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『外れ職《解除士》、勇者の加護も奴隷契約も全部まとめて無効化する~悪党の加護を剥がしたら、世界が俺に土下座した~』  作者: あちゅ和尚


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第3話 救済契約

 森に入ってから、鐘の音は遠くなった。


 それでも、完全に消えたわけではない。


 風向きが変わるたび、街の方から警鐘がかすかに届く。


 外れ職の解除士を捕らえろ。


 反逆奴隷を殺せ。


 そんな声まで、木々の間を抜けて追ってくるようだった。


 レオンは肩で息をしながら、ぬかるんだ獣道を進んでいた。


 森の中は薄暗い。


 頭上の枝葉が朝日を遮り、足元には濡れた落ち葉が積もっている。


 街道から外れた道を選んだせいで、人目は避けられている。


 その代わり、歩きにくさはひどかった。


「遅い」


 前を行くリュシアが振り返った。


 彼女は裸足に近い足で、木の根を避けながら軽く進んでいる。


 首輪を外されたばかりで、体中に傷があるはずなのに、動きだけならレオンよりずっと安定していた。


「分かってる」


 レオンは枝を手で払いながら答えた。


「何度も言わなくても分かってる」


「分かってるなら、足を上げて」


「上げてる」


「上がってない」


「君の基準が高いんだと思う」


「あなたの基準が低い」


 その言い方は冷たい。


 けれど、処刑台の上で聞いた声よりは少しだけ人間らしかった。


 レオンは苦笑しようとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。


 さっき裏門を抜ける時、転びかけて石壁にぶつけたところだ。


 リュシアが足を止める。


「痛む?」


「少し」


「少し、の顔じゃない」


「解除士は我慢も下手でね」


「自慢にならない」


 リュシアは短く言ってから、自分の腰布を裂いた。


 その布でレオンの手首を軽く縛る。


「え」


「引く」


「犬みたいに?」


「犬はもっと素直」


「助けてもらってる立場だけど、少し傷つくな」


 リュシアは答えず、布の端を握って歩き出した。


 レオンは引かれるまま進んだ。


 奇妙な形だった。


 つい半刻前まで、彼女は首輪に縛られていた。


 今は彼女が、レオンの手首に布を巻いている。


 けれど、そこに支配の感触はなかった。


 引かれるたび、レオンは転ばずに済んだ。


 しばらく進むと、水音が聞こえた。


 細い川だ。


 森の奥から流れ、街道の方へ向かっている。


 リュシアは水辺で膝をつき、手で水をすくった。


 飲む前に、わずかに匂いを嗅ぐ。


「大丈夫そう」


「毒を見分けられるのか?」


「奴隷にされる前は、傭兵団にいた」


 初めて聞く過去だった。


 レオンはそれ以上聞こうとして、やめた。


 リュシアは自分から言った分だけで十分だと思っている顔をしていた。


 二人は川の水を飲んだ。


 冷たさが喉を通って、ようやく体が少し戻ってくる。


 その時だった。


 森の向こうから、甲高い悲鳴が聞こえた。


 子供の声だ。


 リュシアの目が変わる。


 疲れも痛みも、その一瞬だけ消えたようだった。


「近い」


 彼女は剣を取った。


「待って。追手かもしれない」


「だから?」


「いや、だから慎重に」


「悲鳴があった」


 リュシアはそれだけ言って、音の方へ走り出した。


 レオンは一拍遅れて追った。


 やはり速い。


 ついていくのが精一杯だった。


 木々が途切れた先に、小さな川沿いの建物が見えた。


 古い倉庫だった。


 石造りの壁に、鉄の扉。


 元は街道沿いの荷置き場だったのだろうが、今は窓に板が打ちつけられ、周囲に柵が巡らされている。


 柵の中には、十数人の人々がいた。


 痩せた男。


 子を抱く女。


 老人。


 まだ幼い少年。


 全員の手首に、灰色の腕輪がつけられている。


 奴隷の首輪ではない。


 けれど、似た匂いがした。


 柵の中央で、少年が地面に倒れていた。


 その前に、派手な服を着た男が立っている。


 丸い腹。


 油を塗ったような黒髪。


 指には金の指輪。


 男は手に細い鞭を持っていた。


「まったく、逃げようとするから痛い思いをするのです」


 男は穏やかな声で言った。


 その穏やかさが、かえって気味悪かった。


「私はあなた方を救っているのですよ。街は異端騒ぎで封鎖される。神殿の審問に巻き込まれれば、無事では済まない。そこを、このカルド商会が保護して差し上げるのです」


 少年が腕輪を押さえてうずくまる。


 母親らしい女が駆け寄ろうとしたが、柵のそばにいた護衛が槍で止めた。


「お願いです、カルド様! その子はまだ十歳です!」


「十歳なら、十分に働けます」


 商人は微笑んだ。


「それに、契約は契約です。あなた方は私のパンを食べ、水を飲んだ。保護契約に同意した。ならば、対価を払うのは当然でしょう」


「でも、半年だけだって……!」


「ええ。表の文面にはそう書いてあります」


 カルドは楽しそうに鞭を振った。


「細かい条件まで読まなかったのは、あなた方の落ち度です」


 レオンは木陰から腕輪を見た。


 灰色の輪。


 商人ギルドの雇用印に似せている。


 だが、その奥に別の線がある。


 債務固定。


 逃亡痛覚。


 家族連帯。


 証言封じ。


 そして、終身労役。


 保護契約ではない。


 奴隷契約だ。


 ただし、奴隷印と呼ばれにくい形に偽装されている。


「またか」


 レオンは低く呟いた。


 リュシアが剣を握り直す。


「斬る?」


「待って」


「待つ理由がある?」


「腕輪がある。あれを外さないと、人質にされる」


 カルドが鞭を軽く振る。


 倒れていた少年が悲鳴を上げた。


 鞭は届いていない。


 それでも腕輪が光り、痛みだけが走っている。


 リュシアの目に怒りが宿った。


「早くして」


「分かってる」


 レオンは倉庫の周囲を見た。


 柵の支柱に小さな札が貼られている。


 商会印。


 見張りの護衛は四人。


 全員が革鎧を着て、槍か短剣を持っている。


 カルド自身は戦えそうにない。


 だが、手の鞭と腕輪が厄介だった。


 正面から行けば、捕らわれた人々が痛めつけられる。


「リュシア、護衛を止められる?」


「殺していいなら」


「できれば殺さず」


「注文が多い」


「君ならできると思って」


 リュシアは一瞬だけレオンを見た。


「……三人まで」


「四人いる」


「なら、あなたが一人止めて」


「俺に期待しすぎじゃないかな」


「私もあなたに命を預けてる」


 その言葉に、レオンは息を詰まらせた。


 軽い冗談ではない。


 彼女は本気でそう言っていた。


 レオンは腕輪を見た。


 柵の札。


 カルドの鞭。


 捕らわれた人々の手首。


 全部が一本の術式で繋がっている。


 なら、芯はカルドの鞭だ。


 あれが命令権を握っている。


「分かった」


 レオンは木陰から出た。


「その契約、少し見せてもらえますか」


 柵の中と外の視線が、一斉に向いた。


 カルドが眉を上げる。


「どなたですかな?」


「通りすがりの解除士です」


 その言葉に、護衛のひとりが反応した。


「解除士……?」


 街から手配が回っているのかもしれない。


 カルドの目が細くなる。


 だが、すぐに笑みを作った。


「これはこれは。ちょうどよいところに。雇用印の点検ですかな?」


「ええ。ずいぶん変わった雇用印なので」


「商会独自の保護契約です。異端騒ぎの被害者を守るためのものですよ」


 カルドは大げさに両手を広げた。


「我々商人は、困った人々を見捨てません。パンを与え、水を与え、仕事も与える。実に慈悲深い話でしょう?」


 柵の中の女が、震える声で言う。


「違います……私たちは、街道に逃げただけで……この人たちに、倉庫へ入れば安全だと……」


 腕輪が光った。


 女が喉を押さえ、声を失う。


 カルドがにこやかに言った。


「契約者による虚偽の発言は禁止されています」


 レオンの顔から表情が消えた。


「なるほど」


「お分かりいただけましたかな?」


「ええ」


 レオンは一歩近づく。


「保護じゃない。口封じだ」


 カルドの笑みが止まった。


 リュシアが木陰から飛び出したのは、その瞬間だった。


 護衛たちが振り返るより速く、彼女の剣が最初の槍を弾いた。


 次の一撃で、護衛の膝を打つ。


 男が倒れる。


 二人目が短剣を抜いたが、リュシアは体を沈めて懐に入り、柄で腹を撃った。


 息を吐いた男が崩れる。


「くそっ!」


 三人目と四人目が同時に動く。


 リュシアは三人目の槍を受けた。


 四人目がレオンへ走る。


 やはり来た。


 レオンは後ろへ下がる。


 足元に木の根。


 また転びそうになる。


 護衛が短剣を振り上げた。


 レオンは腰の短剣を抜くことすら間に合わない。


 だから、相手の腕ではなく、短剣の柄に刻まれた商会印を見た。


 命令強制。


 護衛契約。


 雇用主保護。


 違約痛覚。


 この男も、完全な自由意志ではない。


 レオンは手を伸ばした。


「解除」


 護衛の腕が止まった。


 短剣の商会印が砕ける。


 男は目を見開き、自分の手を見た。


「俺……何を……?」


 その横を、リュシアが駆け抜けた。


 四人目の護衛の顎を剣の柄で打ち、気絶させる。


「一人止めた」


 レオンは息を吐いた。


「今のは止めたって言えると思う」


「ぎりぎり」


「評価が厳しい」


 カルドの顔から余裕が消えた。


「貴様ら……!」


 彼は鞭を高く掲げた。


 柵の中の人々が一斉に震える。


「動くな! この鞭を振れば、契約者全員に痛みが走る! 子供から死ぬぞ!」


 リュシアの足が止まった。


 カルドは勝ち誇ったように笑う。


「そうです。分かればよろしい。剣を捨てなさい、女。解除士も手を上げるのです」


 レオンはカルドの鞭を見た。


 黒い革に、金の文字。


 商人ギルドの正規契約具に似せている。


 しかし、祈りの文句の下に、汚れた術式が隠れていた。


 弱者同意偽装。


 飢餓状態承認。


 未成年契約許可。


 家族連鎖。


 すべてが違法だった。


「ひとつ聞いていいですか」


 レオンは言った。


「何をです」


「あなたは、本当にこの契約が正当だと思っていますか」


 カルドは鼻で笑った。


「契約書に印がある。パンを食べた。水を飲んだ。それで十分です」


「相手が飢えていても?」


「飢えていたからこそ、私のパンに価値がある」


「子供でも?」


「親が同意した」


「細かい条件を隠していても?」


「読まない者が悪い」


 レオンは静かに頷いた。


「よく分かりました」


「何がです?」


「あなたの商売は、借り物の正しさでできている」


 カルドの目が吊り上がる。


「外れ職が、商人の契約に口を出すな!」


 鞭が振られた。


 その瞬間、レオンは前へ出た。


 リュシアが叫ぶ。


「レオン!」


 鞭はレオンの肩を打った。


 鋭い痛みが走る。


 けれど、柵の中から悲鳴は上がらなかった。


 レオンが鞭を掴んでいたからだ。


 掌が焼けるように痛む。


 鞭に仕込まれた術式が、腕から入り込もうとする。


 契約違反者。


 反逆者。


 所有物破損。


 賠償債務。


 そんな言葉が頭の奥に流れ込む。


 だが、どれもレオンのものではない。


 誰かを縛るため、勝手に押しつけられた言葉だ。


「お前の契約、同意じゃないだろ」


 レオンは鞭を握りしめた。


「解除」


 鞭が裂けた。


 黒い革が灰になり、金の文字が空中へ散る。


 同時に、柵の中にいた人々の腕輪が次々と砕けた。


 少年の腕輪。


 母親の腕輪。


 老人の腕輪。


 男たちの腕輪。


 すべてが灰色の欠片となって地面に落ちる。


 倉庫の壁が赤く光った。


 隠されていた契約文が、一斉に浮かび上がる。


 終身労役。


 逃亡時は家族を代替徴収。


 証言禁止。


 神殿審問への引き渡し。


 保護対象ではなく、商品候補。


 その文字を見た瞬間、柵の中の人々が凍りついた。


 次に、怒号が爆発した。


「商品だと……!」


「子供まで売る気だったのか!」


「半年って言ったじゃないか!」


「神殿へ引き渡すって、どういうことだ!」


 カルドは後ずさった。


「ち、違う! これは契約文の一部であって、実際に行使するとは限らず――」


「黙れ」


 リュシアの剣先が、カルドの喉元に突きつけられた。


 彼女の目は、処刑場にいた時より冷たかった。


「子供に痛みを流した」


「ま、待ちなさい。私は商人です。金ならあります。君にも払おう。そこの解除士より、ずっといい暮らしを――」


 リュシアの剣が動いた。


 カルドの頬を薄く裂く。


 血が一筋流れた。


 彼は悲鳴を飲み込んだ。


「次は喉」


 リュシアが言った。


「命乞いは短くして」


 カルドの膝が震える。


 レオンは痛む手を押さえながら、柵へ歩いた。


 扉には大きな錠前がある。


 普通の鍵ではない。


 解錠防止。


 逃亡者認定。


 不法侵入者拘束。


 倉庫全体が、人を閉じ込める檻になっている。


 レオンは錠前に手を当てた。


「解除」


 錠前が落ちた。


 扉が開く。


 それでも、人々はすぐには動かなかった。


 自由になったことを、体がまだ信じていないのだ。


 最初に動いたのは、少年だった。


 彼は自分の手首を見つめ、それから母親に抱きついた。


「痛くない」


 小さな声だった。


「母さん、もう痛くない」


 母親は少年を抱きしめ、声を殺して泣いた。


 老人が地面に膝をつき、腕輪の欠片を拾い上げる。


「こんなものに……わしらは……」


 レオンは首を横に振った。


「あなたたちが悪いんじゃない」


 老人が顔を上げる。


「飢えた人にパンを見せて、飲まなければ死ぬ人に水を出して、それを同意と呼ぶ方がおかしい」


 柵の中の人々は黙って聞いていた。


 その沈黙は、処刑場の沈黙とは違っていた。


 押さえつけられている沈黙ではない。


 言葉を取り戻す前の沈黙だった。


 カルドが、そろそろと逃げようとした。


 リュシアが剣の腹で足を払う。


 商人は情けない声を上げて転んだ。


「逃げるなら、契約が必要?」


 リュシアが言った。


「私は親切だから、細かい条件も読ませてあげる」


「や、やめろ……!」


 レオンはカルドの指輪を見た。


 金色の指輪。


 商人ギルドの加護具だ。


 正当な商取引を守り、契約破りから持ち主を保護するもの。


 それ自体は悪い道具ではない。


 だが、カルドの指輪には、別の術式が重ねられていた。


 不正契約隠蔽。


 証人買収。


 告発者不信化。


 これがある限り、彼はどこかでまた同じことをする。


「それも剥がしておきます」


 レオンはカルドの手を取った。


「や、やめろ! これは商人としての信用だ! 私が積み上げてきた――」


「違う」


 レオンは指輪を見た。


「これは、あなたが積み上げた信用じゃない」


 指先に力を込める。


「騙した人たちの沈黙だ」


 カルドの顔が青ざめる。


「解除」


 指輪が砕けた。


 その瞬間、カルドの背後にいくつもの小さな文字が浮かんだ。


 過去の不正契約。


 奪った家財。


 消えた証言者。


 神殿へ流した手数料。


 ローデン男爵への納入記録。


 カルドは両手で空中の文字を払おうとした。


「消えろ! 消えろ!」


 消えなかった。


 解かれたものは、もう隠れない。


 人々の視線がカルドに突き刺さる。


 彼は急に小さく見えた。


 豪華な服も。


 金の指輪も。


 穏やかな商人口調も。


 剥がれてしまえば、そこにいたのは子供を鞭で脅す男でしかなかった。


 リュシアがレオンの横に立つ。


「斬る?」


 レオンは少し考えた。


 怒りはある。


 だが、ここで斬れば終わるものと、終わらないものがある。


「縛ろう」


「縄は?」


 解放された男のひとりが、倉庫の中から縄を持ってきた。


「これを。俺たちを縛るために置いてあったものです」


 リュシアはそれを受け取ると、カルドの手足を手早く縛った。


 結び方が妙に容赦ない。


 カルドが呻く。


「きつい! 手が痛い!」


「痛いだけで済んでる」


 リュシアは短く返した。


 レオンは倉庫の壁に残った契約文を見た。


 ローデン男爵。


 神殿。


 商会。


 別々に見えた悪事が、少しずつ繋がっていく。


 処刑場でリュシアを罪人にした者たち。


 広場を封鎖し、目撃者の記憶を消そうとした者たち。


 逃げ出した民を、救済の名で再び縛ろうとした者たち。


 ただの偶然ではない。


「神殿地下へ移送」


 レオンは浮かび上がった文面の一部を読んだ。


 リュシアが眉を寄せる。


「何?」


「この人たちを、商品としてどこかへ売るだけじゃなかった」


 レオンは壁を指した。


「神殿に渡す予定だったみたいだ」


 解放された人々の顔が強張る。


 母親が少年を抱き寄せた。


「神殿に……? でも、神殿は人を救う場所じゃ……」


 誰も答えられなかった。


 少なくとも、今日見た神殿はそうではなかった。


 レオンは痛む手を見た。


 鞭を掴んだ掌が赤く腫れている。


 解除できるものは増えている。


 だが、世界にある縛りは、それ以上に多い。


「レオン」


 リュシアが低く呼んだ。


「追手が来る」


 森の奥から、馬の蹄の音がかすかに聞こえた。


 街から回り込んできたのだろう。


 ここに長くはいられない。


 解放された人々も不安げに周囲を見回す。


 レオンは倉庫の扉を振り返った。


 まだ残っている封印がある。


 人を閉じ込めるための倉庫。


 契約文を隠す壁。


 逃げ道を塞ぐ柵。


 すべて、同じ仕組みで作られている。


「最後に、これだけ」


 レオンは倉庫の壁へ手を当てた。


「もう誰も閉じ込めるな」


 静かに息を吸う。


「解除」


 倉庫全体から、黒い線が抜け落ちた。


 窓に打ちつけられていた板が外れ、柵の留め具が次々と落ちる。


 人を檻に変えるための術式が、音もなく消えていく。


 ただの古い倉庫が、ただの古い倉庫に戻った。


 それだけのことなのに、解放された人々は呆然と見つめていた。


 少年がレオンに近づき、小さく頭を下げた。


「ありがとう、解除士さん」


 レオンは少し困った。


 礼を言われ慣れていない。


 鍵を開けても、封印箱を直しても、言われるのは大抵「遅い」か「安くしろ」だった。


「どういたしまして」


 ようやくそれだけ返すと、リュシアが横で小さく笑った。


「下手」


「礼を受ける練習はしてない」


「これから増えるかも」


「そうだといいけど」


「たぶん、面倒も増える」


「それはもう増えてる」


 蹄の音が近づいてくる。


 リュシアは剣を構え直した。


 レオンは解放された人々へ向き直る。


「川沿いを下ってください。街道には出ない方がいい。追手は俺たちを追うはずです」


 男のひとりが頷いた。


「あなたたちは?」


「森を抜けます」


 母親が不安げに言う。


「また捕まったら……」


 レオンはカルドを見た。


 縛られた商人は、地面に転がったまま震えている。


 もう鞭も指輪もない。


 借り物の契約も、偽物の信用も剥がれた。


「大丈夫です」


 レオンは言った。


「次に誰かがあなたたちを縛ろうとしたら、よく見てください」


「何を……?」


「その力が、本当に正しいものなのか」


 母親は、腕輪の跡が残る自分の手首を見た。


 それから、静かに頷いた。


 リュシアがレオンの袖を引く。


「行くよ」


「うん」


 二人は倉庫を後にした。


 森へ戻る直前、レオンは一度だけ振り返った。


 解放された人々が、川沿いへ逃げ始めている。


 縛られていたはずの足で。


 奪われていたはずの声で。


 互いの名を呼びながら。


 レオンの胸に、処刑場で感じたものと同じ熱が灯った。


 やはり、この力は鍵を開けるためだけのものではない。


 首輪を壊すためだけでもない。


 誰かが正しいふりをして押しつけた鎖を、剥がすためのものだ。


 リュシアが隣で言う。


「今の商人、あなたを恨むよ」


「だろうね」


「神殿にも、男爵にも、商会にも追われる」


「だろうね」


「後悔してる?」


 レオンは森の奥を見た。


 追手の声が聞こえる。


 逃げ道は狭い。


 戦う力はない。


 それでも、倉庫の中で泣いていた少年の声が耳に残っていた。


 痛くない。


 もう痛くない。


「してない」


 レオンは答えた。


 リュシアは少しだけ目を細めた。


「なら、走って」


「また?」


「追いつかれたら、後悔する前に死ぬ」


「現実的だな」


「あなたが遅いから」


 二人は森の中へ駆け出した。


 背後で、追手の怒声が上がる。


 だが、その声よりも先に、川沿いへ逃げる人々の足音が遠ざかっていく。


 ひとつの倉庫から、ひとつの偽契約が剥がれた。


 それだけで、世界が変わるわけではない。


 けれど、確かに何人かの人生は戻った。


 レオンは痛む手を握りしめる。


 次に剥がすべき鎖は、もう見え始めていた。


 

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