第2話 逃げる解除士、守る剣
処刑場に浮かび上がった契約魔法陣は、まだ消えていなかった。
石畳の上に、赤黒い文字が焼きついている。
偽造された奴隷契約。
反論を封じる呪印。
ローデン男爵の名。
神官の署名。
そして、神殿へ流れた金の記録。
それらを見た民衆は、誰も声を出せなかった。
つい先ほどまで罪人と呼ばれていた少女は、もう首輪をつけていない。
その少女――リュシアは、処刑人から奪った剣を握り、レオンの前に立っていた。
細い肩。
痩せた腕。
傷だらけの体。
それでも、剣先は一切揺れていなかった。
「どけ……どけえ!」
ローデン男爵が、裏返った声で叫んだ。
「わしは男爵だぞ! 神殿が認めた契約だ! 貴様ら下民が、何を見ている!」
民衆は動かない。
誰も男爵を守ろうとしなかった。
誰もレオンたちに石を投げなかった。
ただ、見ていた。
今まで信じていたものに、初めてひびが入る瞬間を。
「兵士!」
神官が怒鳴った。
「何をしている! その解除士を捕らえなさい! 奴は神殿の裁きを汚した異端です!」
広場の端にいた兵士たちが、ようやく我に返ったように剣を構える。
だが、足は重かった。
処刑台に浮かぶ証拠を見てしまったからだ。
神殿の名も。
男爵の名も。
偽装契約も。
すべて、朝日の下にさらされている。
兵士のひとりが、ためらいがちに言った。
「し、しかし神官様。あれは……」
「あれは幻術です!」
神官は即座に叫んだ。
「外れ職が悪魔と通じ、神殿の裁きを乱したのです! 見た者は惑わされています! 今すぐ広場を封鎖しなさい!」
神官が懐から銀の札を取り出した。
札には神殿の聖印が刻まれている。
レオンの目が、その札に吸い寄せられた。
嫌な気配がした。
神官は札を高く掲げる。
「神殿緊急令を発動する! この場にいる者は全員、異端審問の対象である!」
銀の札が砕けた。
同時に、広場の四方に白い壁が立ち上がる。
透明な結界だった。
民衆が悲鳴を上げる。
「な、なんだこれは!」
「出られないぞ!」
「押すな!」
広場の出入口が、光の壁でふさがれていた。
神官の顔に、歪んだ笑みが戻る。
「これで誰も逃げられません。異端者も、惑わされた愚民も、すべて神殿で取り調べます」
レオンは息を吐いた。
「便利ですね」
「何?」
「証拠を見た人間ごと閉じ込めるための結界ですか」
神官の頬が引きつる。
「黙りなさい」
「神殿緊急令と言いながら、発動紋が証言封じに繋がっている。外へ出られないだけじゃない。時間が経てば、ここにいる人たちの記憶も曖昧になる」
民衆のざわめきが変わった。
神官が一歩後ずさる。
「貴様……なぜ分かる」
「見えるので」
レオンはそう言って、結界の根元を見た。
処刑場の石柱に埋め込まれた白い小石。
そこから細い光の線が伸び、広場全体を包んでいる。
閉鎖。
沈黙。
記憶濁り。
証言無効。
神殿の紋章を被せてはいるが、中身はかなり汚い術式だった。
リュシアが横目でレオンを見る。
「壊せる?」
「壊せると思う」
「思う?」
「大きい結界は初めてだ」
リュシアは一瞬だけ黙った。
「分かった。なら、あなたが壊すまで私が守る」
その言葉は、あまりにも自然だった。
命令ではない。
契約でもない。
彼女自身の意志だった。
レオンは少しだけ目を見開く。
「……いいのか」
「助けられたから守るんじゃない」
リュシアは剣を構え直した。
「今、私がそうしたい」
兵士たちが一斉に動いた。
迷いを振り払うように、数人がレオンへ向かってくる。
レオンは剣を持っていない。
腰に短剣はあるが、抜いたところで役に立たない。
最初の兵士が槍を突き出した。
レオンは避けようとして、足がもつれた。
情けないほど遅い。
槍先が胸に届く。
その寸前、リュシアの剣が槍の柄を叩き折った。
返す刃で、兵士の兜を横から打つ。
男は白目をむいて倒れた。
二人目が斬りかかる。
リュシアは前に出ない。
レオンの前から離れず、最小限の動きで受け、弾き、柄で顎を撃ち抜く。
首輪が消えたばかりとは思えない動きだった。
だが、完璧ではない。
傷ついた体が、時折わずかに揺れる。
息も荒い。
長くは持たない。
「レオン」
リュシアが短く言った。
「早く」
「分かってる」
レオンは石柱に駆け寄った。
白い小石に指を当てる。
結界の術式が、頭の中に流れ込んでくる。
正面から壊すには魔力が足りない。
解除士に大規模結界を破壊する力はない。
けれど、壊す必要はなかった。
縛り目を見つければいい。
この結界が何を条件にして閉じているのか。
誰を異端と定め、誰の証言を奪い、何を隠すために作られたのか。
白い光の下に、黒い線があった。
証拠隠しの術式。
処刑台に浮かんだ契約記録を、一定時間後に幻術扱いへ書き換えるための封じ目。
そこが結界の芯だ。
「見つけた」
レオンは指先に力を込めた。
背後で金属音が続く。
リュシアが押されている。
兵士の数が多い。
その向こうで、神官がさらに何かを唱えていた。
「神殿に逆らう者に、戒めを!」
倒れていた黒い首輪の破片が、ぞわりと動いた。
破片が蛇のように集まり、リュシアの足首へ絡みつこうとする。
レオンの目が鋭くなる。
首輪の残滓。
奴隷印が壊れても、術者が再拘束できるよう仕込んでいた保険だ。
最後まで人を物として扱う仕組み。
「しつこい」
レオンは石柱から片手を離し、黒い破片へ向けた。
「解除」
破片が灰になった。
リュシアの足元で、黒い粉が風に散る。
彼女は振り返らなかった。
ただ、ほんのわずかに口元を動かした。
「助かった」
「まだ終わってない」
レオンは再び石柱に触れた。
結界の芯に指先を沈めるような感覚。
そこにあるのは、神の力ではない。
人が人の口を塞ぐために作った、ただの仕掛けだ。
「お前の権威も、借り物だろ」
レオンは低く言った。
「解除」
白い結界に、ひびが入った。
広場の四方で、光の壁が砕ける。
閉じ込められていた民衆が、一斉に外へなだれ出した。
誰かが叫ぶ。
「見たぞ!」
「契約書に男爵の名があった!」
「神官もだ!」
「広場を封じたぞ! 俺たちの口を塞ぐ気だった!」
神官の顔が真っ青になる。
「止めろ! そいつらを止めろ! まだ審問は終わっていない!」
だが、もう遅い。
証人は広場の外へ出た。
噂は走る。
民衆の口は、結界より速い。
ローデン男爵が馬車へ向かって走り出した。
リュシアが追おうとする。
だが、その足がわずかにふらついた。
レオンはそれを見逃さなかった。
「無理するな」
「逃がすの?」
「今は君を逃がす方が先だ」
リュシアは悔しそうに男爵を見た。
男爵は兵士に守られながら、広場の裏手へ消えていく。
殺せる距離ではない。
そして、今のリュシアに追わせるべきでもない。
レオンはそう判断した。
その判断が正しいのかどうか、自信はなかった。
けれど、彼女を再び失わせる選択だけはしたくなかった。
「こっちだ」
レオンは処刑台の脇へ走る。
「裏路地に出られる」
「街を知ってるの?」
「処刑台の封印箱を修理しに来た時、逃げ道を探してた」
「なぜ?」
「外れ職は、よく怒鳴られる」
リュシアが一瞬だけ、変な顔をした。
笑いかけたのかもしれない。
だが、すぐに兵士の怒声が追ってきた。
「いたぞ!」
「解除士を逃がすな!」
「女もだ!」
二人は広場の裏へ飛び込んだ。
石壁に挟まれた細い路地。
洗濯物が頭上に揺れ、朝の煮炊きの匂いが残っている。
リュシアは裸足に近い足で走っていた。
奴隷用の粗末な靴は、処刑台の上で片方が破れている。
それでも速い。
レオンの方が置いていかれそうだった。
「遅い」
「分かってる」
「鍛えてないの?」
「解除士に走り込みは求められない」
「求めた方がいい」
「今、痛感してる」
背後で犬の吠え声がした。
リュシアの表情が変わる。
「追跡犬」
角を曲がった先で、黒い猟犬が三頭放たれていた。
目が赤い。
普通の犬ではない。
首に小さな聖印つきの輪をつけている。
神殿の追跡獣だ。
犬たちは迷わずレオンとリュシアへ向かってくる。
リュシアが剣を構えた。
「斬る」
「待って」
「待てない」
「犬は悪くない」
レオンは一歩前に出た。
リュシアが鋭く言う。
「前に出ないで」
「首輪がある」
猟犬の首輪に刻まれた術式。
血の匂い。
恐怖の匂い。
奴隷印の残滓。
それを追わせる魔法だ。
レオンは指先を向けた。
「解除」
三頭の猟犬が同時に足を止めた。
赤い目の光が消える。
首輪が外れ、石畳に落ちた。
犬たちは混乱したように鼻を鳴らし、それから道端へ座り込んだ。
リュシアがぽつりと言う。
「犬まで?」
「命令で縛られてるだけなら」
「便利ね」
「戦えないけど」
「そこは本当に不便」
「言い方」
追手の足音が近づく。
二人はさらに路地を抜けた。
街の裏門へ向かう道に出る。
そこまで来た時、前方に数人の神殿兵が現れた。
白い鎧。
胸には聖印。
街の守備兵とは違う。
神殿直属の兵だ。
先頭の男が剣を抜く。
「外れ職レオン・アッシュフォード。神殿結界破壊および奴隷契約妨害の罪により拘束する」
レオンは眉をひそめた。
「早いですね」
「神殿に逆らう者は、必ず裁かれる」
神殿兵の剣に光が宿った。
加護つきの武器だ。
リュシアがレオンの前に出る。
しかし、彼女の息は明らかに乱れていた。
さっきから戦い続けている。
首輪が消えたばかりの体で、これ以上は危ない。
レオンは神殿兵の剣を見た。
白い光。
聖なる輝きに見える。
だが、根元が濁っている。
剣に宿っているのは信仰ではない。
恐怖による服従強化。
持ち主に勇気を与えるのではなく、逆らう者を異端と錯覚させる術式だ。
「リュシア」
「何」
「三歩だけ耐えて」
「三歩?」
「その剣の光を剥がす」
神殿兵が踏み込む。
一歩目。
リュシアが受ける。
火花が散り、彼女の腕が沈む。
二歩目。
神殿兵が横薙ぎに斬る。
リュシアは体をひねってかわし、刃を滑らせる。
三歩目。
男の剣が大きく振り上がった。
レオンは、その剣の光に手を伸ばした。
「お前の勇気、借り物だろ」
男の目が揺れた。
「解除」
剣の白い光が消えた。
神殿兵の顔から、戦意が抜け落ちる。
自分が何をしているのか、突然分からなくなったような顔だった。
その隙を、リュシアは逃さなかった。
剣の腹で男の胴を打ち、昏倒させる。
残る神殿兵たちが怯んだ。
リュシアは切っ先を向ける。
「次」
誰も前に出なかった。
レオンは神殿兵たちを見た。
「本当に自分の意志で俺たちを斬りたいなら、止めません」
神殿兵たちは黙る。
「でも、その剣に命令されているだけなら、下がれ」
ひとりが剣を落とした。
それをきっかけに、道が開いた。
リュシアはレオンの袖を掴む。
「行くよ」
「うん」
二人は裏門を抜けた。
街の外には、朝の平原が広がっている。
遠くに森が見えた。
門の外まで来て、リュシアはようやく足を止めた。
その瞬間、膝が崩れる。
レオンは慌てて支えた。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
リュシアは短く答えた。
額には汗が浮かんでいる。
強い。
けれど、無敵ではない。
首輪に削られ、処刑台で傷つけられ、逃走で限界に近い。
それでも彼女は、剣を手放さなかった。
「君は、どこか行く当てがある?」
レオンが尋ねる。
リュシアは少し黙った。
「ない」
「家は?」
「奪われた」
「仲間は?」
「たぶん、もういない」
淡々とした言い方だった。
淡々としているからこそ、重かった。
レオンはそれ以上、聞かなかった。
森の方から風が吹く。
街の中では、まだ鐘が鳴っている。
ただの朝の鐘ではない。
警鐘だ。
外れ職の解除士と、元奴隷の女剣士を追えという鐘。
「俺と来るか」
レオンは言った。
リュシアが顔を上げる。
「契約?」
「違う」
「命令?」
「違う」
「恩を返せって話?」
「それも違う」
レオンは少し考えた。
うまい言葉は見つからない。
「俺は戦えない。今日、それがよく分かった」
「うん」
「はっきり言うね」
「事実だから」
「でも、君も今はひとりで逃げ切るのは厳しい」
「それも事実」
「だから、一緒に逃げよう。君が嫌なら、森に着いたところで別れていい」
リュシアは黙ってレオンを見た。
その目には、まだ警戒がある。
当然だ。
彼女は奴隷だった。
契約という名で奪われ、神殿の印で黙らされ、貴族に罪人にされた。
差し出された手を、すぐ信じられるはずがない。
やがてリュシアは言った。
「あなたは、私を縛らない?」
「縛らない」
「私がどこかへ行きたいと言ったら?」
「止めない」
「私があなたを守りたくないと言ったら?」
「困るけど、命令はしない」
「困るんだ」
「正直、かなり困る」
リュシアは今度こそ、少しだけ笑った。
本当に小さな笑みだった。
でも、処刑台の上では一度も見せなかった表情だった。
「なら、今は一緒に行く」
「今は?」
「ずっと、とは言わない」
「それでいい」
レオンは頷いた。
その時、街の門の上に神官の姿が現れた。
白い法衣を乱し、顔を怒りに染めている。
その隣には、ローデン男爵もいた。
男爵は遠くからでも分かるほど震えていたが、口だけはまだ動いていた。
「聞け、異端者ども!」
神官の声が、魔法で平原に響いた。
「解除士レオン・アッシュフォードは、神殿の裁きを破壊し、罪人を連れて逃亡した! その者を捕らえた者には、神殿より銀貨百枚を与える!」
リュシアが目を細める。
「賞金首になった」
「早いな」
「あなた、慣れてる?」
「まったく」
神官はさらに叫ぶ。
「その女は危険な反逆奴隷である! 見つけ次第、殺しても構わぬ!」
リュシアの指が、剣の柄を強く握った。
レオンは彼女の横顔を見る。
怒り。
悔しさ。
それよりも深いところに、また奪われるかもしれないという恐怖があった。
レオンは門の上の神官を見上げた。
まだ遠い。
今は届かない。
けれど、その声には術式が乗っていた。
賞金令。
罪状固定。
追跡許可。
そして、リュシアを再び奴隷として扱うための言葉の鎖。
レオンは、門の上へ向けて手を伸ばした。
「それは違う」
声は届かないかもしれない。
けれど、術式には届く。
「解除」
平原に響いていた神官の声が、途中で途切れた。
魔法の拡声が砕ける。
同時に、門の上に掲げられた賞金令の羊皮紙が黒く焦げ、そこに隠されていた文面が浮かび上がった。
――証拠目撃者の処分を最優先。
――女奴隷の再拘束。
――解除士の能力調査後、神殿地下へ移送。
門の上の兵士たちが、その文字を見た。
神官が慌てて羊皮紙を丸めようとする。
しかし遅い。
レオンはリュシアに背を向けた。
「行こう」
「いいの?」
「今は逃げる」
「後で戻る?」
レオンは少しだけ振り返った。
街の門。
神殿の聖印。
男爵の赤い外套。
偽物の権威をまとった者たち。
「戻る」
レオンは言った。
「剥がし残しがある」
リュシアは剣を肩に担ぎ、隣に並んだ。
「その時は、私が斬る」
「頼りにしてる」
「歩ける?」
「走るのは苦手だけど、歩くくらいなら」
「じゃあ歩いて。追いつかれたら私が困る」
「そこは守ってくれる流れじゃないのか」
「守るけど、楽はさせない」
二人は森へ向かって歩き出した。
背後では、まだ街が騒いでいる。
けれどリュシアの首には、もう奴隷印はない。
レオンの手には、剣も杖もない。
あるのは、ただひとつ。
理不尽な縛りを見つけ、剥がす力。
外れ職と笑われた解除士と、奪われた名を取り戻した女剣士。
二人の逃亡は、そこから始まった。




