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『外れ職《解除士》、勇者の加護も奴隷契約も全部まとめて無効化する~悪党の加護を剥がしたら、世界が俺に土下座した~』  作者: あちゅ和尚


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第9話 封じられた証言

 鉄扉の奥は、冷たい廊下だった。


 壁も床も、白い石で塗り固められている。採石場跡の粗い岩肌とは違う。後から神殿が作り直した区画だ。


 天井に浮かぶ青白い灯りが、細長い影を床に落としていた。


 奥から声が聞こえる。


 何人もの声だ。


 泣いているのではない。


 叫んでいるのでもない。


 ただ、同じ言葉を何度も繰り返している。


「私は、ミルガ村のエダ」


「私は、ミルガ村のエダ」


「私は、ミルガ村のエダ」


 少し離れた場所から、別の声も聞こえた。


「俺は、ミルガ村のルーク」


「俺は、ミルガ村のルーク」


「俺は、ミルガ村のルーク」


 自分の名前を忘れないよう、必死に唱えている声だった。


 リュシアの指が、剣の柄を強く握る。


「名前を取り戻した人たちじゃない」


「まだ奥にいる人たちだ」


 レオンは廊下の壁に目を向けた。


 術式が走っている。


 発声監視。


 証言抑制。


 記憶摩耗。


 自己名反復反応。


 名前を完全に消す前に、本人が抵抗している。


 だから声が漏れているのだ。


 自分の名を、自分で押さえつけられないように繰り返している。


 リュシアが低く言った。


「急ぐ」


「うん」


 二人は廊下を進んだ。


 途中、壁にいくつもの小窓があった。


 中には狭い部屋があり、人がひとりずつ座らされている。


 椅子に鎖はない。


 だが、首から下げられた木札が椅子と繋がっていた。


 木札には数字。


 床には薄い魔法陣。


 その魔法陣が、人の声を吸い取るように光っている。


 ある部屋では、若い女がかすれた声で名前を繰り返していた。


「私は、エダ。母はミレイ。弟は……弟は……」


 そこで言葉が止まる。


 女は顔を歪め、必死に思い出そうとする。


「弟は……」


 魔法陣が青白く光った。


 女の目がぼんやりする。


「私は、番号四十六」


 その声は、先ほどまでと違っていた。


 平らで、感情がない。


 レオンの胸に冷たいものが落ちる。


「今、上書きされた」


 リュシアが小窓に手をかけた。


「開けて」


 レオンは頷き、小窓横の札に触れる。


 個別記憶処置室。


 名乗り訂正。


 家族記憶減衰。


 証言適性調整。


 救出時混乱防止。


 どの言葉も、吐き気がするほど整っている。


 整った言葉で、人の人生を削っている。


「解除」


 札が裂けた。


 部屋の扉が開く。


 リュシアが中へ入り、女の木札を外そうとする。


「待って」


 レオンはすぐに言った。


「木札だけ外すと、残った術式が記憶に食い込む」


「じゃあ、どうする」


「椅子と床が芯だ」


 レオンは魔法陣の中心に手を置いた。


 女はぼんやりした目でこちらを見ている。


「私は、番号四十六」


「違う」


 リュシアが言った。


「あなたはエダ」


 女の瞳がわずかに揺れた。


「エダ……?」


「母はミレイ」


 リュシアが続ける。


「弟がいる」


 女の唇が震えた。


「弟は……ニム……ニムだ……」


 レオンは魔法陣の結び目を掴む。


 名前を奪うだけではない。


 証言を使えなくする術式だ。


 誰に連れてこられたか。


 何を見たか。


 誰が命令したか。


 それを思い出そうとした瞬間に、名乗りの記憶ごと鈍らせる。


「人の口を塞ぐな」


 レオンは低く言った。


「解除」


 床の魔法陣が割れた。


 エダの木札が落ちる。


 彼女は両手で喉を押さえ、大きく息を吸った。


「私は、エダ……ミルガ村のエダ。弟はニム。母はミレイ。私は、井戸の近くで神殿兵に連れていかれた」


 そこまで言うと、彼女は泣き出した。


 泣けるほど、自分に戻ったのだ。


 リュシアは膝をつき、エダの肩に手を置く。


「動ける?」


「足が、少し……」


「外へ向かって。廊下を戻れば、先に出た人たちがいる」


「あなたたちは?」


「奥へ行く」


 エダは怯えた顔で奥を見た。


「奥には、証言の間がある。そこで皆、同意したことにされる」


「同意?」


 レオンが聞き返すと、エダは震えながら頷いた。


「病の治療のため、自分から神殿に身を預けました、と言わされる。言えない人は、声を取られる」


 リュシアの目が鋭くなる。


「声を?」


「話そうとすると、息が詰まる。助けてと言えなくなる」


 レオンは廊下の奥を見た。


 証言の間。


 嫌な名前だ。


 おそらく、ここが地下施設の中心の一つだ。


 連れてきた者の名前を削り、記憶を濁らせ、最後に「自分から来た」と証言させる。


 そうすれば、神殿は誰も攫っていないことになる。


 村人は自発的に治療を受けたことになる。


 戻らなくても、病が重かっただけになる。


「行こう」


 レオンは言った。


 リュシアが頷く。


 二人は廊下をさらに奥へ進んだ。


 途中、同じような部屋がいくつもあった。


 全部を丁寧に開ける時間はない。


 だが、廊下全体の術式は一つの芯に繋がっている。


 個別の部屋ではなく、奥にある大きな装置。


 そこを剥がせば、閉じ込められた人々の声は戻る。


 そう信じて進むしかなかった。


 廊下の終わりに、大きな広間があった。


 天井は高い。


 壁には神殿の聖印。


 床には円形の魔法陣。


 中央には黒い書見台があり、その上に分厚い書物が置かれている。


 書物の周囲には、十数人の人々が膝をつかされていた。


 村人だけではない。


 旅人らしい男。


 荷運びの女。


 年若い冒険者。


 服装も出身もばらばらだ。


 全員の口元に、白い紐のような光が巻きついている。


 その光の紐が、中央の書物へ繋がっていた。


 書物の前には、細身の男が立っている。


 白い法衣。


 銀の眼鏡。


 手には羽根ペン。


 神官というより、書記官に見えた。


 男はレオンたちを見ると、驚きもせずに微笑んだ。


「ようこそ、禁忌解除士」


 リュシアが剣を構える。


 男は羽根ペンを軽く上げた。


「私は神殿書記官オルヴェン。この地下施設の証言記録を管理しています」


「証言?」


 レオンは広間の人々を見た。


 皆、口を動かそうとしている。


 だが、声が出ない。


 白い紐が喉を締め、言葉を中央の書物へ吸い込んでいる。


 オルヴェンは柔らかく笑った。


「混乱した患者の言葉は、そのままでは証言になりません。病と恐怖によって、彼らは事実と妄想を取り違える。だから、神殿が正しく整えるのです」


「整える?」


「はい」


 オルヴェンは書物を撫でた。


「たとえば、彼らが『連れてこられた』と言えば、それは病による誤認です。正しくは『治療のため保護された』。彼らが『帰りたい』と言えば、それは症状による錯乱です。正しくは『治療完了まで神殿に身を委ねる』」


 リュシアの声が低くなる。


「嘘を、正しく書き換えてるだけ」


「言葉は扱い方次第です」


 オルヴェンは平然としていた。


「人々は感情で叫びます。神殿は秩序で記録する。それだけです」


 レオンは書物を見た。


 証言記録帳。


 ただの本ではない。


 広間にいる人々の声と繋がり、彼らが発しようとした言葉を吸い取り、神殿に都合のいい文へ変換する魔導具だ。


 証言封印。


 同意偽造。


 誘拐記録消去。


 自発的入所文作成。


 反論無効。


 そして、裁判提出用写し生成。


「これを使って、外の裁きも操ってるのか」


 レオンが言うと、オルヴェンは少しだけ目を細めた。


「外の裁き?」


「神殿や貴族が訴えられても、この帳面を出す。本人たちは自分から治療に来た。証言もある。だから問題ない。そういう仕組みですね」


「理解が早い」


「褒められても嬉しくない」


「でしょうね」


 オルヴェンは羽根ペンを広間の人々へ向けた。


「ですが、あなたがここで暴れれば、彼らの証言はすべて破棄されます。声も戻らない。名前も記録も失われる。あなたは、それを望みますか」


 リュシアが一歩踏み出す。


 白い紐が一斉に光った。


 広間の人々が苦しそうに喉を押さえる。


 リュシアは歯を食いしばって止まった。


「卑怯者」


「管理者です」


 オルヴェンは穏やかに訂正した。


「人質を取っているつもりはありません。彼らの証言は壊れやすい。乱暴に扱えば、二度と使えなくなる。それを警告しているだけです」


 レオンは床の魔法陣を見た。


 広間の全員が書物へ繋がっている。


 書物から壁の聖印へ。


 壁の聖印から、さらに外のどこかへ。


 おそらく、神殿の裁判記録庫か、審問局の本部。


 この場で書物だけを燃やせば、証言者の声が戻らないまま封じられる可能性がある。


 壊すのではない。


 変換だけを剥がす。


 声を吸い取る仕組みではなく、声を書き換える部分を外す。


 それなら、本人の証言は本人へ戻る。


「リュシア」


「何」


「書記官を近づけさせないで」


「倒していい?」


「殺さず」


「また?」


「殺すと、術式の緊急封印が走るかもしれない」


「面倒」


「うん」


「でも、やる」


 リュシアが床を蹴った。


 オルヴェンは慌てず羽根ペンを振る。


 床の文字が立ち上がり、細い紙片のような刃となってリュシアへ飛んだ。


 リュシアは剣で切り払う。


 だが紙片は切ってもまた形を戻す。


 記録紙の刃。


 斬られても、書き直される。


 厄介だ。


 リュシアは前へ出るのをやめ、横に滑った。


 紙片が彼女を追う。


 その間に、レオンは広間の中央へ走った。


 口元に白い紐を巻かれた人々が、目で彼を見る。


 助けて、と言いたいのだろう。


 だが、声は出ない。


 レオンは書見台に手を伸ばす。


 オルヴェンの声が飛ぶ。


「触れれば、全員の証言が白紙になりますよ」


 レオンの手が止まった。


 書物の表面に、確かに術式がある。


 不正接触時、証言白紙化。


 発声機能一時停止。


 記録者以外の閲覧禁止。


 証言者責任転嫁。


 触れただけで罠が発動するように作ってある。


 その罠も、証言者へ責任を押しつける仕組みだ。


「どこまで卑怯なんだ」


「慎重と言ってください」


 オルヴェンは紙片の刃を操りながら答える。


「証言は神聖なものです。外部の手による改ざんを防ぐ必要がある」


「改ざんしてる本人が言うのか」


 レオンは書物ではなく、書見台の脚を見た。


 台の下に、小さな銀の鎖がある。


 それが床の魔法陣に繋がり、書物を守っている。


 不正接触の罠は書物ではなく、台を経由している。


 なら、台から剥がす。


 レオンは膝をつき、銀の鎖に触れた。


 オルヴェンの笑みが消える。


「そこまで見えるのですか」


「見えます」


「それは困る」


 オルヴェンが羽根ペンを強く振った。


 紙片の刃が一斉にレオンへ向かう。


 リュシアが間に入った。


 剣で受ける。


 何枚かは切り払った。


 だが、一本が彼女の腕をかすめる。


 白い紙の刃が血を吸い、そこに文字が浮かんだ。


 反逆奴隷。


 再拘束対象。


 証言資格なし。


 リュシアの目が冷たくなる。


「また、その言葉」


 彼女は血のついた紙片を握り潰した。


「私は、リュシア・ヴァレン」


 その声は、広間に響いた。


 誰にも命じられていない。


 誰にも書き換えられていない。


 彼女自身の名乗りだった。


 白い紙片の刃が、一瞬だけ揺らぐ。


 レオンはその隙に銀の鎖を掴んだ。


 証言白紙化。


 発声封印。


 責任転嫁。


 証言者黙殺。


 全部、書物を守るためではない。


 神殿の嘘を守るためだ。


「お前たちの記録」


 レオンは奥歯を噛んだ。


「借り物の証言でできてるだろ」


 銀の鎖が震える。


「解除」


 鎖が砕けた。


 書物の表紙を覆っていた白い光が消える。


 同時に、広間の人々の口元に巻きついていた紐がほどけた。


 最初に響いたのは、叫び声ではなかった。


 息を吸う音だった。


 奪われていた声が戻る音。


 次に、一人の男が叫んだ。


「俺は自分から来たんじゃない!」


 続けて、女の声。


「神殿兵に連れてこられた!」


「夫を返して!」


「治療なんて受けてない!」


「名前を消されるところだった!」


 声が広間を満たした。


 今まで書物に吸い取られていた言葉が、一気に戻ってくる。


 オルヴェンの顔色が変わった。


「黙りなさい!」


 彼が書物へ手を伸ばす。


 レオンはその手より早く、開かれたページに触れた。


 今度は罠が動かない。


 守りの鎖は剥がした。


 ページの中には、書き換えられた証言が並んでいた。


 自発的治療同意。


 家族への連絡不要。


 神殿への身柄委託。


 治療中死亡時、神殿責任を問わず。


 その下に、薄く本来の言葉が残っている。


 助けて。


 帰りたい。


 家族に知らせて。


 連れていかないで。


 レオンは息を吸った。


「全部、戻します」


「やめなさい!」


 オルヴェンが叫ぶ。


「記録が混乱する! 裁判に使えなくなる!」


「使えなくなるのは、嘘の方です」


 レオンはページの奥にある変換術式を掴む。


 嘘を正しい文に見せる仕組み。


 本音を病の妄言にする仕組み。


 助けを求める声を、治療同意に変える仕組み。


「解除」


 書物が大きく開いた。


 ページから白い光が噴き上がる。


 広間の天井に、無数の文字が浮かんだ。


 それは、神殿が整えた証言ではなかった。


 本来の声だった。


 私は連れてこられた。


 私は同意していない。


 私の家族へ知らせてほしい。


 ローデン男爵の兵がいた。


 神殿の馬車だった。


 番号をつけられた。


 名前を奪われた。


 治療ではなかった。


 閉じ込められた。


 空中に浮かぶ文字を、広間の人々が見上げる。


 自分たちの声が戻っている。


 証言が戻っている。


 その事実に、涙を流す者もいた。


 廊下の方で、次々と錠前の落ちる音がした。個別処置室の扉も、証言記録帳と繋がっていたのだ。


 リュシアは剣を構えたまま、オルヴェンへ近づく。


 オルヴェンは後ずさった。


「待ちなさい。私はただ記録を整えただけです。命令は上から――」


「子供の声も整えた?」


 リュシアが言った。


「帰りたいって声も?」


「私は書記官です。命令された文を作るのが仕事で――」


「なら、あなたの仕事を剥がされた後に残るのは何?」


 オルヴェンの唇が震える。


 レオンは書記官の胸元を見た。


 銀の聖印。


 その裏に、記録改ざん権限が隠れている。


 彼個人の魔力ではない。


 神殿から与えられた権限。


 正しい記録を作るという名目で、事実を書き換える借り物の力。


「それも、剥がします」


 レオンが言うと、オルヴェンは顔を強張らせた。


「やめろ。これを失えば、私は書記官ではなくなる」


「記録を改ざんできなくなるだけです」


「同じことだ!」


 その叫びは、妙に情けなかった。


 リュシアが剣を下げない。


「違う」


 レオンはオルヴェンの聖印に手を伸ばした。


「本当の記録係なら、事実を書ける」


 銀の聖印が震える。


「解除」


 聖印が割れた。


 オルヴェンの周囲を漂っていた白い紙片が、一斉にただの紙へ戻り、床へ落ちた。


 彼の羽根ペンも、黒く焦げて折れる。


 同時に、彼の背後に隠されていた記録が浮かび上がった。


 証言改ざん件数。


 自発的同意偽造数。


 死亡処理済人数。


 家族通知不要処理。


 裁判提出用偽証書。


 その数字を見て、広間の空気が変わった。


 怒りだ。


 人々は弱っている。


 体力も戻っていない。


 それでも、目だけはもう伏せていない。


 オルヴェンは尻餅をついた。


「違う……私は、私は命令で……」


「命令だけで、人の声は消えない」


 レオンは言った。


「あなたが書いた」


 オルヴェンは答えられなかった。


 その時、広間の奥にある大扉が軋んだ。


 重い音。


 鎖が引きずられる音。


 リュシアが即座にレオンの前へ出る。


 大扉の向こうから、低い声が響いた。


「証言記録の封印が破損。処分工程を開始する」


 人間の声ではない。


 魔導具の声だ。


 広間の壁に赤い線が走る。


 床の魔法陣が再び光り始める。


 オルヴェンの顔に、歪んだ安堵が浮かんだ。


「終わりです。記録が危険と判断されれば、この区画は処分される。証言者も、侵入者も、すべて証拠ごと消される」


 リュシアが剣先を向ける。


「止めろ」


「私にはもう止められません。権限を剥がしたのは、あなたたちでしょう」


 レオンは赤い線を見た。


 証言者処分。


 証拠焼却。


 侵入者封鎖。


 区画崩落。


 地下の奥に繋がる大きな術式だ。


 今までのように一つの箱や本を剥がせば終わるものではない。


 だが、赤い線の中に一つだけ黒い芯がある。


 証拠を消すための起点。


 大扉の上にある黒い鎖の紋章。


 あれが処分工程を動かしている。


「全員、外へ!」


 レオンは叫んだ。


「走れる人は走ってください! 走れない人を支えて!」


 広間の人々が動き出す。


 声が戻った者たちは、互いの名を呼び合いながら出口へ向かう。


「エダは?」


「こっちだ!」


「ルーク、立て!」


「母さんを支えて!」


 名前が道標になっていた。


 リュシアは出口へ向かう人々の横で、襲ってくる紙片の残骸や小さな鎖を斬り払う。


 レオンは大扉へ走った。


 大扉の上の黒い鎖紋。


 そこへ手を伸ばすには高すぎる。


 リュシアが気づく。


「届く?」


「届かない」


「上げる」


「え?」


 返事をする前に、リュシアがレオンの腰を掴んだ。


 次の瞬間、体が浮く。


「ちょっと待っ――」


「待たない」


 リュシアはレオンを持ち上げ、石台の上へ押し上げた。


 勢い余って、レオンは書見台の端にしがみつく。


「雑!」


「早く!」


 正しい。


 文句を言っている暇はない。


 レオンは石台の上から大扉へ飛び移るように手を伸ばした。


 指先が黒い鎖紋に触れる。


 冷たい。


 今までの術式より、はるかに重い。


 これは単なる証拠隠しではない。


 施設全体の最終処理。


 証言者を消し、書類を焼き、崩落事故として処理するための大きな嘘だ。


 それでも、嘘だ。


 神の意志ではない。


 本人の誓いでもない。


 誰かが後から作った、都合の悪いものを消すための鎖だ。


「お前たちの裁き」


 レオンは歯を食いしばる。


「証人を消さないと成り立たないんだろ」


 黒い鎖紋が震える。


「解除!」


 大扉の上で、黒い鎖の紋章が砕けた。


 赤い線が止まる。


 壁を走っていた処分術式が、途中で途切れた。


 床の魔法陣も消える。


 広間に残っていた人々が、一斉に息を吐いた。


 レオンは石台から降りようとして、足を滑らせた。


 落ちる。


 そう思った瞬間、リュシアが受け止めた。


 正確には、半分受け止めて、半分床に落とした。


「痛い」


「生きてる」


「評価基準が低い」


「今はそれで十分」


 リュシアは短く言って、レオンを立たせた。


 オルヴェンは床に座り込んだまま、呆然と大扉を見ていた。


「最終処分まで……解除した……」


「まだ奥がある」


 レオンは息を整えながら言った。


 大扉の向こうから、別の気配が流れてきている。


 冷たい風。


 鉄の匂い。


 そして、祈りにも似た低い響き。


 リュシアが剣を構える。


「人を逃がしてから」


「うん」


 広間の人々は、ほとんど出口へ向かっていた。


 数人が振り返る。


 その中の一人、ルークと名乗っていた若い男が叫んだ。


「あなたたちは?」


「奥へ行きます!」


 レオンが答えると、男は唇を噛んだ。


「俺たちの証言、持っていけるか?」


 レオンは中央の書物を見た。


 証言記録帳。


 改ざんは剥がした。


 今なら、本来の証言が残っている。


 これを持ち出せれば、神殿の嘘を外で暴ける。


 だが、分厚く重い。


 今の二人が抱えて戦うには邪魔だ。


 すると、リュシアがオルヴェンを見下ろした。


「持て」


 オルヴェンが震える。


「私が?」


「書記官でしょ」


「権限は剥がされた……」


「腕は残ってる」


 リュシアの剣先が、書物を指す。


「本当の記録を運べ」


 オルヴェンは青ざめたまま、分厚い証言記録帳を抱えた。


 重さにふらつく。


 それでも、持てない重さではない。


 レオンは彼を見る。


「逃げようとしたら、証人全員が見ています」


 広間の人々の視線がオルヴェンに集まる。


 彼は喉を鳴らし、頷いた。


「……分かった」


 リュシアが出口側の人々へ言う。


「この男を連れて外へ。逃げたら縛って」


 ルークが頷いた。


「任せろ」


 証言記録帳を抱えたオルヴェンは、人々に囲まれて出口へ向かった。


 今まで声を奪われていた者たちが、声を取り戻し、証言を取り戻し、それを書き換えていた男を連れて歩いていく。


 それは、剣で斬るよりもずっと重い断罪に見えた。


 広間が空になっていく。


 残ったのは、レオンとリュシアだけ。


 そして、奥へ続く大扉。


 リュシアが静かに言った。


「証言は戻った」


「うん」


「でも、奥にまだいる」


「うん」


「行く?」


「行く」


 レオンは職業札を握った。


 指が震えている。


 恐怖はある。


 疲れもある。


 だが、もう止まれない。


 この地下には、人を番号にし、名前を隠し、声を書き換え、それでも足りなければ証人ごと消す仕組みがある。


 神殿は、それを治療と呼んだ。


 管理と呼んだ。


 証言と呼んだ。


 なら、次はその奥にあるものを剥がす。


 リュシアが隣に立つ。


「レオン」


「何?」


「顔がうるさい」


「また?」


「でも、悪くない」


 彼女は剣を構えた。


「今の顔は、剥がす顔」


 レオンは少しだけ笑った。


「じゃあ、行こう」


 二人は大扉を押した。


 重い扉が、ゆっくりと開いていく。


 奥には、広い地下空間があった。


 壁一面に、鎖。


 床一面に、魔法陣。


 その中央に、巨大な黒い鐘のようなものが吊るされている。


 鐘の表面には、数え切れないほどの名前が刻まれていた。


 いや。


 名前だったものが、削られて、番号に変わりかけていた。


 レオンは息を呑んだ。


 ここが、もっと奥の芯だ。


 村人たちを呪病にし、名前を奪い、証言を封じ、地下へ運んだ理由。


 まだ全貌は見えない。


 だが、黒い鐘から伸びる鎖の先に、今まで見たすべての術式が繋がっていた。


 リュシアが低く言う。


「大きい」


「うん」


「剥がせる?」


 レオンは黒い鐘を見上げた。


 怖い。


 正直に、怖い。


 それでも、鐘の表面に刻まれた名前の残骸が、かすかに震えているのが見えた。


 まだ消えていない。


 まだ、戻れる。


「剥がす」


 レオンは答えた。


 黒い鐘が、低く鳴った。


 

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