ職という烙印。


 それら全部を経由して、彼の力を縛ろうとしている。


 レオンは歯を食いしばった。


 正面から押し返せば負ける。


 凍結令は神殿の正式術式だ。


 職業札に残された認可印を使い、持ち主の職能へ鍵をかける。


 だが、ふと気づいた。


 これは神の命令ではない。


 職業そのものを与えた力でもない。


 神殿が後から貼った管理印だ。


 つまり、借り物だ。


 レオンは震える指で銅札を握った。


 見えないなら、思い出せばいい。


 処刑場の首輪。


 倉庫の腕輪。


 偽聖女の聖布。


 勇者候補の太陽紋。


 どれも、綺麗な言葉で飾られた鎖だった。


 今、彼の手首にあるものも同じだ。


「俺の職業は」


 喉に巻く鎖を押し返しながら、レオンは言った。


「お前たちの所有物じゃない」


 銅札の奥に、黒い芯が見えた。


 神殿管理印。


 職業凍結令の鍵。


 そこだけを掴む。


「解除」


 白い鎖が砕けた。


 銅札が大きく震え、表面に走っていた赤い光が弾け飛ぶ。


 同時に、小屋の床へ白い文字が広がった。


 神殿審問局通達。


 対象レオン・アッシュフォードは、複数の神殿術式を無許可で解除。


 奴隷契約、証拠封印、巡回奇跡器、勇者候補補助加護への干渉を確認。


 通常の外れ職ではなく、禁忌解除士の疑いあり。


 生捕りを最優先。


 職能解析のため、神殿地下へ移送せよ。


 反逆奴隷リュシアは、再拘束または処分。


 その文字を読んだ瞬間、リュシアの瞳が冷たくなった。


「再拘束」


 短い声だった。


 レオンは銅札を握りしめる。


「やっぱり、神殿地下って出てくる」


 第3話の倉庫でも見た。


 カルド商会の契約文にも、捕らえた人々を神殿地下へ移送する予定があった。


 今度はレオン自身がそこへ送られる対象になっている。


 偶然ではない。


「禁忌解除士って何」


 リュシアが尋ねる。


「知らない」


「本当に?」


「少なくとも、普通の解除士の教本には出てこない」


「外れ職じゃないの?」


「神殿にとっては、外れ職のままでいてほしかったんだと思う」


 小屋の外で、枝が折れる音がした。


 二人は同時に息を止める。


 人の足音。


 複数。


 馬ではない。


 歩いて近づいている。


 リュシアが剣を抜く。


 レオンは床に浮かんだ文字を見た。


 神殿審問局。


 職業凍結令。


 生捕り。


 通達だけで終わるはずがなかった。


 扉の外から、低い声が響く。


「中にいるのは分かっている。解除士レオン・アッシュフォード、ならびに反逆奴隷リュシア。神殿審問局の名において出頭せよ」


 リュシアがレオンを見る。


「逃げ口」


「裏の窓」


「小さい」


「俺は通れる」


「私は?」


「たぶん……」


「たぶん?」


「剣を置けば」


「却下」


 扉の向こうで、別の声が言った。


「抵抗すれば、職業札を砕き、魂に封職鎖を打ち込む」


 レオンは顔をしかめた。


「魂って言えば怖いと思ってる」


「怖くないの?」


「かなり怖い」


「正直」


「でも、たぶん魂じゃない。そういう名前の拘束術式だ」


 リュシアは短く息を吐いた。


「なら剥がせる?」


「見えれば」


「じゃあ見せる」


 その瞬間、扉が内側へ吹き飛んだ。


 白い煙が小屋に流れ込む。


 中に踏み込んできたのは、灰色の法衣を着た男だった。


 年は四十前後。


 神官ほど飾りはない。


 だが、胸元には黒い縁取りの聖印がある。


 その後ろに、白い仮面をつけた兵が四人。


 剣ではなく、鎖つきの輪を持っている。


 奴隷の首輪に似ていた。


 だが、刻まれている術式はさらに複雑だ。


 灰衣の男は、冷たい目でレオンを見た。


「私は神殿審問官グラウス。君の職能は神殿の管理を逸脱した。よって保護する」


「拘束ではなく?」


「危険物の保護だ」


「人間扱いしてくれないんですね」


「人間でいたいなら、神殿の秩序に従うことだ」


 グラウスは指を鳴らした。


 仮面兵たちが一斉に鎖輪を投げる。


 リュシアが前に出た。


 最初の鎖を剣で弾く。


 二本目をかわし、三本目を足で踏む。


 だが、四本目が空中で曲がった。


 まるで生き物のように、レオンの首を狙う。


 リュシアが戻ろうとする。


 間に合わない。


 レオンは鎖輪を見た。


 拘束。


 職能封印。


 発声制限。


 指先固定。


 解除士対策。


 あまりにも分かりやすい。


 彼を捕らえるためだけに用意された道具だ。


「特注品か」


 レオンは手を伸ばした。


「解除」


 鎖輪が空中でばらけた。


 鉄の輪がいくつもの部品に分かれ、床に落ちる。


 仮面兵のひとりが動揺した。


 グラウスの眉がわずかに動く。


「やはり、凍結令を外しているか」


「俺の職業に勝手に鍵をかけたからです」


「神殿は職業を管理する」


「管理と所有は違う」


「同じだ。秩序の前では」


 グラウスが手をかざす。


 床に黒い魔法陣が浮かんだ。


 小屋全体を覆うように、細い鎖の模様が広がる。


 レオンは息を呑んだ。


 さっきの職業凍結令とは違う。


 これは小屋の中にいる者全員の動きを鈍らせる拘束陣だ。


 しかも、リュシアへ重点的に絡んでいる。


 元奴隷再拘束。


 逃亡履歴参照。


 所有権仮復元。


 まだ彼女を奴隷として扱うための術式。


 レオンの中で、冷たい怒りが燃えた。


「その言葉を使うな」


 グラウスは首を傾ける。


「何のことかな」


「所有権だ」


 レオンは床に手を置いた。


「彼女はもう、誰のものでもない」


「神殿記録上は未処理だ」


「なら、記録が間違ってる」


「記録こそ秩序だ」


「違う」


 レオンは魔法陣の芯を掴む。


 リュシアの首輪は砕けた。


 彼女自身が「今は一緒に行く」と選んだ。


 その意志には、何の鎖もかかっていない。


 だから、この術式は嘘だ。


「解除」


 床の黒い魔法陣が割れた。


 同時に、空中へ文字が浮かび上がる。


 元奴隷再拘束手順。


 首輪喪失時の代替所有権。


 証言者処分許可。


 処刑場事件隠蔽令。


 リュシアの目が細くなる。


「証言者処分」


 グラウスが初めて顔をしかめた。


「余計なものまで剥がす」


「隠してる方が悪い」


「だから危険なのだ、解除士」


 グラウスは懐から黒い釘のようなものを取り出した。


 釘の頭には、小さな聖印。


 だが、光はない。


 見ているだけで指先が冷えるような道具だった。


「封職釘」


 レオンは呟いた。


「知っているのか」


「今、見えました」


 封職釘。


 職業札ではなく、本人の魔力回路に直接打ち込み、特定の職能だけを封じる道具。


 犯罪者用という名目。


 実際は、都合の悪い職を黙らせるためのもの。


 グラウスは淡々と言った。


「君は殺さない。神殿地下で調べる価値がある」


「調べた後は?」


「必要がなくなれば、処理される」


「正直ですね」


「嘘で包む必要はない。君はもう、神殿の客ではなく資料だ」


 リュシアが動いた。


 仮面兵の間を抜け、グラウスへ斬り込む。


 だが、グラウスの周囲に透明な壁が立った。


 剣が弾かれる。


 仮面兵の一人が横からリュシアへ鎖を投げる。


 鎖は彼女の剣に絡みついた。


 リュシアは力で引きちぎろうとするが、鎖が剣を重くしている。


 グラウスがレオンへ近づく。


 黒い釘を構えた。


「抵抗しなければ、痛みは少なく済む」


「それ、悪党がよく言う言葉ですよ」


「秩序を守る者の言葉だ」


 レオンは後ろへ下がった。


 足が石臼に当たる。


 もう逃げ場はない。


 グラウスの透明な壁。


 仮面兵の鎖。


 リュシアを縛る剣絡み。


 封職釘。


 全部が、ひとつの術式で繋がっている。


 レオンだけを捕らえるための仕掛け。


 なら、芯もある。


 グラウス自身ではない。


 彼の胸元の黒縁聖印。


 審問官の権限証。


 そこからすべての拘束具へ命令が流れている。


「お前の権限」


 レオンは息を吸った。


 グラウスが釘を振り下ろす。


「借り物だろ」


 レオンは黒縁聖印へ手を伸ばした。


「解除」


 透明な壁が砕けた。


 仮面兵の鎖が一斉に力を失う。


 リュシアの剣に絡んでいた鎖も、ただの鉄鎖になって床へ落ちた。


 グラウスの黒縁聖印に亀裂が入る。


 彼の目が見開かれた。


「審問権限を……?」


「神の名じゃない」


 レオンは低く言った。


「人を資料扱いするための許可証だ」


 リュシアが踏み込む。


 剣の腹が、仮面兵の一人を打ち倒す。


 二人目の膝を蹴る。


 三人目の腕を柄で叩き、鎖輪を落とさせる。


 四人目がレオンへ走ろうとしたが、リュシアの剣先が喉元で止まった。


「動かないで」


 仮面兵は動かなかった。


 グラウスは割れた聖印を押さえながら、それでも膝をつかない。


 彼の目には怒りよりも、興味があった。


「なるほど」


 その声に、レオンは嫌なものを感じた。


「解除の射程は、対象に繋がる権限まで届く。職業凍結令も、審問官権限も剥がした。これは想定以上だ」


「逃げることより分析ですか」


「君は危険だ。だが、だからこそ価値がある」


 グラウスは懐から小さな黒い札を取り出した。


 リュシアが動くより早く、彼はそれを握り潰す。


 黒い煙が小屋に広がった。


 視界が潰れる。


「リュシア!」


「こっち」


 リュシアがレオンの腕を掴んだ。


 煙の中で、床が軋む。


 仮面兵たちの気配が遠ざかる。


 グラウスは逃げている。


 追おうとしたリュシアの足が止まった。


 レオンを煙の中に残すことを選ばなかった。


 やがて煙が晴れると、グラウスと仮面兵たちは消えていた。


 床には、割れた黒縁聖印の欠片だけが残っている。


 リュシアは舌打ちした。


「逃がした」


「こっちも助かった」


「あれはまた来る」


「うん」


 レオンは床に残った文字を見た。


 審問局。


 神殿地下。


 職能解析。


 禁忌解除士。


 それらの言葉は、先ほどよりも重く見えた。


 今までは、目の前の理不尽を剥がしてきた。


 首輪。


 契約。


 奇跡。


 加護。


 だが、神殿はもう、レオンの力そのものを剥がそうとしている。


 外れ職と笑っていた力を。


 今度は危険だからと封じようとしている。


「ねえ」


 リュシアが言った。


「怖い?」


 レオンは少し考えた。


 嘘をついても、たぶん彼女には分かる。


「怖い」


「うん」


「でも、腹も立ってる」


「そっちの方がいい」


「そうなのか」


「怖いだけなら逃げるしかない。腹が立つなら、剥がせる」


 リュシアらしい理屈だった。


 乱暴で、でも少しだけ頼もしい。


 レオンは笑いそうになって、やめた。


 小屋の外を見る。


 遠くで鳥が飛び立つ音がした。


 もうここにも長くはいられない。


 グラウスは逃げた。


 つまり、神殿審問局に情報が戻る。


 次はもっと強い拘束具が来る。


 もっと厄介な権限が来る。


 もしかすると、本当に解除できない相手も来るかもしれない。


「行こう」


 レオンは言った。


 リュシアが頷く。


「どこへ?」


 レオンは床に残った審問局通達の一部を見た。


 神殿地下へ移送。


 職能解析。


 禁忌解除士。


 その横に、小さな追記がある。


 近隣の呪病発生村への接近を阻止。


 対象が呪病封鎖へ干渉する可能性あり。


 レオンはその文を指でなぞった。


「近くに、神殿が近づかせたくない村がある」


 リュシアの目が少し細くなる。


「また関わるの?」


「たぶん」


「追われてるのに?」


「追われてるから、神殿が嫌がる方へ行く」


 リュシアは少し黙った。


 そして、剣を鞘に収める。


「悪くない」


「珍しく褒めた?」


「少しだけ」


「十分だ」


 レオンは銅札を首に戻した。


 そこにはもう、職業凍結令の赤い光はない。


 ただ、《解除士》という文字だけが残っている。


 外れ職。


 雑用職。


 危険職。


 禁忌解除士。


 呼び方は、勝手に変えればいい。


 それでも、この力が何のためにあるのかは、もう少しずつ分かってきた。


 神殿が隠したいもの。


 貴族が縛りたいもの。


 商人が騙したいもの。


 勇者候補が借りたいもの。


 それらを剥がすたび、誰かが息を取り戻す。


 ならば、進む。


 リュシアが小屋の外へ出る。


 レオンも続いた。


 朽ちた水車の横を抜け、二人は林のさらに奥へ向かう。


 背後に残った粉挽き小屋には、割れた審問官の聖印と、剥がされた職業凍結令の文字だけが残っていた。


 外れ職と笑われた解除士は、その日、神殿から別の名で呼ばれた。


 禁忌の解除士。


 それは恐れの名だった。


 だがレオンには、少しだけ別の意味にも聞こえた。


 神殿が恐れるほどの鎖を、彼は剥がせる。


 なら、剥がすべき鎖はまだある。


 

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