第16話 扉を開ける前夜、おじさんとそれぞれの気持ち
第十層から戻った翌日、篠原室長が言った。
「田中さん、準備に何が必要ですか?」
「戻り方、です」
「戻り方」
「扉を開けて向こうへ行く方法はわかりました。ただ、戻れるかどうかがわからない。神崎誠一さんが戻ってこなかったのも、戻り方を知らなかったからかもしれない」
篠原がリオを見た。
リオが静かに言った。
「父の資料に、一か所だけ戻り方の記述があります。ただし、断片的で——完全には読み解けていません」
「読み解けていない部分は」
「異世界側の協力が必要、とだけ書いてありました。どんな協力が必要かは書いていない」
「つまり向こうに行ってみないとわからない」
「……そうなります」
室内が静かになった。
俺は少し考えた。
「わかりました。行きます」
「田中さん、戻り方がわからないのに——」
「向こうに人がいます。声が届いていた。戻り方は、向こうで教えてもらえると思っています」
「根拠は?」
「俺を待っていてくれた人たちが、俺を帰してくれないはずがない。そういう確信があります」
篠原が俺を見た。長い沈黙があった。
「……強いですね、田中さんは」
「力が、ではなくて?」
「心が、です」
俺はよくわからなかったが、「そうですか」とだけ言った。
◇
準備期間は三日間にした。
その三日間で、いくつかのことを決めた。
配信は向こうでも続ける。
サクラが「技術的に可能かどうかわからない」と言ったが、「やってみます」と言った。サクラが「わかりました、機材を改造します」と言った。
全員が同行する。
ヒナ、サクラ、リオ、キリソウ、早川。
早川は「政府の許可が必要です」と言った。翌朝には許可が出ていた。篠原室長が一晩で通したらしかった。
出発は三日後の朝。
それだけ決まった。
◇
準備期間の二日目の夜、ヒナから電話が来た。
珍しかった。
メッセージではなく電話だった。
「もしもし」
「……もしもし」
ヒナの声が、いつもより低かった。
「なんですか?」
「なんでもないです」
「なんでもなければ電話しませんよ」
「……そうかな」
「そうですよ」
しばらく沈黙があった。
電話口で、ヒナが息をついた。
「……田中さん」
「はい」
「向こうに行っても、田中さんのままでいてくれますか?」
「どういうことですか?」
「記憶が全部戻ったら、変わってしまうかもしれないから」
「変わる、とは」
「王になるっていうか……うちの知らない人になるっていうか」
俺はしばらく考えた。
「変わらないとは言えません」
「……やっぱり」
「ただ——コーヒーが薄いのが嫌いなのは変わらないと思います」
ヒナが笑った。
「なんですかそれ」
「変わらない部分はそこだと思って」
「もっとあるでしょ」
「…………あなたたちのことが大事なのも、変わらないと思います」
長い沈黙が来た。
「……田中さん、それ電話で言いますか?」
「電話ですけど」
「そういうことを顔見て言ってほしかった」
「次は気をつけます」
「次がいつなんだって話ですよ」
「明後日、出発前に」
「……期待しないでおきます」
「期待していいです」
また沈黙があった。
ヒナが小さく言った。
「……じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電話が切れた。
俺はスマホを置いた。
天井を見た。
——あなたたちのことが大事なのも、変わらない。
本当のことだった。
理由はうまく説明できないが、本当のことだった。
◇
同じ夜、リオは一人で父の資料を読み返していた。
百七十ページ。
何度読んでも、新しい発見がある。
父がどれだけ丁寧に記録していたかが、読むたびにわかった。
最後のページに、短い手紙が添付されていた。
政府が開示した資料の中に、なぜか含まれていた。
田中さんが情報開示を求めてくれなければ、一生知らなかったかもしれない。
手紙は、リオへ宛てられていた。
『リオへ。
これを読んでいるということは、お前は俺が行った場所の近くまで来ているということだろう。
俺は向こうにいる。元気にやっている。
向こうには、俺が探していた人がいた。
その人が戻れば、全てがうまくいく。
だから俺は待っている。お前もきっと来ると思っている。
一つだけ言っておく。
その人を信じろ。どんな姿をしていても、何を忘れていても。
——父より』
リオは手紙を折りたたんで、胸のポケットに入れた。
その人、というのが誰か。
わかっていた。
田中武志。アルディス。
父は、出会う前から知っていた。
そしてリオに、その人を信じろと言い残した。
「……信じています」
誰もいない部屋で、リオは静かに言った。
「最初から、ずっと」
◇
同じ夜、キリソウは自分の配信で視聴者に話していた。
「明後日、俺たちは扉を開けます」
同接は二十万ほどだった。
「向こうに何があるかはわからない。戻ってこられるかもわからない。でも——」
キリソウが少し間を置いた。
「田中さんが行くって言った。だから俺も行きます。それだけです」
キリソウ配信 — 同接:214,008
キリソウファン:推しが異世界に行こうとしてる
匿名A:「田中さんが行くから俺も行く」という単純明快な理由が好き
ガチ勢777:キリソウくん一週間で田中さんへの信頼が完成してる
エトウ:最初は絡みに行ったのに今や一番頼ってる側になってるの成長
匿名B:みんな帰ってきてください お願いします
◇
同じ夜、早川は報告書を書いていた。
篠原室長への、異世界渡航に関する事前報告書。
書きながら、手が何度か止まった。
官僚として、これほど前例のない報告書を書くのは初めてだった。
「渡航先:異世界」
「帰還見込み:未確定」
「同行者:田中武志(推定・元異世界国王)、白川ヒナ(配信者)、藤本サクラ(同マネージャー)、神崎リオ(配信者・帰還者の娘)、桐島颯太(配信者)」
早川は書き終えて、少し笑った。
自分でも笑いたくなる報告書だった。
だが、全部本当のことだった。
「……田中さん、本当に変な人だ」
呟いてから、付け加えた。
「でも、信用できる」
◇
同じ夜、サクラは機材を改造していた。
深夜二時。
半田ごてとドライバーとパーツが床に広がっていた。
異世界でも配信できる機材。
理論上は可能なはずだった。
異次元エネルギーを信号に変換して、冥界石を中継器として使えば——
「……できるかな」
独り言を言いながら、サクラは手を動かし続けた。
ヒナに頼まれていた。
《異世界からでも配信してほしい。田中さんが何をするか、みんなに見せたい》
ヒナらしい、と思った。
危険な場所に行く前夜に、配信の心配をしている。
だが——それでいいとも思った。
田中さんが「コーヒーが薄いのが嫌い」のままでいるように、ヒナは配信者のままでいる。
それが、このパーティーの強さかもしれない。
誰も、自分を失っていない。
「……できた」
サクラは改造した機材を持ち上げた。
小さな箱だった。
「これで、異世界からでも繋がれる……はず」
◇
出発前日の朝。
俺は一人で渋谷ダンジョンに入った。
配信なし。誰にも言わず。
第十層まで、一人で下りた。
光の扉の前に立った。
番人は端に控えていた。俺を見て、頭を下げた。
俺は扉に手を触れた。
温かかった。
「……明日来ます」
扉に言った。
「仲間を連れて来ます。大事な人たちです」
「向こうに着いたら、よろしくお願いします」
風が来た。
草の匂い。花の匂い。
そして——かすかに、声がした。
言葉ではなかった。
音だった。
だが、その音の意味が、俺には伝わった。
——待っています。
俺は扉から手を離した。
番人が、また頭を下げた。
俺はそれに軽く頷いて、来た道を戻った。
地上に出ると、夕方だった。
空が赤かった。
いつも通りの夕暮れだった。
俺はコンビニでコーヒーを買った。
飲んだら、薄かった。
それが少し、安心だった。
——明日、行く。
帰ってくる。
それだけだった。
◇
【前夜】明日、扉が開く。それぞれの覚悟を語るスレ
1 名無しさん : リオちゃんへの父の手紙「その人を信じろ」 田中さんのことを向こうから知ってたってどういうことだ
2 名無しさん : 電話口でヒナちゃんに「あなたたちのことが大事なのも変わらない」 田中さんが電話で言っちゃった
3 名無しさん : 早川さんの報告書「渡航先:異世界」「帰還見込み:未確定」 役所の書類でこれを書く職員初めてだろ
4 名無しさん : サクラちゃんが深夜に機材改造して異世界配信を実現させようとしてるの泣く ヒナに頼まれたから
5 名無しさん : キリソウくんの「田中さんが行くから俺も行く」が一番シンプルで一番熱かった
6 名無しさん : 田中さんが前日に一人で扉に「明日来ます、大事な人たちを連れて」って言いに行ったの誰も知らないの切ない
7 名無しさん : コーヒーが薄かったのが安心、で締めるのずるすぎる このおじさんずっとこのままでいてくれ
8 名無しさん : 明日の配信、世界中が見る 登録者1400万が全員リアタイすると思うと震える
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