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『日本の後宮・大奥に咲く花――虐げられた娘は将軍家光に見出され、私を嗤った女たちを見返していく』  作者: 御上常陸介寛浩


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第二十話 口の軽い女は、刃より危うい

雨は夜のあいだに上がったらしい。


 朝、障子を透かして入る光は白く、濡れた庭の気配をまだ薄く残していた。土の匂いと、洗われた葉の青さが、花や香の向こうから静かに忍び込んでくる。

 こういう朝は、空気が澄んでいるぶんだけ、言葉の濁りがよく目立つ。

 理由もなく、そんなことを思った。


 布団を畳みながら、昨夜の雪江との話を反芻する。


 悔しい。

 でも、その悔しさは人を引きずり落とすためのものではなく、自分もそこへ立ちたいと願う火だ。

 あの言葉を聞いてから、胸の奥の何かが少しだけ整った気がしていた。

 大奥の女たちは、誰も彼も同じように微笑んでいるわけではない。

 その笑みの裏にあるものの色を見分けねばならない。

 綾姫さまたちの冷えた敵意と、雪江の正しい悔しさは、同じ“痛み”を含んでいても、まるで別のものなのだ。


 それを知った朝だったのに、なぜだか胸の内は晴れていなかった。


 むしろ、今日は何か別のものが来る――そんな感覚があった。

 物を動かされるのとは違う何か。

 目に見える乱れより、もっと扱いにくいもの。


「今日の顔、また少し固いわね」

 雪江が支度をしながら言った。

「そう?」

「ええ。何か来る気がしてる顔」

 図星だったので、わたしは苦く笑う。

「そんなにわかりやすい?」

「最近は少しわかる」

「嫌な感じ?」

「うん」

 雪江はきっぱり頷いた。

「でも、帳面でも花器でもない気がする」

「どうして」

「昨日までで、“手元のものを崩す”のはやりにくいって向こうも気づいてる」

「……」

「なら次は、もっと曖昧なところを来るはず」

 そう言ってから、雪江は少しだけ目を細めた。

「たとえば、口」


 その一言が、その日のすべてを先取りしていた。


 朝の割り振りはいつも通りに見えた。

 わたしは上役女中補佐に近い持ち場で、控えの間の花と香の見回り。

 雪江は布の受け渡し補助。

 お絹は下の雑用まわり。

 だが、廊下へ出た瞬間から、空気の質が昨日までとは少し違っていた。


 視線が、やわらかい。


 それは歓迎のやわらかさではない。

 妙に遠回しで、妙に親しげで、だからこそ不気味なやわらかさだ。


「おはようございます」

 いつもならそっけなく返される女中が、今日はやけににこやかだ。

「志乃さん、おはよう」

「……おはようございます」

「最近、お忙しいのですってねえ」


 その“忙しい”に、ただの仕事量以上の意味が乗っているのを感じた。

 わたしは深く踏み込まず、いつも通り頭を下げて通り過ぎる。


 次の廊下の角でも同じだった。


「あら、志乃さん」

「はい」

「春日局さまのあたりへよく出入りなさるとか」

「お役目でございますので」

「まあ、そうでしょうね」

 相手は笑っている。

 だが、その笑いはわたしを見ているのではなく、わたしに付いた“何か”を見ている笑いだった。


 胸の奥に、冷たいものが落ちる。


 これだ。

 雪江の言っていた、“口”で崩すやり方。


 まだ何も決定的なことは言われていない。

 けれど、十分だった。

 人は誰かを貶めるとき、最初からはっきり悪くは言わない。

 ただ「そうらしい」「聞いたことがある」「皆もそう思っているのでは」と、曖昧な形で置く。

 その曖昧さに、人は勝手に意味を足していく。


 午前の見回りで控えの間へ入っても、いつもより小さな囁きが耳についた。


「将軍さまに名を呼ばれたんですって」

「ええ、香の件で」

「まあ……」

「春日局さまにも気に入られて」

「そういう娘って、たいていあとが早いのよね」

「でも、下から急に上がるなんて、珍しいでしょう?」


 障子一枚隔てた声。

 聞かせるつもりはないふりをして、聞こえるように落とされる言葉。


 わたしは花器の前で膝をついたまま、枝の向きに手を添えた。

 指先は震えていない。

 けれど、胸の内だけがじわじわと冷えていく。


 物を崩されるほうがまだましだ。

 直せるから。

 なくなった帳面も、小皿も、向きを違えられた花器も、目と手でどうにかできた。


 けれど、噂は違う。

 誰が最初に言ったのかも見えず、どこまで広がったかもわからない。

 否定しようとすればするほど、“そんなに気にするなんて図星なのでは”と形を変える。


 口の軽い女は、刃より危うい。


 その意味を、ようやく骨で理解した。


 おまさどののもとへ戻ると、わたしの顔を見ただけで何かを察したらしい。

「何か耳へ入りましたか」

「……はい」

「どんな」

「将軍さまにお声をかけていただいたこと、春日局さまのお近くへ回されたこと、それを面白がるような……」

 言いながら、声の置き方を整える。

「直接の悪口ではありません。ただ、“そういう娘らしい”という形で」

 おまさどのは頷いた。

「始まったのね」

「はい」

「泣きそう?」

「少しだけ」

「それでいいわ」

 わたしは思わず顔を上げた。

「いい、のですか」

「平気なふりをして気づかぬほうが危ない」

 おまさどのは淡々と言う。

「噂は、刃のように一度で斬りません。薄い紙で何度も撫でてくる」

「……」

「傷ついたと自覚できるうちは、まだ対処できる」

 その言葉に、胸の中の冷たさが少しだけ形を持った。


「どうすればよろしいでしょう」

「いちいち拾わないこと」

「はい」

「でも、誰にまで及んでいるかは見ること」

「誰にまで」

「ええ。あなたひとりを面白がるだけでは終わらないわ。次は“あの娘と近い者も同じだ”という空気を作る」

 その言葉に、昨夜の雪江の警告がよみがえった。

「雪江と、お絹……」

「そう」

 おまさどのは花器へ目を落としたまま続ける。

「物の妨害が通りにくくなったなら、次は関わる人間を遠ざける。よくあることです」

「……はい」

「あなたができるのは、まず仕事を崩さぬこと。そして、噂を否定するために余計な熱を見せぬこと」

「はい」

「ただし、同室の娘たちにだけは目を配りなさい。巻き込まれていることに気づかぬうちが、一番傷みます」

「承知いたしました」


 午前の終わりが近づいたころ、その“巻き込み”は早くも目に見える形になった。


 下の雑用の通り道で、お絹が二人の女中に囲まれていた。

 囲まれていると言っても、壁際へ追い詰められているわけではない。

 ただ、やわらかい顔で左右に立たれ、逃げるほどではない距離のまま、小さく問いを重ねられている。


「お絹さんって、志乃さんと同じ部屋なのでしょう?」

「は、はい……」

「最近、遅くまでいらっしゃるの?」

「え……」

「春日局さまのあたりのこと、いろいろご存じなのではなくて?」

「そ、その……わたしは……」


 お絹の声が細く震えている。

 このやり方も、よくできていた。

 責めているわけではない。

 ただ“仲がよいなら何か知っているでしょう”と、親しげに問うだけ。

 だが、お絹のように気の弱い娘には、それで十分に圧になる。


 わたしは足を止め、胸の内でひとつ息を整えた。


 前ならどうしただろう。

 遠くから見て、終わるのを待ったかもしれない。

 あるいは、どう入ればいいかわからず、立ち尽くしていたかもしれない。


 けれど、いまは違う。


「お絹」


 声をかけると、三人ともこちらを見た。

 お絹の顔が、ひと目で“助かった”と告げている。


「志乃さん」

「お声をかけられていたのですね」

 わたしは二人の女中へ向き直り、深く礼をする。

「もし何かございましたら、わたくしがうかがいます」

「まあ、わたしたち、ただ少しお話をしていただけですのよ」

 ひとりが笑う。

「ええ、もちろん」

 わたしも崩さず答える。

「ですが、お絹はまだ新しい場に慣れぬところもございますので。わたくしからでよろしければ」

 もうひとりの女中が目を細める。

「同室の娘を庇うのね」

「庇う、というほどでは」

 言葉を慎重に置く。

「ただ、何かあれば、まずはわたくしが承るのが筋かと存じます」

「筋、ですって」

 くすり、と笑われる。

 けれど、その笑いは先ほどまでお絹へ向いていたものより明らかに温度が低かった。


「まあ、そういうことなら」

 ひとりがわざとらしく頷く。

「でも、お絹さん。あまり難しいことに巻き込まれないようになさいね」

「は、はい……」

「お部屋の方のお付き合いも、ほどほどがよろしいこともありますから」

「……」


 それだけ言い残し、女中たちは去っていった。


 残されたお絹は、すぐには顔を上げられなかった。

 肩が小さく震えている。

 わたしは彼女の前にしゃがみ込む。


「ごめんね」

「ち、違います」

 お絹は慌てて首を振る。

「志乃さんのせいじゃ……」

「でも、わたしの噂があるから」

「それは、そうかもしれないけど……でも」

 お絹はようやく顔を上げた。

「助かりました」

 その言葉が、胸の奥にじんと沁みた。


「もう、ひとりで受けないで」

 わたしは静かに言う。

「何か言われたら、あとでいいから教えて」

「はい……」

「怖かったでしょう」

「はい」

「ごめん」

「……でも」

 お絹は少しだけ困ったように笑った。

「志乃さん、前より、すぐ来てくれるようになりました」

 その一言で、目の奥が少し熱くなった。


 昼の休憩でそのことを雪江へ話すと、彼女はすぐに顔をしかめた。

「もう来たの」

「ええ」

「早いわね」

「お絹に直接」

「でしょうね」

 雪江は箸を置く。

「あなたじゃなくて、お絹から崩そうとしたのよ」

「うん」

「“同室で仲がいいと面倒になる”って空気を植えつける」

「そう」

 わたしは頷く。

「だから、先にわたしが前へ出た」

「正解」

 雪江はきっぱり言った。

「お絹がひとりで受けて、あとで黙って泣く形が一番まずい」

 お絹が少しだけ身を縮める。

「す、すみません」

「謝らなくていいの」

 雪江がすぐに言う。

「こういうのは、あなたが弱いからじゃない。向こうがそこを選んでるだけ」

「……はい」

「だから、志乃」

「なに」

「もう“わたしだけが耐えればいい”はなしよ」

「うん」

「だったら、最初から三人で抱えたほうがいい」

 三人で。

 その言葉が、妙に力強く聞こえた。


 午後、廊下を歩くたびに、わたしは人の声の温度をいっそう気にするようになった。

 誰が、どの話を、どのくらい軽く言っているか。

 誰が面白がり、誰が距離を置き、誰が様子を見ているか。

 噂は目に見えない。

 だからこそ、広がり方を見なければならない。


 その途中、綾姫さまと行き合った。


 綾姫さまは今日も、完璧に美しかった。

 だが、その美しさは前よりも少しだけ“刺すための美しさ”に見える。


「志乃さん」

「はい」

「最近、お忙しいこと」

「皆さまのお役に立てますよう、務めております」

「ええ、そうでしょうね」

 綾姫さまはやわらかく微笑む。

「でも、あまり周りまで巻き込まないほうがよろしくてよ」

 胸の奥が、すっと冷えた。

「……何のことでございましょう」

「まあ」

 綾姫さまは袖口を整える。

「同じ部屋の娘たちまで、あれこれ言われて気の毒だと思っただけですわ」

「お気遣い、恐れ入ります」

「いいえ、本心よ」

 その“本心”ほど信用ならぬものもない。

「人は、自分ひとりで立っているつもりでも、気づかぬうちに周りを振り回してしまうもの」

 綾姫さまの視線が細くなる。

「まして、急に目立つ場所へ置かれた花なら、なおさら」


 わたしは深く頭を下げた。

 返したい言葉はいくつもあった。

 けれど、ここで熱を見せてはならない。


「肝に銘じます」

「ええ、そうなさい」

 綾姫さまは微笑む。

「せっかく整えた花も、周りの枝を折ってしまえば、見苦しいだけですもの」


 そのまま去っていく後ろ姿を見送りながら、わたしは胸の内を必死に静めた。


 怒りより、悔しさより、はっきりとわかったことがある。

 綾姫さまたちは、もうわたし本人を削るだけでは足りないのだ。

 わたしの周りにいる者を遠ざけ、孤立させたい。

 それがいまのやり方なのだ。


 ならば、こちらも変わらなければならない。


 夜、部屋へ戻ると、わたしは二人へ向き直った。

「これから、何か言われたらすぐ話して」

 雪江は頷く。

「ええ」

 お絹も小さく、しかししっかり頷いた。

「はい」

「わたしも、二人に隠さないようにする」

 雪江が少しだけ笑う。

「やっと覚えたのね」

「遅かった?」

「少し」

 でも、その目は優しかった。


 布団へ入って目を閉じると、綾姫さまの言葉がまだ耳に残っていた。


 周りまで巻き込まないほうがいい。

 それは脅しでもあり、事実でもある。

 この大奥では、ひとりの娘の立ち位置が、同室の娘たちや周りの女中たちにまで影を落とす。


 けれど、だからこそ、もうひとりでは戦えないのだと思った。

 黙って守るだけではなく、話して、備えて、同じ方向を見る。

 それができなければ、噂のような曖昧な刃には勝てない。


 口の軽い女は、刃より危うい。

 でも、軽い口に対抗するのは、ただ黙ることではない。

 たぶん、自分の側にいる人間と、曖昧さを減らしていくことなのだろう。


 雨上がりの夜気は、少しだけ冷たかった。

 けれど胸の底には、ひとつはっきりしたものが残っていた。


 大奥の戦いは、花や香や物のやり取りだけではない。

 言葉の温度、噂の流れ、人と人の距離――そういうものまで含めて、自分の居場所を守らなければならない。


 ならば、次はそこを学ぶしかない。


 わたしは布団の中でそっと目を閉じた。

 明日もきっと、静かな顔をした悪意はやってくる。

 でも、もう前より少しだけ、その形が見えている。

 それだけでも、最初の日々よりはずっとましだと思えた。

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