第二十一話 守られるだけの娘ではいたくない
朝の空気は静かだった。
それは穏やかさではなく、何かを含んだ静けさだった。
夜の雨が残した湿り気が廊下の木に薄く沈み、障子越しの光もどこか白く冷たい。
大奥では、こういう朝ほど人の口が軽くなる。
湿った土に足跡が残りやすいように、曖昧な噂もまた、こういう空気の日には妙に人の心へ貼りつきやすい。
わたしはそのことを、ここへ来た頃よりずっと痛い形で知っていた。
口の軽い女は、刃より危うい。
昨日、綾姫さまの言葉と、お絹が女中たちに囲まれた場面を思い出すだけで、胸の内に細い棘が残る。
もう、わたしひとりが耐えれば済む段階ではない。
綾姫さまたちが向けてくる敵意は、わたしの周りにいる者へも静かに伸び始めている。
帯を締めながら、そのことを何度も思い返した。
お絹は今朝も少しだけ顔色が悪かった。
眠れなかったのだろう。無理もない。昨日のような“やさしい顔をした問い詰め”は、叱責よりよほど気持ちを削る。
「お絹」
わたしが声をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げた。
「は、はい」
「今日は何か言われても、ひとりで抱え込まないで」
「……はい」
「すぐ言えなくてもいい。あとででいいから」
「わかってます」
お絹は小さく頷く。
「でも……」
「なに?」
「志乃さんばかりに、そういうことを言わせるのも、嫌で」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
守られるだけの娘ではいたくない。
そういう気持ちは、たぶんお絹の中にも芽生え始めているのだ。
雪江が横から口を挟む。
「だったら、なおさら変なところで意地を張らないこと」
「う……」
「強がるのと、きちんと立つのは違うから」
「雪江はいつも正しいことを嫌な言い方で言う」
「嫌な言い方じゃないと、二人とも素直に聞かないでしょう」
その返しに、わたしは思わず小さく笑った。
笑えるうちは、まだ大丈夫。
そんなことを、ふと思う。
朝の割り振りが始まると、お滝どのはいつも以上にさっさと仕事を振り分けていった。
下の雑務では、雨上がりのため床や庭先の手入れが増えているらしい。
わたしはおまさどののもとで、花と香の見回り、それに加えて春日局さま付きの控えの一部の整えを任された。
雪江は布と道具の受け渡し。
お絹は下の女中たちの補助に回る。
それぞれの名が呼ばれるたび、今日一日の距離もまた決まる。
同じ部屋で眠った三人が、朝になると別々の場所で別々の空気の中へほどけていく。
それがこの大奥なのだと思った。
午前の前半は何事もなかった。
わたしは控えの間の花器を見て、香の立ち方を整え、おまさどのの指示で細かな道具の位置を直していく。
昨日までなら“ただの持ち場の仕事”にすぎなかったことが、今は違って見える。
どこで噂が立ち、どこで誰の視線が止まり、どこに誰の悪意が忍ぶかわからない。
花の向きひとつ、盆の高さひとつにも、以前よりずっと気を配るようになっていた。
「志乃」
おまさどのに呼ばれ、わたしはすぐに膝を折る。
「はい」
「今日は顔が忙しいわね」
「……そのようなことが出ておりますか」
「ええ。目が、人より先に廊下の向こうを見ている」
そう言われ、わたしは自分でも思い当たった。
気がつけば、誰がどこで立ち止まったか、誰が誰と話していたか、そんなことばかり追っている。
「お絹のことを考えております」
正直に言うと、おまさどのは少しだけ目を細めた。
「同室の娘ね」
「はい」
「よいことです」
その言葉に、わたしは少し意外な気持ちになった。
「よい、のですか」
「誰かひとりだけ綺麗に立とうとしても、この大奥ではすぐに裾を踏まれます」
おまさどのは淡々と言う。
「ただし」
「……はい」
「守る気持ちだけでは足りません。守り方を違えれば、共倒れです」
「はい」
「では、どうするべきだと思う」
また、試すような問いがくる。
どうするべきか。
ただそばにいるだけでは足りない。
大げさに庇えば、お絹は“志乃の庇護下にある娘”という見え方をしてしまう。
それもまた、新しい噂を呼ぶ。
ならば――。
「ひとりで受けぬようにします」
言葉を置きながら、自分の中でも形を確かめる。
「わたくしが前へ出られるときは出ます。でも、すべてをわたくしひとりのことにせず、お絹自身が何も知らぬまま巻き込まれぬように」
「つまり」
「場を引き取るのではなく、境を引く……でしょうか」
おまさどのはしばらく黙っていた。
「悪くないわ」
それだけ言って、花器へ目を戻す。
「では、そのつもりでいなさい」
「はい」
その言葉が終わった直後だった。
廊下の向こうで、聞き覚えのある細い笑い声がした。
綾姫さま付きの女中たちだ。
その音が近づく気配に、胸の内が少しだけ硬くなる。
けれど今日は、花器も帳面も手元にはない。ただ、わたし自身がここにいるだけだ。
ならば崩されるとしたら、次は何か。
そう思ったところで、下の廊下のほうから、わずかなざわめきが伝わってきた。
お絹だ。
そうわかったのは、理屈ではない。
ただ胸の内で、何かがすぐにその名前を叫んだ。
「おまさどの」
「ええ、行きなさい」
わたしが言うより先に、そう返された。
それだけでわたしは深く頭を下げ、廊下を急いだ。
走らない。
でも、急ぐ。
このあたりの加減も、前より少しだけ身体に入っている。
下の廊下の角を曲がると、案の定、お絹がいた。
二人の女中に挟まれるようにして立ち尽くしている。
昨日の者たちとは違う顔だ。
だが、やり方はよく似ていた。
「ですから、わたしは何も……」
お絹の声は細い。
その細さに、女中たちはなおさら“やさしい顔”を向ける。
「そんなに怖がらなくても」
「ただ聞いているだけよ」
「志乃さんと同じ部屋なら、最近のこと、少しはご存じでしょう?」
「し、知りません……」
「まあ、でも、お近くで見ていれば何かわかることもあるでしょうに」
もうひとりの女中が、声を少しだけひそめる。
「将軍さまのお耳に入ったとか、春日局さまのお気に入りだとか、いろいろ聞こえるものだから」
その“いろいろ”が、どれほどいやらしい言葉かわたしは知っている。
はっきり悪いとは言わぬまま、相手の返事だけを引きずり出す言い方だ。
「お絹」
わたしは声をかけた。
三人の視線が一斉にこちらを向く。
「志乃さん……」
お絹の顔に、見るからに安堵が広がる。
その表情を見た瞬間、胸の内で何かが決まった。
わたしはゆっくりと近づき、女中たちへ深く礼をした。
「お声をかけてくださっていたのですね」
「ええ、少しだけ」
女中のひとりが笑う。
「でも、お絹さんがあまりに怖がるものだから」
「この方はまだ、慣れぬことばかりにございます」
わたしは穏やかに答える。
「もしわたくしに関わることであれば、どうぞわたくしへ」
「まあ」
もうひとりが目を細める。
「ずいぶんと庇うのね」
「庇う、というより」
ここだ、と感じた。
強く出ればいけない。
かといって、曖昧に笑って引き下がってもいけない。
「この方は、何も知らぬままにお尋ねを受けております」
声を落ち着かせる。
「それではお答えのしようもございません」
「でも、同じ部屋なのでしょう?」
「はい」
「なら、何かしら感じることは」
「感じることと、申せることは違います」
女中たちの目が、ほんの少し変わった。
こちらがただ平伏して引き取るだけではないと知った目だ。
「わたくしに関わることでございましたら、わたくしがうかがいます」
もう一度、同じ形で言う。
「お絹を困らせてまでお聞きになることではないかと」
最後の一言は、かなりぎりぎりだった。
責めてはいない。
だが、“あなたがたは困らせている”という事実だけは、きちんと場に置いた。
女中のひとりが、かすかに笑う。
「まあ。ずいぶんと口が回るようになったのね」
「恐れ入ります」
「でも、お絹さんのことを思うなら」
もうひとりが、わざとらしいほどやさしい声を出す。
「あなたのほうが、少し目立ちすぎないようになさったら?」
胸の奥に、ひやりと冷たいものが走る。
これが本題だ。
お絹を責めているのではない。
“同室の娘を守りたいなら、あなたが少し下がればいいでしょう”という形で、わたしへ膝を折らせたいのだ。
けれど、ここで怯めば、お絹の前でわたしが引くことになる。
それは違う。
「目立つつもりはございません」
静かに言う。
「ただ、いただいた役目を違えぬようにしているだけにございます」
「そう」
女中たちは一瞬黙った。
その沈黙の中で、こちらの立ち方が問われているとわかった。
「なら、せいぜい同じ部屋の娘まで巻き込まぬよう、お気をつけなさい」
そう言い残し、二人は去っていった。
足音が遠ざかるまで、わたしは背筋を崩さなかった。
完全に見えなくなってから、ようやくお絹のほうを見る。
「ごめん」
「い、いえ……」
お絹は何度も首を振る。
「助かりました」
「でも、怖かったでしょう」
「はい」
「もう、こういうのはたぶん増える」
「……はい」
お絹は唇を噛んだ。
「でも、わたし」
その声は小さいが、昨日までより少しだけ芯があった。
「守られてるだけ、みたいなのは嫌です」
その言葉に、わたしは少し驚いた。
けれど、すぐに胸の奥が温かくなる。
「うん」
「だから……すぐには無理でも、何か言われたら、あとでちゃんと伝えます」
「それで十分」
「あと……」
お絹は少しだけ目を伏せる。
「志乃さんが、わたしの前に出てくれたの、嬉しかったです」
その一言で、泣きそうになる自分がいて、困った。
泣いてはいけない。
大奥では、嬉しさも、救われた気持ちも、あまりに素直に出すと足を取られる。
でも、それを胸の奥で抱えることまでは、誰にも止められない。
そのあとお絹を送り出し、わたしは持ち場へ戻った。
途中でおまさどのがちらりとこちらを見た。
「どうでした」
「前に出ました」
「ええ」
「でも、ただ引き取るのではなく、“お絹は何も知らぬままに尋ねられている”と」
「そう」
おまさどのは少しだけ頷く。
「それでよろしい」
「よろしい、でしょうか」
「庇うのではなく、境を引いた」
その言い方に、胸の内が少しだけ落ち着く。
「それなら、お絹もただ守られる娘では済まない」
「……はい」
「あなたが全部を背負おうとすると、周りはかえって弱くなるわ」
「気をつけます」
「ええ。気をつけなさい」
昼の休憩でそのことを雪江へ話すと、彼女は腕を組んでため息をついた。
「やっぱり来た」
「うん」
「お絹を先に崩しに」
「そう」
「でも、よく前に出たわ」
「出るしかなかった」
「ええ。それでいいのよ」
雪江は真面目な目をした。
「あなたが守るために全部を引き取ると、お絹はずっと“守られる娘”のままになる」
「うん」
「でも今日のは違う。境を引いて、お絹をその外へ出した」
「おまさどのも、そう言ってくれた」
「なら合ってる」
雪江は小さく笑う。
「やっぱり最近のあなた、少しずつ手が増えてる」
「手?」
「戦い方よ」
その言葉を、わたしは胸の中で何度か転がした。
守られるだけの娘ではいたくない。
それは、わたしだけの話ではないのかもしれない。
お絹も。
雪江も。
それぞれのやり方で、この大奥の中で“ただ押されるだけではない立ち方”を探し始めている。
午後の仕事を終えて部屋へ戻るころには、身体も頭も疲れていた。
でも、その疲れの中に、昨日までとは少し違う感触があった。
綾姫さまたちの噂は、これからもっと巧みに広がるだろう。
わたしひとりでは止められない。
けれど、周りを巻き込まぬよう縮こまるだけでは、きっと何も守れない。
だったら、前に出る。
ただし、自分ひとりが盾になるのではなく、境を引くために。
夜、布団へ入ってからも、お絹の「守られてるだけ、みたいなのは嫌です」という言葉が耳に残っていた。
その小さな声には、たしかにひとつの火があった。
大きくはない。
揺らぎもする。
でも、それは自分で立とうとする火だ。
わたしは目を閉じたまま、胸の中で静かに思った。
大奥は、人を弱くする場所ではある。
けれど、弱いままでいさせてくれる場所でもない。
守られるだけの娘では、いずれ誰かの都合で押し流される。
だったら、わたしも、お絹も、雪江も、それぞれのやり方で立つしかない。
それがどれほど小さな立ち方であっても。
その思いを胸に抱きながら、わたしは静かな眠りへ落ちていった。




