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『日本の後宮・大奥に咲く花――虐げられた娘は将軍家光に見出され、私を嗤った女たちを見返していく』  作者: 御上常陸介寛浩


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第二十二話 おまさ、娘の手元を見る

朝の光は、まだ薄かった。


 雨上がりの名残をわずかに含んだ空気が、障子の向こうから静かに入り込んでくる。

 湿り気のある朝は、花の匂いも木の匂いも、少しだけ深くなる。

 大奥へ上がったばかりの頃のわたしなら、ただその美しさに目を奪われていただろう。

 けれど今は違う。

 匂いの深さも、空気の重さも、その日どんな調子で人が動くかを教えるもののひとつとして感じるようになっていた。


 昨夜、お絹の「守られてるだけ、みたいなのは嫌です」という言葉が胸に残っている。

 守られるだけではいたくない。

 それはわたし自身の気持ちでもあるし、この大奥で生きる娘なら、いずれ誰もがどこかで突き当たる思いなのかもしれなかった。


 帯を締めながら、雪江がちらりとこちらを見る。

「今日は少し顔色がましね」

「そう?」

「ええ。昨日みたいに、周りを気にしすぎてる顔じゃない」

「少しだけ、慣れたのかもしれない」

「慣れたんじゃなくて、諦めがついただけだったりして」

「それは嫌」

「でも、大奥では大事よ。全部をどうにかしようとしないこと」

 雪江は肩をすくめた。

「あなた、最近そこが少しわかってきたでしょう」

「うん」

「なら今日は、もう少し手元を見なさい」

「手元?」

「そう。噂とか綾姫さまたちのことも大事だけど、今のあなたに一番要るのは“仕事で崩れないこと”だから」

 その言葉に、わたしは静かに頷いた。


 たしかにその通りだった。

 綾姫さまたちの敵意は、いまや前提としてそこにある。

 それを気に病みすぎて手元を乱せば、結局は向こうに与える餌が増えるだけだ。


 朝の割り振りのあと、おまさどののもとへ出ると、今日はすでに机の上へいくつかの香具と小さな花器が並べられていた。

 いつもの控えの間の見回りとは少し違う配置だ。

 見た瞬間、胸の奥がぴんと張る。


「志乃」

「はい」

「今日は、見回りの前にこちら」

「はい」

 おまさどのは花器をひとつ指先で示した。

「あなた、最近少しだけ“気づく”ようにはなった」

「はい」

「ですが、気づくことと、扱えることは別」

「……はい」

「今日は手元を見ます」

 その一言で、背筋が伸びた。


 手元を見ます。

 花の良し悪しを見るのではない。香の知識を問うのでもない。

 触れ方、置き方、差し方、戻し方、そういう“仕事そのもの”を見るという意味だとわかった。


 おまさどのはまず、細身の花器と数本の枝をわたしの前へ置いた。

「この部屋に置くつもりで整えなさい」

 視線で示された先は、実際の部屋ではなく、簡素に整えられた小さな台だった。

 けれど、そこにどのような部屋を想定しているかは、少し考えればわかる。

 控えめで、物が多すぎず、気の張る場ではないが、気を抜いてよい場でもない。

 たぶん、上役女中たちが短く腰を下ろすための小さな控えの場だ。


 わたしは枝を手に取り、一本ずつ見た。

 白。

 薄い青。

 やわらかな緑。

 花そのものに強い主張はない。

 ならば、整える側が過剰な形を作ればすぐに浮く。


 枝の長さを見、器の口の狭さを見、光の入り方を頭の中で想像する。

 そこで、おまさどのの声が飛んだ。


「考えすぎない」

「……はい」

「考えるのは大事。でも、考えて手が止まるのは下の娘のすること」

「申し訳ございません」

「謝るより手を動かしなさい」


 そうだった。

 下の雑務まわりでは、“失敗しないために考える”ことが優先だった。

 だが今は違う。

 考えながらでも、手を止めずに進めなければならない。


 わたしは一本目の枝を取った。

 白を高くしすぎない。

 緑で受け、青を細く添える。

 器の口が狭いぶん、抜けを失えばすぐに苦しくなる。


 差し終えたところで、おまさどのが言った。

「何が見えていた?」

「……静かな部屋です」

「それは花の感想ではなく、部屋の気配ね」

「はい」

「よろしい。では、なぜその白を先に立てたの」

「最初に目へ入る芯を作りたかったからです」

「芯は強すぎませんか」

 わたしは花器を見た。

 たしかに、少しだけ高い。

 部屋の静けさに対して、白がひと呼吸ぶんだけ前へ出すぎている。


「……出すぎております」

「なら」

「落とします」


 枝を抜き、ほんの少しだけ切る。

 その手元を、おまさどのはじっと見ていた。


 切り口。

 差し直す角度。

 抜いた枝を置く位置。

 どれも見られているとわかる。

 思えば、これまでわたしは“何を選ぶか”には気を配ってきたが、“どう手を使っているか”をここまで見られるのは初めてだった。


 直したあと、おまさどのは短く言った。

「ましになりました」

「ありがとうございます」

「だから礼は早い」

 それはもう、おまさどのの口癖だった。

 だが、その口癖の中にある温度の違いが、最近は少しわかるようになってきている。


 次に出されたのは香具だった。

 灰の入った香炉と、香木、香匙。

 おまさどのは自ら手本を見せるのではなく、まずわたしにやらせる。


「この場に置くつもりで」

「はい」

「香は強くせず、でも死なせない」

「はい」


 これが難しい。

 花と違い、香は目に見えない。

 手を入れた瞬間に形が崩れることもあれば、まったく変わらないようでいて、時間を置いてから違いが出ることもある。


 わたしは香匙を取り、灰を少しだけならした。

 その瞬間、おまさどのの声。


「手首」

「え」

「力が入りすぎ」

 はっとする。

 自分では丁寧にやっているつもりでも、緊張すると手元が硬くなるのだ。


「香は、怯えた手で扱うと死にます」

 おまさどのは静かに言う。

「花も同じですが、香はもっと露骨よ」

「……はい」

「見ているものが正しくても、手が怯えていれば、出てくるものは窮屈になる」

 その言葉は、香の話だけでなく、もっと別のことまで言っているように聞こえた。


 怯えた手。

 怯えた心。

 この大奥で、最近のわたしはたしかにそれを抱えていた。

 綾姫さまたちの敵意を意識するあまり、手まで固くなることがあるのだろう。


「もう一度」

「はい」


 今度は、呼吸をひとつ落としてから手を伸ばす。

 灰の表面を崩しすぎず、香木が息をしやすい程度に空気を通す。

 すると、おまさどのが初めて何も言わずに見ていた。


 しばらくしてから、香が細く、静かに立った。


「……今度は」

 おまさどのが言う。

「悪くない」

 胸の奥に、じわりと熱が広がる。

「ありがとうございます」

「それでもまだ、あなたの香です」

「わたくしの、香」

「ええ」

 おまさどのは花器へも視線を向けた。

「まだ“この部屋のため”というより、“うまくやろうとするあなた”が少し見える」

 その言葉は鋭かった。

 だが、ひどく腑に落ちた。


 たしかにそうだ。

 わたしは最近、失敗せぬことに気を取られすぎている。

 この部屋のため、この場のために整えるというより、“正しく整えられる自分でありたい”気持ちが前へ出てしまっていたのかもしれない。


「覚えておきなさい」

 おまさどのは言った。

「上へ近づく娘ほど、自分がどう見えるかを気にしすぎます」

「……はい」

「でも、本当に必要なのは、あなたではなく、その場がどう見えるかです」

「はい」

「花も香も、人も同じ」

 その一言で、胸の中の何かがすっと整った気がした。


 それからおまさどのは、盆の持ち方、襖の引き方、座る位置、立ち上がる順序まで、細かく見た。

 どれもこれも、ただ型をなぞるだけでは済まない。

 花と香を整える娘として、その場にどんな空気を持ち込むかまで含めて試されているのだ。


 昼近くになってようやくひと息ついたときには、肩も指もじんじんしていた。

 下の雑務の頃の疲れとはまるで違う。

 身体の芯より、神経のほうが先に削れていく。


「疲れた顔をしてる」

 昼の休憩で雪江にそう言われ、わたしは苦笑した。

「疲れた」

「でしょうね」

「花を見られるんじゃなくて、手元を見られるのって、あんなに疲れるんだね」

「へえ」

 雪江が興味深そうに目を細める。

「何を言われたの」

「“怯えた手で扱うと、香は死ぬ”って」

 雪江が一瞬黙る。

「……なるほど」

「どうしたの」

「いや」

 彼女は箸を持ったまま、少しだけ考える顔をした。

「それ、仕事の話だけど、たぶん仕事だけじゃないわね」

「そう思う?」

「思う」

 雪江は頷く。

「最近のあなた、綾姫さまたちを気にしすぎてる時があるもの」

「……うん」

「仕方ないけどね」

 そう言ってから、雪江は少し笑った。

「でも、おまさどのって、やっぱりよく見てる」

「怖いくらいに」

「それでいいのよ。怖い先生は、あとでいちばん効くから」

 お絹もこくこく頷いている。

「志乃さん、でも少し、嬉しそうです」

「嬉しそう?」

「はい」

「そうかな」

「うん。疲れてるけど、前より……迷ってない感じ」


 その言葉に、自分でも少し驚いた。

 たしかに、疲れてはいる。

 でも、以前のような“何をすればいいのかわからぬまま削られる疲れ”ではない。

 いまは、教えられ、試され、修正できる疲れだ。

 それはしんどいが、ただ苦しいだけではない。


 午後には、おまさどのの言葉を意識しながら、控えの間の花器を一つ整え直す機会があった。

 白と青の取り合わせ。

 以前なら“自分がうまくできたか”が気になっただろう。

 けれど今は、その部屋へ入る人の足音や、今日の空気の静けさまで一緒に思い浮かべる。


 この部屋は、考えごとの多い人が腰を下ろすだろう。

 ならば、花は引きすぎても寂しい。

 でも前へ出すぎれば、そこにある“考え”を邪魔する。

 少しだけ、受ける形。


 整え終えたところで、おまさどのが後ろから言った。

「……よろしい」

 短い。

 だが、その一言が午後いっぱい胸を温めた。


 日が少し傾いたころ、おまさどのがぽつりと言った。

「近いうちに、春日局さまの前へ出す花を一部、あなたにも触らせます」

 その言葉に、わたしは一瞬だけ息を止めた。

「わたくし、に」

「ええ」

「ですが、まだ」

「まだ足りないところだらけでしょうね」

 おまさどのは淡々としている。

「だから触らせるのです」

 それは励ましではなく、さらなる試しの告知だった。

 けれど、胸の奥にはたしかに熱が走った。

「……承知いたしました」

「浮つかないこと」

「はい」

「喜びすぎるのも、怯えすぎるのも、どちらも下手のすることです」

「はい」

「ただ、準備はしなさい」

 その言葉を、わたしは胸の奥深くへしまった。


 夜、部屋へ戻ってからも、おまさどのの言葉は何度も頭の中を巡った。


 手元を見る。

 怯えた手では、香は死ぬ。

 自分がどう見えるかではなく、その場がどう見えるか。

 そして、近いうちに春日局さまの前へ出す花を触ることになるかもしれない、ということ。


 布団へ入るころには、疲れの中に小さな緊張と、ほんの少しの嬉しさが混ざっていた。

 まだ褒められたわけではない。

 まだ試しの途中だ。

 けれど、おまさどのは確かにわたしを“育てる対象”として見始めている。


 それは、綾姫さまたちの敵意とは別の重さだった。

 押し返そうとする力ではなく、こちらがどこまで伸びるかを見定めようとする厳しさ。

 その厳しさに応えたいと思う自分がいる。


 守られるだけの娘ではいたくない。

 それはお絹の言葉だった。

 けれど今夜、その言葉はわたしの中でも少し違う形を取っていた。


 見られるだけの娘でもいたくない。

 試されるなら、応えたい。

 上へ近づくなら、それにふさわしい手と目を持ちたい。


 その願いを胸に抱きながら、わたしはゆっくりと目を閉じた。

 明日もきっと、綾姫さまたちの視線は冷たいままだろう。

 噂も、敵意も、消えはしない。

 でも、その中で、自分の手元を少しずつ確かにしていくしかない。


 そう思うと、不思議と呼吸は静かだった。

 怖さはある。

 けれど、怖さの中に、前へ進む道の細さまで見え始めている。

 それだけで、最初の日々よりずっとましなのだと思えた。

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